2019年4月14日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編27編4節
    マタイによる福音書6章22〜23節
●説教 「心の窓」

 
    Jan Styka_Christ Before the Crucifixion
 
 今年も受難週を迎えました。各地で神の国の福音を宣べ伝えられ、病める者を癒やし、盲人の目を開けるなどの働きをして歩んでこられたイエスさまが、いよいよエルサレムの都に入られる。そのとき、弟子たちと群衆が、ロバの子に乗って進まれるイエスさまを迎えるために自分の服を道に敷き、棕櫚の枝を手に手に持って、「ホサナ」と言って歓声を上げた。その日のことを記念して、本日は教会の暦で「棕櫚の主日」と呼ばれています。そして今週の木曜日に、弟子たちと共に最後の晩餐の時を過ごされ、金曜日の朝に十字架にはりつけにされて死なれる。そのイエスさまの十字架への歩みを覚えて、今年もこの一週間を過ごしたいと思います。
 本日は最初に、一つの絵をご覧いただきたいと思います。この絵です。

この絵は、アメリカのカリフォルニア州グレンデール市のフォレスト・ローン記念公園墓地内にあるHall of the Crucifixionという建物の中の壁画の一部です。壁画全体はたいへん大きいもので、幅59メートル、高さ13.7メートルもある巨大なものだそうです。描いた人は、ヤン・スティカという人です。そしてこの絵はその一部分で、実際は、この絵のもっと外側にも絵が広がっていて、十字架の処刑場であるゴルゴタの丘がずっと広がって描かれていて、大勢の人が見物のために集まっており、地平線と空も描かれているものです。
 そしてこの絵は、私が輪島教会の信徒の方からいただいたものです。もちろん、印刷のものです。私がその信徒の方の家に伺ったとき、その絵がありました。私はそれを見て、たいへん心を動かされる思いがいたしました。すると彼が、「先生にあげますよ」と言うんです。それでいただきました。
 この絵を見ますと、これは処刑場であるゴルゴタの丘で、イエスさまが十字架にかけられる直前の場面になっています。このあとイエスさまは、そばに横たえられている十字架に、両手両足を釘で打ち付けられることになります。それを前にして立ったままイエスさまは、目を天に向けておられる。天の一個所を見つめておられるんです。それがたいへん印象的です。
 私が感動したのは、そこです。この絵を見て私は分かったことがあったんです。イエスさまは何を見て歩んでおられたかということが。ゴルゴタの丘に向かって十字架を担ぎながら、何をご覧になっていたか。十字架にかけられる前、何を見つめておられたか。そして十字架上で何をご覧になっていたか、ということがです。それは、ただ神を見つめておられたのだということにわたしは気がついたんです。
 もちろん、実際にはイエスさまの目には、十字架も入ってきたことでしょう。ローマの兵士たちや、集まっていた群衆の姿も見えたことでしょう。母マリア様の姿も見えたことでしょう。しかし、イエスさまがどこをむいておられたかといえば、それは天の父なる神さまの方を向いておられたのだということが、そのとき私ははっきり分かった。そういう絵でした。
 
    体のともし火は目
 
 きょうの聖書で、イエスさまは「体のともし火は目である」とおっしゃっています。
 「ともし火」というのはランプのことです。ランプと言っても、当時のものは、油を入れた陶器製の器に芯を入れて浸した簡単なもので、そこに火をともして「ともし火」としていました。ふつうはそれが庶民の唯一の明かりでした。
 ですから、「体のともし火は目である」と言われたとき、それは体を照らす明かりは目であると言っておられることになります。そして続けて「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい」とおっしゃっています。つまり、私たちの明かりは目であり、その目が澄んでいれば私たちの全身が明るいと、そうおっしゃっているわけです。
 しかし、これだけでは一体何をおっしゃっているのか、分かるようで分かりません。目がともし火、すなわち私たちの明かりであり、その目が澄んでいれば私たちの全身が明るいというのは、何を言っておられるのだろうか。なんとも不思議な言い方に聞こえます。
 そこで、まず私たちの目の役割を考えてみたいと思います。私たちの目は、どういう役割をするでしょうか?‥‥それはもちろん、ものを見るという役割です。目がなければどこに何があるのか分かりません。目はものを見て識別する役割をしています。このことを正確に言うと、光がものに当たって、その光が反射して私たちの目に飛びこんでくる。そしてそのものの形や色を識別する。たとえば、この壁面の十字架がなぜ私たちの目で見えるかというと、光がこの十字架に当たって反射して私たちの目に飛びこんでくるから見えるわけです。ですから、光が全くない状態、つまり夜になって、しかも照明をつけない状態だと何も見えません。
 そのように、光が私たちの目に入ってきて、ものが見えるわけです。目それ自体が明かり、ともし火なのではありません。言い換えれば、目は光の窓であると言うことができます。
 23節では「濁っていれば全身が暗い」と言われています。この「濁っている」という言葉は、ギリシャ語では「悪い」という言葉です。つまり「目が悪ければ全身が暗い」という意味です。目が悪ければものを見ることができません。だから暗い。
 さて、これらの言い方が、実際の私たちの肉眼の目のことを言っているのではないことは明らかです。これは、なにかを肉眼の目にたとえておられる言い方です。
 
