2019年5月5日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書55章2節
    マタイによる福音書6章24〜30節
●説教 「悩みのない人」

 
 本日の説教題は、「悩みのない人」という題をつけてみました。たしかに、悩みの無さそうな人はいます。私は岡山での学生時代、よく友人から「小宮山、おまえ悩みないやろ?」と言われました。もちろん、実際に悩みがないなんてことはなかったんです。いろいろ悩みはあったんです。もちろんそんなことは友人もよく分かっていて、「悩みないやろ」という言い方は、人を小馬鹿にした、しかし同時に愛情ある言葉であったわけですけれど。
 本当のことをいえば、悩みのない人というのはいないと思います。たとえ今悩みがなかったとしても、危機が訪れる、あるいは困難な問題に突き当たった時には、誰でも悩むでしょう。逆に、毎日毎日悩みの中にいてストレスで押しつぶされそうだという方もおられることでしょう。
 そうしますと、悩みのない人というのは、ふつうに考えれば悩んでも良さそうなのに、悩まない人ということになります。もう少し言えば、かつては悩んでいたけれども、今は同じような問題が起こっても悩まなくなったという、そのような人のことであります。
 
    二人の主人に仕えることはできない
 
 最初の24節の「神と富」と、この聖書で見出しがついている個所があります。今日はその24節から30節までを続けて読んでいただきました。それは、24節は、やはりそのあとの25節からの個所につながっていると思うからです。
 その24節でイエスさまがおっしゃったのは、「だれも、二人の主人に仕えることはできない」ということです。もう少し詳しく言うと、「誰も、同時に二人の主人に仕えることはできない」という意味になります。
 二人の主人に同時に仕えることはできない。たとえば戦国時代のことを考えてみましょう。徳川家康と豊臣秀吉の両方の家来であることはできません。あるいは織田信長と毛利輝元の両方の家来であることはできません。戦になれば、どちらの家来であるのか、はっきりさせなければなりません。そのように戦国時代は、誰を主君とするかで運命が決まりました。それゆえ、キリシタン大名として名高い高山右近も、大阪・摂津を領土としていた荒木村重の配下であった時、その荒木村重が織田信長に対して謀反を起こした時、困ったわけです。どちらに着くのか。それが運命を決めました。
 結婚もそうです。同時に二人の人と結婚することはできません。ですから、二人の主人に同時に仕えることはできません。
 
     神と富とに
 
 そしてきょうの聖書で、その二人の主人とは何かということですが、それは「神と富」であるというのです。すなわち、神を主人とするのか、それとも富を主人とするのか、いずれかであるということです。神と富については、一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかであると言われます。
 ここで言う「富」ですが、少し前の20節で「富は天に積みなさい」と言われていた、その「富」とは全く違う言葉がここでは使われています。20節の「富」は、むしろ「宝」、すなわち大切なものと訳したほうがよい言葉だと、あのとき申し上げました。しかしきょうの24節の「富」は、文字通りの富です。金銭、お金のことです。ですからここでは、あなたがたは、神さまとお金の両方を主人とすることはできないと言われているのです。
 「あなたがたは、神と富に仕えることはできない」とおっしゃっておられます。この「仕える」という言葉は、はっきり言えば奴隷として主人に仕えるという意味です。当時は奴隷制社会でした。そのことが良いとか悪いとかは全く別の問題です。そういうシステムだったのです。奴隷というと聞こえが悪いですから、しもべといたしましょう。家来でも良いのですが。とにかく、しもべとして主人に仕える。しかし、神と富に同時に仕えることはできないと言っておられるのです。
 そのように申しますと、「わたしは、神を主人にしているわけでもないし、お金を主人にしているのでもない。どちらも主人にしていない」という方が世の中には多いのではないかと思います。しかしそうでしょうか。神さまを信じていないから神さまは主人にしていないとして、そのとき本当にお金を主人としていないのか?‥‥と考えますと、実はお金が主人になっているということに気がつくのではないかと思います。お金を得るということが第一になっている。それは言い換えれば、お金のしもべになっているということであり、お金が主人となっているということでもあります。
 そうすると、「そんなことを言われても、生きていくためには仕方がない」と言われることでしょう。お金がなければ生きて行けないのが世の中です。しかしここでイエスさまは、お金がいらないとおっしゃっているのではありません。お金のしもべ、お金の奴隷にならない他の道があるということです。それが、神を主人とする、神のしもべとなる道であるということです。それで次の25節につながるわけです。
 
