2019年4月7日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編27編4節
    マタイによる福音書6章19〜21節
●説教 「宝の隠し場所」

 
 新しい年度を迎えました。進学、就職と、人生の節目を迎えた若い方々も当教会には多くいますが、どこに行くにしても私たちは孤独ではありません。生ける主が共に歩んでくださる。これより心強いことはありません。その主と共に歩んでいきたいと思います。そしてわたしたちは当てもなく進んでいるのではありません。神の国に向かっている。このこともあらためて心に留めたいと思います。
 
    富のある所に心あり
 
 きょうの聖書箇所の21節で、イエスさまは「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」とおっしゃっています。
 これは本当にその通りだと思います。富と言われると、「富と言われるほどのものは持っていない」という方もおられることともいますが、もう少し平たく言うと、その人のお金の使い道を見れば、その人がたいせつにしているものが分かるとも言えるでしょう。テレビ番組に「なんでも鑑定団」というものがありますが、家族に内緒で骨董品を買って集めるという人がよく登場いたします。内緒と言っても、買ってきたら分かってしまうわけですから、叱られることとなります。しかもそういう骨董品は安いものではありません。中にはビックリするほどの値段で買い集める人がいます。私などからしたら、「そんなに古くて役に立ちそうもないものをなぜ集めるのか?」と不思議に思うわけですが、本人は本物と信じて喜んでお金をつぎ込みます。なぜそんなガラクタのようなものにお金をつぎ込むのかと言えば、完全にそこに心があるんですね。
 そのように、その人が何にお金を使っているのかを見れば、その人の心がどこにあるかが分かるというのは本当だと思います。
 
    地上に富を積む
 
 さて、最初の19節でイエスさまは、「あなたがたは地上に富を積んではならない」と言われました。地上に富を積むというのは、どういうことでしょうか?
 地上というのは、私たちが今生きているこの世の中です。ですから、地上に富を積むというのは、文字通り、私たちの人生において富を積む、富を蓄えるという意味になります。
 もう一つは、「富を積む」ということを、文字通りの金銭を蓄えるということではなくて、この世のものに執着するという意味にも考えられます。たとえば、きょうの聖書箇所の前、6章に入ってからイエスさまは、施しをすることについて、祈ることについて、そして断食をすることについて述べてこられました。そしてそれぞれ、偽善者たちは、人に見てもらう目的で施しをし、祈りをし、断食をするとおっしゃいました。そうであってはならないとイエスさまは言われました。それらは、施しや祈りや断食をしていることを人に見せて、「あの人は敬けんな人だ」「立派だ」というような賞賛を受けることが目的となっていて、神さまに対して行っているのではないと指摘されました。
 そのように、人々から賞賛を受ける目的でしていることが「地上に富を積む」ことであると言うこともできるでしょう。それに対して、施しをするときは人に知られないようにする、断食もしていることが人に知られないようにする、ただ神さまに対してなされるということが、天に富を積むことであるということもできます。
 そのように、この世の金銭や宝を愛する、あるいはこの世で賞賛を受けたり成功することを目的とする、そして神さまのことは二の次、三の次になってしまう。この世のことに心を奪われる。そういったことを念頭に、「あなたがたは地上に富を積んではならない」というお言葉であると言えます。
 
    天に富を積む
 
 さて、ここで富を積むということに絞って考えてみます。イエスさまは「地上に富を積んではならない」とおっしゃいましたが、そう言われますと、「いやいや、お金を貯めるのは、何もぜいたくをしようと思って貯めているのではない。今後の生活のこと、老後のことなど、明日の心配に備えるために仕方なく貯めているのだ」「自分は守銭奴なんかではない」との答えが帰ってくることでしょう。
 しかしこれは、「貯金をしてはならない」という戒めではありません。貯金はだれでもするのですが、そのことが第一になってはならないということでしょう。貯金というものは、「これだけあれば安心」というものがありません。もっと、もっとということになりがちだと思います。あるいは、貯金などしている余裕はないという人もいるわけです。そうすると不安でいっぱいになってしまう。
 そう考えていきますと、「地上に富を積んではならない」という教えは、そういう不安を断ち切るような力があることに気がつきます。20節の「富は天に積みなさい」という言葉が示しているように、目を天に、すなわち父なる神さまに向けさせているんです。つまり、誰に頼るのかということです。この世の富に頼るのか、それとも天の父なる神さまに頼るのか、どちらなのかということに行き着きます。
 神さまに頼ると言っても、神さまに頼るから、あとは遊んで寝て暮らせということではありません。それでは神さまが召使いで、私たちが主人になってしまいます。たとえば受験生は、いっしょうけんめい神さまにお祈りしているから勉強しなくても良い、ということにはならないでしょう。そのように、神さまに頼ったから、あとは何もしなくて良いということではありません。努力はするんですけれども、それは地上の富を得ることに心を奪われてしまうようなものではない。神さまを第一とする。神さまを中心とする。それがまずあるということです。
 私がこのことを若い日に身をもって教わったことは非常に幸いなことでした。前にもお話しした、私を拾ってくれた恩人である杉山さんのことです。会社を辞めて郷里に戻った私に、事業を始めるから一緒に仕事をしないかと誘ってくれたのが杉山さんでした。そして二人だけの事業所が始まりました。自動車部品会社の下請けの、また下請けの零細企業です。この事業を始めるにあたって、杉山さんは、「これは神さまにささげる事業とする」と言いました。そして毎朝、15分の礼拝を二人で献げてから仕事が始まりました。その始業時の15分の礼拝は、親会社から注文が入って、どんなに忙しいときも決して休むことはありませんでした。また、杉山さんは、どんなに忙しくても教会の日曜日の礼拝を休むことをしませんでした。寝る間も惜しんで仕事をしなければならないときも、教会の礼拝には必ず出席しました。私はそれをそばで見ていて、最初は信じられない思いでしたし、「礼拝を休んで仕事をした方が間に合うではないか」と思いました。しかししばらくしてから私は気がつきました。「彼は礼拝を守ることによって神さまから力を与えられているのだ」ということにです。
 そしてやがて、彼が最初事業所を設立するときに、「この事業は神さまにささげる事業とする」といった意味が分かってきました。それは彼が、この事業を通して神さまの存在を証しするということではないかと。事業という商売をしているのだけれども、神さまを第一にしているということが分かりました。そして、まさに神さまに頼っていた。それが休むことのない礼拝が表していました。
 
