2019年3月31日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編31編24〜25節
    マタイによる福音書6章16〜18節
●説教 「かくれたところに光」

 
    断食をする人々
 
 今日の箇所で、イエスさまは、断食をすることについて述べておられます。断食をするというと、今日では健康法であるとかダイエットのためと思われてしまいますが、ここで言われている断食とは、もちろん宗教上、信仰上の理由で断食をすることです。けれども断食と言われても、断食などしたことがないという方も多いと思います。しかし、まずはきょうの聖書に沿って読んでまいりたいと思います。
 まずイエスさまがおっしゃっておられるのは、「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない」ということです。「偽善者」という言葉は、前にも出てきました。それは「役者」という意味の言葉です。つまり、演じるわけです。ここでは、神を熱心に信仰しているふりをする。熱心で敬けんな信仰者であることを演じる。「人に見てもらおうとして」という言葉がそれを指しています。そしてその偽善者が、具体的にはどういう人々のことを指すかというと、ファリサイ派の人々などを指していました。そのことは、ルカによる福音書18章12節で、イエスさまのなさったたとえ話の中に出てくるファリサイ派の人が、週に二度断食をしていることを神への祈りの中で語っていることからも分かります。彼にとっては、自分が一週間に二度断食をしていることが自慢であったようです。
 現代の日本では、熱心に神を信じるということは、あまり人からほめられることはないかもしれません。むしろ反対に、「あんまり宗教に熱心にならない方がよい」などと言われるかもしれません。しかし、この聖書の時代のユダヤでは、熱心に神を信じる人は尊敬の対象でした。そして、断食をするということは、その尊敬と賞賛を増し加えることでした。それでイエスさまが「偽善者」と呼んでおられるその人々は、自分は断食をしているよということを人に見てもらおうとして、苦しそうな顔をしていた。
 そういう人々についてイエスさまは、「すでに報いを受けている」とおっしゃっています。報いを受けているというのは、報酬を受けているということですが、もちろんここでは金銭の報酬を受けているということではなく、人々から感心され、賞賛されるという報酬を受けているということです。そして、「断食しているのを人に見てもらおうと」という言葉が明らかにしているように、彼ら偽善者の目的は、人から尊敬を受け賞賛されるところにあるということです。ゆえに、神さまからは何も報いを受けられない。「あなたはもう人間から報酬をもらったんでしょ」ということです。つまりこの人の場合は、断食という信仰の行為を、自分が他の人々から賞賛を受けるための道具にしていることになります。言ってみれば、神さまを出しにしているわけです。
 今私は、二つの聖書の通読をしているんですが、先週、口語訳聖書のほうを読んでおりましたら、詩篇の18編に次のような言葉が書かれていました。これはダビデの詩ですが、その25節と26節です。‥‥「 あなたはいつくしみある者には、いつくしみある者となり、欠けたところのない者には、欠けたところのない者となり、清い者には、清い者となり、ひがんだ者には、ひがんだ者となられます。」
 ここで「あなた」というのは神さまのことを指しています。この詩を適用すれば、私たちが人に見せる目的で断食をするのならば、言い換えれば、表面的に神を信じているように装うなら、神もまた私たちを表面的に愛しているかのように装われるだろう‥‥。そういうことになるでしょう。
 本当に神さまからの報いを期待したいのなら、頭に油をつけ、顔を洗い、断食を人に気づかれないようにせよ。‥‥そのようにイエスさまはおっしゃっているのです。言い換えれば、断食をするのであれば、人を見るんじゃなくて、ただ神を見つめてせよということです。
 
    断食
 
 さて、以上がきょうの聖書箇所の簡単な解説ですが、そもそも断食というものをなぜするんでしょうか?
 聖書には、神さまが断食をするように命じている個所というのはほとんどありません。ただ、旧約聖書のレビ記16章29節に出てくる「苦行」という言葉が、断食を指すものと思われます。しかしそれはいつも断食をしろということではなく、1年に一回、7月の贖罪日と呼ばれる日にしなさいということです。
 もう一つは、旧約聖書の預言書の一つである、ヨエル書2:12に書かれています。‥‥「主は言われる。『今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで。』」‥‥この場合は、その人々に対する悔い改めのうながしをしておられる中で、断食という言葉が出てきています。
 そのぐらいです。ですから、イエスさまの時代にファリサイ派の人々が、週に二度断食をするというようなことを、神さまはどこにも命じておられません。そういうわけですから、断食というのは、神の戒めなのではなく、自発的なものであると言えます。自分の意思で断食をするんです。そういう自発的な断食は聖書でよく出てきます。
 たとえば、聖書をよく読んでいる方ですぐに思い出す断食の一つに、ダビデがした断食があるでしょう。ダビデが自分の部下であるヘト人ウリヤの妻である、バトシェバを奪って自分のものとしてしまうというあやまちを犯しました。その罪は、預言者ナタンを通して神さまから叱責されました。そして生まれてくる子が死ぬという裁きが宣告されました。それを聞いてダビデは、断食をしました。この断食は、自分の罪を悔い改めて神に子どもの命を助けてくれるよう懇願して祈る断食であったと言えます。そのように、真剣に悔い改めて祈るときになされています。
 また新約聖書では、すぐに思い出すのは、イエスさまのなさった断食です。イエスさまが世に出られる前、荒れ野で40日間の断食をなさいました。
 それから使徒言行録では13章2節に、アンティオキアの教会の人々が、主を礼拝して断食していたことが書かれています。すると、聖霊が、バルナバとサウロの二人を世界宣教に派遣するようお命じになりました。イエスさまの断食と、アンティオキア教会の人々の断食は、いずれも神の御心を求めて断食したものと言えるでしょう。
 そのように、断食とは、祈りの手段であるということが分かります。とくに、悔い改めたり、あるいは神の御心を求めて真剣に祈る場合に断食がなされています。わかりやすく言えば、祈りに集中するために断食をしていると言えます。
 
