2019年3月24日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 マタイによる福音書6章13
    ヨブ記1章9〜11
●説教 「邪魔するもの」

 
    誘惑と試練
 
 主の祈りの学びも、本日で最後になりました。主の祈りの中の6つの祈り願いの言葉。本日はその第6番目の願いです。「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」
 先ほどご一緒に唱和いたしました文語の主の祈りでは、「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまへ」となっていました。つまり、この聖書の訳では「誘惑」となっているものが、文語のほうでは「試み」となっているわけです。これはどちらが正しいということではなくて、実はどっちも正しいんです。と申しますのは、「誘惑」「試み」と日本語に訳されている言葉は、ギリシャ語ではペイラスモスという言葉になっていて、これはその両方の意味があるからです。
 しかし、「誘惑」といった場合、この場合の誘惑は、神を信じなくさせるような、あるいは神を忘れさせるような誘惑であると言えます。例えば、創世記の第3章ですが、エデンの園には善悪の知識の木というものが生えていて、主なる神はその木の実だけは食べてはならないと命じておられたんですが、蛇(この蛇はサタンのたとえですが)がやって来て、それを捕って食べるように言葉巧みに誘導いたします。これが誘惑です。その結果、人間はそれをとって食べてしまった。神さまの言葉に背いてしまった。蛇の言葉巧みな誘惑に負けたわけです。
 いっぽう、「試み」と言った場合は、テストという意味になります。例えば、これも創世記ですが、22章1節に「これらのことの後で、神はアブラハムを試された」と書かれています。神さまがアブラハムをテストしたと。それが、アブラハムの子であるイサクを献げさせるという出来事でした。アブラハムが、神を第一とするかどうかをテストなさったのがこの出来事です。
 そのように、誘惑と試みは似ていますけれども、「誘惑」といった場合はサタン、すなわち悪魔のほうの働きであり、私たちを神への不信と破滅へ導こうとするものだと言えます。一方「試み」と言った場合は主なる神さまがなさるもので、人間の信仰を鍛え、成長させるものだということができます。
 そのように、神さまがなさることと、サタンがすることでは目的が全く違うということです。ただ、人間の目に見える現象でいうと、誘惑と試み、言い換えれば試練は同じように見える。その同じ出来事を両面から見ているのがヨブ記です。先ほど読んだヨブ記の1章9〜11節。これはサタンが主なる神さまに言った言葉です。ヨブは忠実に主を信じる信仰の人だった。しかし、サタンは主に向かって、ヨブがあなたを信じているのは、利益があるからだと言う。だから彼の財産をすべて奪ってみれば、ヨブはあなたを呪うに違いありませんという。つまりサタンの主張は、人間は、この世の利益がないのに神を信じることなんかないというんです。だからヨブの持っているこの世の持ち物をすべて奪えば、主を呪うに違いないという。すると主は、ヨブの持ち物を奪うことを許可する。そうしてヨブは、すべてを失う。‥‥と話しは続くわけですが、この出来事はサタンが主の許可を得た上で、ヨブを苦しめるわけです。ですからそれは誘惑でもあり、試練でもあると言えます。
 
    誘惑に遭う私たち
 
 さて、この13節の言葉は、前半が「わたしたちを誘惑に遭わせず」となっています。誘惑に遭わせないで下さい、と。そしてこの誘惑とは、先ほど述べましたように、神さまを信じられなくなるような出来事、神さまから離れさせるような出来事のことです。
 しかしそうすると、私たちが「誘惑に遭わないってことが、あるんだろうか?」と思わないでしょうか。誘惑でも試練でも試みでも、同じことです。そういうことにあわないなんてことはないように思いませんか。
 例えば、神さまを疑いたくなるような危機や問題は時々訪れるように思います。あるいは、病気になれば、主の愛を疑いたくなります。あるいは、「敵を愛しなさい」というイエスさまの教えは、ついこのあいだ学んだばかりですが、自分に対してイヤなことを言ったりする人を愛するどころか、なんとかして仕返しをしようと考えたりする。または、誰かから失礼なことを言われて腹が立つ。そうすると、創立70周年記念品のクリアファイルにも印刷された「いつも喜んでいなさい」という第一テサロニケ5:16の御言葉なんかどこかへ飛んで行ってしまう‥‥。
 そのように、私たちは日常的に、主を疑いたくなるような出来事に遭い、また主の御言葉を忘れてしまうようなことに出会うわけです。ですから、「わたしたちを誘惑に遭わせず」というけれども、誘惑に遭わないなんてことは実際にはありません。
 そもそも、イエスさまも誘惑に遭われました。例えばこれもすでに学んだこの福音書の4章です。そこでイエスさまは、悪魔から誘惑を受けるために聖霊に導かれて荒れ野に出かけられました。また、ヘブライ人への手紙の4章15節には次のように書かれています。‥‥「この大祭司(イエスさま)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」‥‥そのように、イエスさまは、私たちと同様に試練に遭われたと書かれています。
 さらに言えば、聖書は私たちが誘惑(試練)に遭うことを前提としています。たとえば‥‥(ヤコブ1:2〜3)「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。」
 