     何を見るか
 
 肉眼の目ではないとしたら、それはわたしたちの心の目のことを言っているということになります。ただ、これは私たちの心が澄んでいるか濁っているかということではありません。私たちは罪人ですから、心は濁っています。そのことは、ただ今礼拝で読んでいる山上の説教を振り返ってみても分かることです。たとえばイエスさまは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とおっしゃいましたが、とてもそんなことはできないという自分の心があります。「誰かが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」といわれても、とてもそんなことは無理だという心があります。ですから、「心が澄んでいるならば」と言われたとしたら、それはもう絶望的です。
 しかし「心の目が澄んでいるならば」と言われたら、そこには希望が見えてきます。先ほど申し上げましたように、目は光の窓です。つまり目が何を見ているか、ということです。目が光を見ているのかどうか、ということです。そのように、私たちの心が何を見ているか、ということです。
 では、ここでいう「光」とは何でしょうか? 聖書では何と書かれているでしょうか?
 そうすると、たとえば次のようなことが書かれています。
(ヨハネ 1: 9)「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」
(ヨハネ 8: 12)「イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
 そのように、イエス・キリストが光であるということが述べられています。また、使徒パウロの回心の時のことが思い出されます。それまでキリスト教会を激しく迫害していたパウロ。彼はなおもキリスト教徒を迫害するために、シリアのダマスカスに行く途中、突然天からの光に照らされました。そして地面に倒れました。そしてその光の中からパウロに呼びかけるイエスさまの声を聞いたのでした。使徒言行録9章です。このキリスト・イエスさまとの出会いによって、彼は人生が全く変えられたのでした。
 また、テモテの第一の手紙6章15-16節では、このように書かれています。‥‥「神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。」
 父なる神さま、そしてイエスさまが光です。目が窓となって光が入ってくるように、私たちの心の目が窓となって光が内側に入ってくる。それは神さまという光、イエスさまという光の方を向けば入ってくるのです。すなわち、神さま、イエスさまのほうに心を向けている。そうすると光が入ってきて、自分の内側を照らすのです。
 
    目が澄んでいる
 
 目が澄んでいるというと、幼い子どものことが思い浮かぶのではないでしょうか。幼子にじっと見つめられると、なにかすごく純粋なものを感じるのではないでしょうか。そのとおりで、この「澄んでいる」という言葉のギリシャ語は、アプルースという言葉なんですが、「一途な」とか「一つのものに集中している」という意味がある形容詞です。
 最初にご紹介した絵ですが、十字架にかけられる前のイエスさまは、ただ天の神さまのほうを見つめているように見えます。一途に見ている。これが目が澄んでいるという状態です。このあとイエスさまは十字架にかかられました。そして死んで墓に葬られました。しかし三日目に復活された。光である神さまを見続けられたんです。
 もちろん、今、私たちには神さま、イエスさまは直接見ることができません。だから、私たちの心をイエスさまのほうに、神さまのほうに向ける。それが目が澄んでいるということです。私たちの心が澄んでいなくても、主の光が射し込んできて全身を照らす、私たちの内側を照らす。
 
    暗闇の中の光
 
 23節は逆の状態を言っています。「濁っていれば全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」
 私が神を信じなかった頃、体を壊して救急車で病院に運ばれました。ぜんそくで呼吸ができなくなり、死の淵まで行きました。真っ暗でした。暗黒です。それが死だということがわかりました。「その暗さはどれほどであろう」とイエスさまはおっしゃいます。本当に恐ろしい暗闇です。しかしそのとき、神さまのことを思い出しました。今思えば、神さまのほうがわたしに近づいて思い出させてくださったのだと思います。それで、「神さま、助けてください」と心の中で叫んでいました。それは暗闇の中の一筋の光でした。死の淵で、私はようやく光のほうに心を向けたんです。
 きょうも、詩篇27編4節を読んでいただきました。今私は、聖書通読で、詩編も通読しているところです。あらためて思うことは、ダビデが多くの詩を書いていることです。ダビデは罪も過ちも犯した人です。しかしダビデは神さまのほうを、光の方を向いていることが分かります。苦しいことがあれば神さまに助けを求め、良いことがあれば神様に感謝をする。あやまちを犯せば、神さまに向かって悔い改めを祈る。
 もう一度27編4節を読んでみます。「一つのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。」
 天の父なる神を見つめて十字架にかかられたイエスさま。そして墓に葬られたイエスさま。そのイエスさまがよみがえりの朝を迎えられる。それが私たちの救いのためであったことを心に留めたいと思います。


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