    思い悩むな
 
 「だから言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」
 何を食べようか、何を着ようかと思い悩む。しかしこの言葉は、多くの現代人には違った意味にとられるかもしれません。「今日の晩ご飯は何を食べようか、カレーライスにしようか、それとも肉ジャガにしようか‥‥」と思い悩むというようなことであると、誤解して受け取ってしまうかもしれません。着る物で言えば、「きょうは何の服を着ていこうか、この服にしようか、それともこちらの服にしようか、迷ってしまう‥‥」という具合にです。そのように、いろいろメニューや着るものがある中で、どれにしようか悩んでは成らないという言葉として聞いてしまう方が多いのではないかと思います。
 しかし実は全く違っています。この当時の庶民は、ほとんどが貧しかったんです。蓄えなどない。その日暮らしの生活です。食べるものを選んでいるような余裕がないんです。着るものと言えば、一張羅というような状態です。有名な画家ピカソは大成功して多くの富を得ましたが、そんな彼でも若い頃貧しかった時代があったそうです。貧しくて、夫婦二人で外出用のズボンが一つしかなく、夫婦で一緒に外出することができなかったそうです。そこまでとは言いませんが、イエスさまの時代の多くの庶民は貧しかった。
 ですから、何を食べようかと思い悩むというのは、お米がなくなってしまった、それを買うお金もない、どうしよう!‥‥というようなことです。何を着ようかと思い悩むというのも、着るものが破れてしまった。かといって、服はそれしかない。どうしよう、と思い悩むというような状態です。そういう貧しさに直面したら、誰だって思い悩まずにはおれないでしょう。
 にもかかわらず、イエスさまは、「思い悩むな」とおっしゃるんです。それは驚くべきことです。どうしてそんなことが言えるのか? その根拠は何か?
 そうするとイエスさまは、人々の目を空の鳥に向けさせる。「空の鳥をよく見なさい」とおっしゃる。よく見なさいというのは、どうやって生きているかをよく見なさいということのようです。たしかに鳥は、種を蒔くことも刈り入れもしません。何も心配しないで生きているという。そしてそれはなぜなのか? なぜ鳥は心配しないで生きているのか?‥‥それは天の父なる神さまが鳥を養っておられるからだ、というのです。
 鳥は勝手に生きているんじゃない。神さまが養っているのだと。私たちは、鳥は勝手に生きていると思っていないでしょうか。教会付近にもいろいろな鳥がやって来ます。冬はカモやオオバンやサギやウが田越川で魚などを食べ、この頃はセキレイやツバメが虫などを捕らえて食べている。それは勝手にそうしていると思っていた。しかしそうではないと言われるのです。鳥は、神さまが養っているとおっしゃるんです。驚きではありませんか? 
 そしてその鳥たちは、神さまを主人としている。神さまを全面的に信頼している。そして神さまが鳥を養っておられるように、あなたがたのことも生きて行けるようにしてくださるということです。
 
    鳥よりも価値ある
 
 イエスさまはおっしゃいます。「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」
 神さまは、鳥を養っていてくださる。そしてその鳥よりも、私たちは価値があると言われる。しかし私は、むかし持病がひどかった時に、呼吸が苦しくてよく眠れないで朝を迎えるということがよくありました。そうすると外で鳥のさえずりが聞こえる。鳥は自由に飛び回り、活動している。そのとき私は、イエスさまはこうおっしゃるけれど、自分よりも鳥のほうが価値があるではないかと思ったものです。また、何もかもうまくいかないようなことがあります。失敗ばかりくり返すというようなこともあります。他人に迷惑ばかりかけているように思われることもある。そうすると、自由にのびのびと生きている鳥のほうが価値があるように思えたりします。
 しかし、イエスさまはそうではないと言われるんです。「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」と!‥‥イエスさまがそうおっしゃるんです。「あなたは鳥よりも価値がある」と。本当にわたしは鳥よりも価値があるのか? あるんです。なぜなら、この言葉をおっしゃったイエスさまは、この私たちを救うために十字架にかかってくださったということが証拠です。イエスさまは、私たち一人一人を救うために、十字架にかかって命を投げ出してくださいました。ご自分の命を、私たちのために捨ててくださったんです。言い換えれば、私たち一人一人には、神の御子イエスさまが命を捨てても救う価値があると見てくださったということです。これを驚きと言わずに、何と言うでしょうか。
 イエスさまは、鳥を救うために十字架にかかられたのではないんです。私たちを、わたしを救うために十字架にかかられたんです。イエスさまは、十字架でご自分の命を私たちのために捨てることを念頭に置かれて、「あなたがたは、鳥よりも価値がある」「あなたは鳥よりも価値がある」と言ってくださるんです。
 それゆえ、鳥でさえも養っていてくださる神さまは、私たちを養ってくださるということです。野原に咲く花でさえ、神さまは美しく装ってくださる。ましてや、あなたがたが生きるために必要なものを与えてくださらないはずがあろうか。その神さまを主人とせよということです。その神さまを信頼せよということです。
 
    神に信頼する
 
 本当に神さまを主人として、神さまを信頼して良いのだろうか?と疑問に思われるでしょう。大丈夫です!というのがイエスさまの答えです。
 私も、かつて、来月どうやって生活しようか、という危機に陥ったことがありました。お金の宛てがないんです。借金は絶対にしないと心に決めていました。まさにスリルです。もうあとがないというギリギリの時になって、助けがありました。神さまの助けでした。正直言って、そのときは全面的に神さまを信頼しているとは言えませんでした。「神さま、本当に大丈夫なんですよね?私はあなたに従って仕事を捨てて献身したんですよ。本当に助けてくださるんでしょうね?」‥‥という不信仰との戦いでした。
 きょうの最後の言葉、30節です。「信仰の薄い者たちよ。」イエスさまに叱られています。しかし、イエスさまに叱られて、うれしいように思います。なぜなら、イエスさまは救うために叱ってくださるからです。父なる神さまを主人としたときに、神さまを第一とした時に、思い悩む必要がなくなる。感謝です。


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