2019年3月17日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書 53章 4〜8節
    マタイによる福音書6章12〜15節
●説教 「神の恵みをはばむもの」

 
    負い目
 
 本日は「主の祈り」の第5番目の願いの言葉です。先ほどご一緒に唱和しました文語の主の祈りでは、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまへ」となっています。お気づきのように、文語では「罪」となっていた言葉が、この聖書の訳では「負い目」となっています。また、ルカによる福音書の11章で記されている主の祈りのほうでは「罪」となっています。つまり、「罪」という言葉になったり「負い目」という言葉になったりしているわけです。
 原文のギリシャ語では、オフェイレーマという言葉になっていて、これはまず「負債」「借金」という意味があります。借金というと、たいへん分かり易いように思います。借金は、誰かからお金を借りたことです。ですから返さなくてはなりません。借りた人に返す義務があります。それが借金であり負債です。
 そうすると、ここでは「私たちの負い目をゆるしてください」と祈っているのですから、これは神さまに借金を赦してくれるよう願っていることになります。では、神さまに対して借金があるというのはどういうことでしょうか? 借金というとお金を借りたということになりますから、ここでは「負債」とか「借り」と言ったほうが良いでしょう。神さまに対して負債があるというのは、どういう負債があるというのでしょうか?「神さまに借りを作った」ということは、どういうことを言うのでしょうか? 「神さまに負債なんか作っていない」と考える人が多いでしょう。いや、そもそも神さまを意識しない、あるいは信じないで生きている人が多いことでしょう。
 このことをじっくり考えてみたいところです。私たちは、神さまによって作られたということを思い出さなくてはなりません。私たちは神から命を与えられたのです。言ってみれば、私たちは神さまのものです。
 旧約聖書のイザヤ書に次のような言葉があります。(イザヤ書 64:7)「しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工、わたしたちは皆、あなたの御手の業。」‥‥神さまが陶器を作る職人にたとえられ、私たちは粘土であり、神によって作られた陶器にたとえられています。
 私たちは神さまによって作られ、神さまの作品であり、神さまのものです。私たち自身も私たちの命も、神さまからの借り物です。そして、借りた物は返さなければなりません。すなわち、私たち自身を神さまにお返しする義務があるのです。私たち自身を神さまにお返しするということは、私たちが神さまのものになるということであり、具体的に言えば、私たちが神さまを信じて従うことです。
 しかし実際にはどうかというと、私たちはなかなか神さまを信じないしなかなか従わない。そこに神さまに対する借りがあるということになります。神さまに対して積もり積もった負債があるんです。それが罪ということです。
 
    赦すこと、赦されること
 
 さて、一般には、負債がある場合、すなわち借金がある場合、どうやってそれを解決するでしょうか。その解決の方法は、一つには負債を返すということです。その場合はたいてい利子と共に負債を返すということになります。もう一つは、負債を免除してもらうという方法です。言い換えれば借金を帳消しにしてもらうのです。ふつうは、最初の方法をとることでしょう。つまり負債を返済する。しかしその負債が、返しきれないほどの多くの負債である場合は、免除してもらう以外は方法がありません。
 そしてきょうの聖書にある「赦す」というのは、負債を免除して下さい、帳消しにしてくださいと言うことです。そしてその負債が罪のことであり、12節では「負い目」と訳されているものです。なぜ返済する、罪であれば償うのではなく、帳消しにしてもらう、罪を赦してもらうというのでしょうか?‥‥それはまさに、私たちの罪が償いきれないほど大きなものであるからに他なりません。そう聞くと、この世の多くの人は、「この自分に、そんな大きな罪が神さまに対してあるなんて信じられない」と思うでしょう。そう思うのも無理はありません。私もかつてはそう思っていたのですから。
 ともかく、私たちが神さまに対して負っている負債は大きすぎて、返済することができません。それですから、あとは免除してもらう、すなわち帳消しにしてもらうしかありません。これが負い目、すなわち罪のことですから、赦していただくほかはないのです。
 ただし12節をよく読むと、「私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と続いています。文語の主の祈りでは「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」です。つまり、私たちが、私たちに対して罪を犯した者、負い目のある人を赦したように、私たちの罪も赦してください」というのです。
 これは意外に思われる方がいるのではないでしょうか。なぜなら、私たちが他人の過ちをゆるすことが前提となっているからです。そうすると私たちは、「自分が何かをしたからではなく、ただイエスさまを信じることによって救われるのではなかったのか?」と疑問に思うでしょう。私たちが何か良い行いをしたから私たちの罪は赦されるのではなく、私たちはただイエス・キリストを信じて告白することによって赦されるのではなかったのか?と。ところがこの12節の言葉はどうだ。私たちが、私たちに負い目のある者を赦したから、私たちの負い目もゆるしてくださいと言っている。‥‥
 なんとも、聖書の福音と矛盾しているようにも聞こえます。しかしここは、私たちがイエス・キリストによって罪を赦され、救われるということの尊さが、私たちが他人の罪を赦すことによって分かってくるということであると思います。私たちは、ともすると、罪の赦しということを簡単に考えすぎるのではないか。安易に考えすぎるのではないか。私たちの罪が赦されるということが、どんなに大きなことで尊いことであるかということを、あまり考えないのではないか。‥‥しかしこの主の祈りの言葉によって、私たちは、私が赦されて救われるということが、いかに尊いことであるかを知ることができる。そういうことです。
 
