2019年3月10日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編53編4節
    マタイによる福音書6章11節
●説教 「生かされている私」

 
    東日本大震災から8年
 
 明日で、東日本大震災の発生から8年目を迎えます。多くの方が亡くなられ、多くの人が家族を失い、家を失いました。いまだに2533人の方が行方不明だそうです。また、この大震災は原子力発電所の災害をもたらしたということが、さらに悲惨なものとしました。いまだに、帰還できない方々が多くおられます。日本基督教団の教会でも、浪江伝道所と小高伝道所が長らく閉鎖されました。現在は避難指示が解除されていますが、多くの人が町を去ったままです。定住の伝道者を得ることができる見通しは立っていません。
 被災地の建物は復興しても、人々の受けた心の傷までは癒やすことができません。それができるのは私たちの主です。教会がその役割を担っています。私たちの教会は、とくに福島第一原子力発電所の事故の影響のあった地域の教会を中心に、ささやかな支援をしてきましたが、これからも継続して祈っていきたいと思います。
 
    主の祈り後半
 
 さて、本日も主の祈りの続きを学びます。本日は「私たちに必要な糧を今日与えて下さい。」これは礼拝の中で唱和している文語の主の祈りでは、「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」となっています。
 これは、「私たちに」となっていますから、私たち自身のための祈り願いです。これまで主の祈りは、前半の3つの願いを学びました。それはいずれも、神さまのための祈りの言葉でした。父なる神の御名前があがめられること、そして神の国が来るようにと願うこと、そして神の御心が天国においてなされているように、この世でもなされるように願う祈りでした。
 そして今日から後半の3つの祈りに入るわけですが、その後半がきょうの言葉から始まる祈りであり、いずれも私たち自身のための祈り願いとなっています。すなわち、まず先に父なる神さまのために祈り、それから私たち自身のために祈るという順序になっています。それがイエスさまの教えて下さったことです。
 そして、なぜ最初に神さまのために祈るかというと、それは主の祈りの最初の時にも申し上げましたように、父なる神さまのために祈ることが、本当に私たちのためにもなっているからです。
 
    今日の糧を神に求める
 
 本日の祈りの言葉は、「私たちに必要な糧を今日与えて下さい。」この「糧」という言葉は、原語のギリシャ語では「パン」という言葉になっています。聖書の世界では主食はパンですから、パンという言葉になっている。ですから日本で言えば、「ごはん」と言い換えても良いわけです。「私たちに必要なご飯を今日与えて下さい」ということです。
 極めて分かり易い祈りです。世の中には、「キリスト教は高尚で難しい」という人がいますが、なにも難しいことはありません。昔の教会の指導者には、「主の祈りの中に、旧新約聖書すべてが凝縮されている」と言った人がいましたが、今日の食べ物を下さいと祈るということが、キリスト教のたいせつな祈りであると聞けば、だれだって分かるに違いありません。単純素朴です。
 ただ、今日食べるものをくださいと祈るというのは、三度の食事をふつうに食べることのできる人にとっては、ピンとこないに違いありません。この祈りの言葉が切実で身に迫ったものであることは、自分が貧しくなってみないと分からないかもしれません。お金がない、今日食べるものもない‥‥そういうギリギリの生活をしてみますと、初めてこの祈りの言葉が迫ってきます。「神さまに食べ物を求めて、ほんとうに頼りになるんだろうか?」と思うわけです。お金がない、食べ物がないとなったら、「神さまどころではない!」というのが本当の心境ではないでしょうか。
 イエスさまがこの山上の説教をお語りになっているとき、まわりには群衆が集まって座っていました。その群衆のうち、多くの人々は一般の庶民でした。そうすると、その多くは、その日暮らしの人々です。蓄えなんかない。生きるために必死の人々です。そういう人々に対して、イエスさまは、「あなたの天の父に願いなさい」と言われるんです。あなたに必要な、今日生きるための糧を、あなたの天の父なる神さまに願い求めなさいと言われるんです。
 