    三つの信仰の柱
 
 このマタイによる福音書の6章に入ったとき、私はこの礼拝の説教の中で、ユダヤ人にとって施しと祈りと断食の三つが信仰の柱であったと申し上げました。この6章は最初から見ると、まず施しをすることについて、次に祈りについて、そして今日の断食についてと、その三つが順番に語られていることが分かります。
 施しをすることについては、1節から4節ですが、偽善者たちのように人に見てもらおうとして善行を行うなということをおっしゃっています。施しをするなら、自分の右手のすることを左手に知らせてはならないとまでおっしゃっていました。つまり、貧しい人に施しをするようなことは、ただ神さまのほうを見てせよということです。
 続く祈りについては、これも偽善者たちのように、人に見てもらおうとして祈るなと言われました。人に見てもらおうとして祈るということは、神さまのほうを見ていないからです。そしてくどくどと祈るなとも言われました。くどくど祈れば聞かれるのではなく、私たちの祈りは、イエス・キリストのとりなしがあるから聞いていただけるのです。そして主の祈りが教えられました。主の祈りは、最初に父なる神の名があがめられるように祈ることによって始まります。まず神さまの方を向けということです。
 そして今日の断食に関する教えです。すでに見てきたように、人の評価を気にするのではなく、神への祈りに集中せよということでした。
 これら6章の三つの事柄についてのイエスさまの教えを振り返ると、それはことごとく父なる神さまを中心にするようにとの教えであることが分かります。私たちはすぐに自分中心になるんです。他人から良い評価を得たいとか、自分の願いがかなえられるためにはどうしたらよいかとか、そういうことばかり考えてしまう。
 断食についても、人に見せるために断食をする人はこんにちの時代はあまりいないかもしれませんが、「神さま、私はこんなに断食までしてがんばって祈っているんですから、わたしの願いをかなえて下さい」というふうに考えてしまうのではないでしょうか。「わたしは週に二度断食して祈りました。だからかなえて下さい。」‥‥そういう断食だったとしたらどうでしょうか? あるいはこれは断食でなくても、たとえば、「わたしはこんなに良いことをしましたから、願いをかなえて下さい」とか、「父なる神さま、私はこんなにがんばって祈っていますから、願いをかなえて下さい」というのはどうでしょうか?
 ここで私たちは、わたしたちが父なる神さまへの祈りを聞いていただけるのは、なぜなのかという基本的なことを思い出さなければなりません。
 
    イエス・キリストのとりなし
 
 先ほど讃美歌第2編の185番を歌いました。その1節の歌詞をもう一度見ていただきましょう。
 1節「カルバリ山の十字架につき、イエスは尊き血潮を流し」‥‥この「カルバリ」という言葉はラテン語でして、ヘブライ語にすると「ゴルゴタ」になります。すなわちイエスさまが十字架にかけられた山のことです。イエスさまがなぜ十字架につけられて尊い血潮を流されたのか。それは、わたしのために救いの道を開いて下さるためだったと歌っています。
 この世にうまれ、楽しいこともあれば苦しいこともあり、しかしやがて死んでいくこの私たち一人一人。その私たちを救うために、十字架にかかって命をなげうたれた。「主イエスの十字架、わがためなり。」
 2節に行きますと、「かくもたえ(妙)なる 愛を知りては」。この「妙なる」とは、言い様もないほどすぐれている様子のことだと辞書には書かれています。それが十字架の愛であると言っているんです。この滅ぶべき私を救うために、カルバリ山の十字架にイエスさまがおかかりになって命を捨てられたけれども、それは「かくも妙なる愛」であったと告白しています。それゆえわたしは、「身も魂もことごとささげ」、すなわち自分自身を父なる神とイエスさまにささげて、そのありがたき恵みにすがるしかないと。なんとなれば、神の御子イエスさまの十字架は、この私を救うための尊いものであるからだと。
 私たちが、天地の造り主なる神さまのことを「父」と呼ぶことができるようになり、そして私たちの小さな祈りに耳を傾けて聞いてくださるようになったのは、私たちが断食して努力したから聞いてくださるのではなく、また善行を積んで良い人になったから聞いてくださるというのでもなく、ただひとえに、イエスさまの十字架があったからなのです。イエスさまが十字架で、ご自分の命をかけて、私たちのことを父なる神にとりなしてくださったからです。そのことが浮かび上がってきます。
 その尊い十字架の愛を知ったとき、私たちは、自分中心から神さま中心の世界へと方向転換させられる。イエスさまは、自分中心の私たちを、私たちの真の父である神へと向けさせられます。それがこれらの御言葉です。
 先週、聖書通読をしていて、もう一個所たいへん心に留まった聖句がありました。やはり口語訳聖書でダビデの詩ですが、詩篇27編4節です。‥‥「わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。」
 ダビデは失敗もしたし、過ちも犯した人ですが、この祈りに、悔い改めたダビデの心が表れているように思いました。「わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。」
 神を第一とし、神を知る喜びに生きる人生でありたい。そのように思います。


[説教の見出しページに戻る]