    赦すことの難しさ
 
 さらに、きょうは12節だけではなくて、15節まで読んでいただきました。今日12節と同時に取り上げたいのは、13節は飛ばしまして、14節と15節です。もう一度読んでみましょう。‥‥「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。"しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
 お分かりと思いますが、この14節と15節は、主の祈りのあとの言葉です。しかし読んでみて分かりますように、この部分は、12節の主の祈りの言葉を説明している言葉です。私たちが他人の罪、過ちを赦すということをあらためて強調しておられるんです。それは、12節の「私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」ということを真剣に考えるようにイエスさまがあえて付け加えたような言葉です。私たちが、自分の罪を赦してもらうようには神さまに願うけれども、自分に対して他人が犯した罪・過ちを赦すことをなかなかしない者であることを、イエスさまはご存じなのです。だから14節15節の言葉をおっしゃって、くれぐれもと念を押しておられる。
 私たちが、誰かが私たちに対して犯した過ちを赦さないならば、神さまは私たちの過ちも罪も赦してくださらないという。これは実はたいへんなことです。なぜなら、神さまが私たちの罪を赦してくださらないということは、私たちのお祈りも聞いてくださらないということだからです。そればかりか、私たちは救われないし、祝福もされない、神の国に行くこともできないということになります。‥‥これはとんでもないことになります。
 ですから、ここまでイエスさまに言われますと、私たちは、はじめて他人の過ちを赦すということを真剣に考えざるをえないことになります。しかし、他人の過ちを赦すというのは、たいへんむずかしいことです。
 加藤常昭先生の説教集を読んでいましたら、かつての戦争の時のことが例としてあげられていました。戦争中、ドイツでも、ドイツと戦っているイギリス、フランスにおいても、クリスチャンがこの主の祈りを祈るときに、たいへんつらい思いをしたということです。戦争ですから、どうしてもドイツ人はゆるせない、フランス人はゆるすわけにはいかない‥‥とお互いに思っている。ゆるすどころか、憎しみをぶつけ合う戦争をしているわけです。だから、主の祈りを教会で祈るときに、この祈りのところで沈黙が起きるということがあったそうです。その前のところの、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」は大きな声で祈ったかもしれない。しかし続く、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」のところでは、沈黙してしまう。‥‥それはたいへん正直な現実です。
 
    十字架のキリスト
 
 同じようなことは私も経験いたしました。私が神学生の時のことでした。あるとき、尊敬し、また仲良くしていた先輩が、私の悪口を陰で言っているということを聞いたんです。私はそのことを聞いて、たいへん腹が立ちました。裏切られたような思いでした。いつも顔を合わせているときには何も言わず、陰で私の悪口を言っている。言いたいことがあるならば、面と向かって言えばいいわけです。しかし面と向かって言わずに、陰でこそこそと悪口を言っている。卑怯者です。もう本当に腹が立ちました。「ゆるせない!」そして、「今度あったときに、必ず一発お見舞いをしてやる」と思いました。もちろん私はクリスチャンでしたし、神学生でした。しかし怒りでいっぱいになって、「一発お見舞いをしてやる」と思ったのです。
 そして夜、自分の部屋で主の祈りをして床に就こうとしたときです。主の祈りを唱え始めて、この「我らに罪を犯した者を我らがゆるすごとく、我らの罪をも赦したまへ」のところに来たときに、はたと止まってしまいました。「待てよ、俺はあの人のことを赦していないじゃないか」と。しかし赦さないと、祈りは先に進むことができません。私は苦しみました。その先輩に対する怒りでいっぱいだったんです。どうしてそんな卑怯者を赦さなければならないのか。思い出すと腹が立つ。赦せないんです。しかし、主の祈りは、「我らに罪を犯した者を我らがゆるすごとく」となっている。しかもイエスさまは14節15節と、人の過ちを赦すようにきびしく命じておられる。
 ‥‥苦しみました。するとそのとき、私の脳裏に、十字架のイエスさまの姿が浮かんできました。十字架におかかりになったイエスさま。神の御子である方が、死刑台である十字架にかけられ、命をなげうたれた。それは何のためであったのか。それは、他でもない、この私を救うために、私が神さまに対して負っている負債、罪を帳消しにするために、ゆるすために、私に代わって十字架で命をなげうってくださった。そのことが心に迫ってまいりました。そして私は、そのイエスさまによって神さまに赦されている。
 そのことを示され、私はついに、その先輩を赦すことを祈りの中で神さまに告げました。そうすると、すばらしい平安が私を包みました。そうして寝ることができたんです。そしてその先輩とは、今でも仲良くお付き合いさせていただいています。
 
    赦されているから赦す
 
 神の御子であるイエスさまが、私たちが返済できないほど大きな負債を十字架で命をかけて支払ってくださった。しかるに、私たちは、悪口の一つがゆるせない。しかしこの主の祈りを祈るたびに、イエスさまの十字架の尊さを思い起こすことができます。私たちは、イエスさまによってゆるされている。だからわたしたちも、隣人の過ちを赦すことができる。そういう私たちを祝福して下さる祈りです。


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