    誘惑に陥らないように
 
 そのように、私たちが誘惑や試練に遭わないことはありえないし、聖書も私たちが誘惑や試練に遭うことを前提として書いています。そうすると、今日の13節の「わたしたちを誘惑に遭わせず」という言葉は、どういうことになるんでしょうか? 矛盾しているようにも聞こえます。
 そこで誘惑に遭わせるの「遭わせる」という言葉を説明したいと思うんですが、この「遭わせる」(エイスフェロー)と日本語に訳されている言葉のギリシャ語は、「持ち込む」とか「連れ込む」という意味です。そうするとここは、「誘惑に遭わせず」というよりも、詳しく言えば「誘惑の中に落ち込むことがないように」という意味だと言ったほうがよいでしょう。
 これは例えばこういうことです。私たちが野原を歩いていたとします。するとそこに深い穴が開いていた。‥‥この場合、穴に出会うのは仕方がないことです。そこに穴があいているんですから。しかし、穴に出会っても、その穴に落ち込まないようにすることはできます。穴を避けて通ればよいからです。
 そういうことです。私たちが誘惑や試練に出会うことは避けられない。しかしここでイエスさまがおっしゃりたいことは、その穴に落ち込まないように、すなわち誘惑に落ち込まないように、誘惑に落ち込んで信仰を失うことがないように祈りなさい、ということです。誘惑に遭っても、信仰を失わないように。
 だからここは、「誘惑に遭わせず」とするよりも、本当は「誘惑に陥らせず」ということです。このことは、たとえばゲッセマネの園でのイエスさまの弟子たちに対する言葉が表しています。
(ルカ22:46)「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」‥‥「誘惑に陥らぬよう」とおっしゃっています。「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と。主に祈ることによって、誘惑に陥らないことができると。
 
    悪より救い出したまへ
 
 さて、13節の後半は「悪い者から救って下さい」です。「誘惑に陥らないように、悪い者から救って下さい」。
 例えば、子どもがお店にいたとき、悪い友だちから万引きをするように誘われる‥‥そんなことが思い浮ばれるかもしれません。たしかにこの場合も、この祈りの言葉に該当するでしょう。たいへん分かりやすい例です。その場合は、神の御心に背かせるように誘惑する悪い人がいることになります。
 しかしもう少し言いますと、ここで言う「悪い者」というのは、突き詰めて言えばサタン、悪魔のことであると言えます。サタンは、あるときは人間を通して神に背かせるように働きかけてきます。もちろんサタンは目に見えませんから、私たちには分からない。しかしサタンは、あるときは人間を通して、またあるときは、ヨブに臨ませたように災難や病気で苦しめることによって、神を信じさせなくしようとする。
 私も以前はずいぶん持病のぜんそくによって苦しみました。それがなかなかよくならないと、信仰が揺らぐということがあるんですね。そのようにして、病気や災難を通して、「神はあなたのことを愛していない」、ひいては「神などいないよ」という心境に導いていく。その背後にサタンの働きがある。だから「悪い者から救って下さい」と祈りなさいということです。
 また、サタンは病気や災難で苦しめるばかりではありません。反対に、この世の物質的なものやお金で満たすことによって、神を忘れさせるということもします。苦労していた頃は、必死になって祈り、神さまにすがっていたのに、成功して財産も増え、この世の物質的なものが何でも手に入る。そうすると神さまに祈ることも礼拝することもどうでもよくなり、やがて信仰を失う。‥‥そのように働きかける。
 そのように、苦しめることによって神を疑わせ信仰から離れさせる、あるいは全く逆に富ませることによって神を忘れさせる‥‥そういうサタンの働きが実際にあるということを知っておかなくてはなりません。ですからここで「悪い者から救って下さい」とは、そういう悪い者であるサタンから救って下さい、という祈りでもあります。
 
    悪・罪からの救い
 
 さらに、「悪い者から救って下さい」とありますが、これは「悪い者」ではなく、単に「悪」という日本語にも訳せることばです。ですから文語の主の祈りでは、「悪より救い出したまへ」になっているんです。
 悪と言いますと、今申し上げましたように「悪い者」、サタンも悪ですが、私たち自身の中にも悪があることを覚えなくてはなりません。私たちの内側にある悪、それが罪です。私たちが神を信じることをやめようとするときに、それは私たちの外側からのサタンの働きがあるだけではなく、私たちの内側にある罪もまた原因であるのです。つまり私たちには、もともと主なる神さまにそむこうとする傾向があるということです。
 外側からはサタンが、内側からは自分自身の罪が、神を信じないように、神の言葉を軽んじるように働いている。その結果、私たちが誘惑に陥る。イエスさまを疑い、神を信じなくなる。
 今日の祈りは、そういうもろもろの悪から私たちを救いだし、誘惑に陥らないように、すなわち主を信じることから離れないように助けてください、という祈りです。それが主の祈りの最後の願いの言葉となっているんです。言い換えれば、この祈り願いは、私たちが主を信じ続けることができるように願っている祈りです。
 私たちが信仰の生涯を送るというのは、簡単なことではありません。外からも内側からも、信仰を破壊しようとする力が働いているからです。そして私たちは罪人ですから、それらの力に対抗するには、あまりにも無力です。自分の力では、信仰の生涯を送ることはできません。しかし感謝すべきことには、イエスさまはこのように祈ることによって、主の助け、聖霊の助けを仰ぐことができるといわれるんです。‥‥「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまへ」と。
 いつまでも神を信じ続ける者でありたい。順風の時も、逆風の時も、どんなときも、イエスさまを信じ続けるものでありたい。信仰の生涯を送りたいと思います。信仰を「守る」というよりも、さらに新しい主の恵みを知って、主を信じることのすばらしさをさらに知っていくという、喜ばしい信仰の生涯を送りたい。私はそのように思います。


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