    神に頼る
 
 さて、天に富を積むというと、なにか功徳を積んでいくというようなイメージを持たれる方もいることでしょう。たとえば、今日は電車でお年寄りに席を譲ったから1ポイント天国に積んだとか、きょうは貧しい人のために募金したから10ポイント天国に貯まったとかいうようにです。そのように善行をしたことが神さまに喜ばれて、天国にポイントがたまっていくというようなイメージで考える人もいることでしょう。そのように、善行をしたり、お祈りをしたりすると天の銀行口座が増えていく、と。そうすると、逆に、今日は人の悪口を言ったから1点マイナスだとか、意地悪をしたから2点減点というようなことになってしまいます。
 しかしそれはおかしい。なぜなら、私たちが天国に行くことができるのは、私たちが何が善行をしたから行けるということではないからです。皆さんご存じのように、私たちが天国に行くことができるのは、ただイエス・キリストが十字架にかかってくださったからに他ならないからです。ただイエスさまのおかげなんです。
 先ほど申し上げた杉山さんのことを思い出しても、毎朝始業時の15分の礼拝、そして日曜日の教会の礼拝を休まないということが、善行・功徳を積み重ねていくことではありませんでした。ただ、明日どうなるかも分からないその零細事業所の歩みについて、全く神さまに頼る姿でした。私のために命をかけて十字架についてくださったイエスさまに感謝し、その父なる神さまを第一とする。そのことの結果の自然な姿でした。
 それゆえ、神に頼る、神を第一とする。それが天に富を積むことであると言えます。そしてそのことが、私たち自身にとってたいせつなことであるということです。私たちが前に向かって生きて行くためにです。
 
    天に宝を積む
 
 ここで言葉の問題ですが、この聖書では「富」と日本語に訳されていますが、他のおもな日本語の聖書では、すべて「宝」と訳されています。そうすると21節は、「あなたの宝のあるところには、あなたの心もある」ということになります。
 たしかにそうです。宝と言えば、それは大切なものです。愛するものです。ラジオ牧師と呼ばれた羽鳥明先生が、こういうことを本で書いておられます。‥‥「私たちがひとりぼっちでいる時、いちばんよく考えるもの、それがあなたの一番愛しているものではないでしょうか」 (羽鳥明『今日の詩篇/明日の詩篇』)。
 それが宝というものでしょう。そうすると、天にある宝とはなんでしょうか。それは何よりも、天の父なる神さま、そしてイエスさまが宝だと言わなければならないでしょう。そしてその宝は、無機物ではありません。生きておられる方であり、私たちを愛してくださっているお方です。しかも十字架で命をなげうってまで、私たち一人一人を愛しておられる方です。その方、イエスさまご自身が宝だということができます。
 ルカによる福音書23章39節からのところに、イエスさまと同じく、ゴルゴタの丘で十字架にはりつけにされた犯罪者と隣の十字架にかかっておられるイエスさまとのやりとりが記されています。彼は強盗でした。そして自分が十字架につけられて当然の悪党であることを自覚していました。彼はあと数時間後には、この十字架の上で死ぬ運命にありました。この世の多くの人々が考える意味においては、もはや良い行いをして天に富を積むこともできない状況です。今さら何をしても遅いのです。もはや極悪の犯罪者として、この十字架の上で死ぬ、そして地獄に落ちるしか道はありません。誰もがそう思ったことでしょう。
 しかし彼は、隣の十字架のイエスさまにお願いしました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」つまり、イエスさまが天国の持ち主であり、自分を天国=神の国に入れてくださることのできる方であると信じたのです。自他共に認める犯罪者であり悪党である者が、なんとムシの良いことかと誰もが思うことでしょう。しかしその彼に対してイエスさまは、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたのです。
 それはまさに、あなた、あなたを救うために私は十字架に就いたとおっしゃっているように聞こえる。そしてそれはまた、このわたしたちひとり一人、イエスさまにおすがりする私たち一人一人に対して言われている言葉であると思います。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言う私たち一人一人に向かって、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言ってくださる。
 このお方が、私たちの最も大切な者、宝であると言うことができます。そうしますと、「富は天に積みなさい」という言葉は、私たちの宝であるイエス・キリストに、私たちの思いを寄せなさいという言葉として聞こえてきます。
 「私には富も宝も何もない」という方もいることでしょう。そんなことはないんです。私たちには天に宝がある。私を救うために十字架で命を捨ててくださったイエスさまです。この方に心を、思いを寄せていく。そのときこの宝が、ますますかけがえのないものであることが分かっていきます。


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