    食べることを願う =生きることを願う
 
 今日食べるパン、ご飯を与えて下さいと祈る。しかし、イエスさまは主の祈りを教えられる前に、8節でこうおっしゃいました。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と。親は、子どもに必要なものが何であるかを知っています。ましてや、食事が必要であることは当然のことのように知っています。だとしたら、私たちの父なる神さまは、私たちに食べ物が必要であることは、当たり前のように知っておられるのではないでしょうか? なのになぜ、それを求めなさいと言われるのか?‥‥そういう疑問が浮かんでくるでしょう。
 しかしそれは、私たちの神さまが、私たちに必要なものをご存じでいらっしゃる。だから安心して求めることができるんです。
 人間は生き物ですから、食べないと死にます。だから、食物を与えて下さいという祈りは、生きることを求める祈りであると言っても良いでしょう。天の父なる神に向かって、生きることを求めるように、イエスさまは祈るよう命じておられるのです。
 ということは、神さまは私たちが生きることを願っておられることになります。父なる神さまが、私たちに生きることを願っておられる。だから、その生きることをわたしに求めなさい、ということでしょう。ですからこの祈りは、単に食べ物が与えられたらそれでいいということではない。なぜなら、たとえ食べ物があったとしても、人間はそれだけでは生きられないということがあるからです。
 例えば、わたしもそういう相談に乗ったことがあるんですが、「私は行きている値打ちがない」という人がいます。「人に迷惑を掛けているだけだし、何の役にも立っていない」という人もいました。だから「死にたい」と。‥‥そういう相談は、本当に私も困りました。もうそうなったら、私の考えではなく、神さまの考えを伝えるほかはありません。
 神さま、イエスさまは、そういう人が生きる値打ちがないとおっしゃるでしょうか? 「あなたは人に迷惑ばかりかけた罪人だから、世の中の何の役にも立っていない人だから、死んだ方がましだ」と主はおっしゃるのでしょうか?‥‥いいえ、決してそんなことはありません。それどころか、主はそういう人が生きることを願っておられるのです。
 例えば旧約聖書のエゼキエル書に、次のような主の言葉があります。
 (エゼキエル書 18:23)「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。」
 (エゼキエル書 18:32)「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ、」と主なる神は言われる。」
 「立ち帰る」というのは、神さまの方を向くということです。神を求めるということです。その神さまに求めるのが、主の祈りです。神さまが「生きよ」とおっしゃるから、生きるために必要なものを求めるんです。
 このことから、私たちの父なる神さまは、私たちを愛して下さっていることが分かります。なぜなら、とにかく生きることを願っておられるということ、そして生きるために必要な助けを与えてくださるということが言われているからです。
 この世の中では、役に立たない者は邪魔者扱いされるかもしれません。会社でも、学校でも、商売でも、利益につながらないならば敬遠されます。しかし自分の愛する者に対してはどうでしょうか? 自分が愛している人は、なぜ愛しているのでしょうか? それは何か自分のためになることをしてくれるから愛するのでしょうか? だとしたらそれは愛だとは言えないでしょう。本当に愛している存在なら、その人がいるだけで、生きているだけでうれしいはずです。
 私たちの神さまが、私たちをそのように見ていてくださる。まず食べるものを願いなさいと、生きることを願いなさいと。それは神さまが、私たちが生きていてほしいと願っておられるからです。神さまが、私たちを愛しておられるからです。
 そして愛は成長を願います。我が子を愛する親は、我が子が良い人となるように成長することを願うでしょう。そのために、祈り願うことを求めておられると言えます。
 
    生きるために必要なものすべてを求める
 
 さて、そう考えますと、「私たちに必要なご飯を今日与えて下さい」と祈ることは、単に食べる物を求めるということにとどまらず、生きるために必要なものすべてを求めると言えるでしょう。食べる物、着る物、住む所、学校でのこと、仕事のこと、人間関係のこと‥‥生きるために必要な助けを父なる神さまに求めて良いのです。それは心の糧を求めることでもあります。心の糧とは、私たちの信仰でいえば、神の言葉であり霊の糧です。聖霊の助けです。
 そして、それらが与えられることによって、父なる神の名があがめられれば、それは主の祈りの前半の3つを果たすことになります。自分の欲望のためではなく、神の御名が崇められるために、神の国が来るように、神の御心がこの世で行われるために、私が生きていくために必要な助けを与えてくださいと祈る。それは本当に主の喜ばれることであると言えます。
 
    この世の命が終わっても
 
 生きることを求める。しかし、私たちは生き物ですから、やがて死ぬ時が訪れます。いくら生きることを求めても、必ず死は訪れる。それはどう考えたら良いのでしょうか。
 
 先月、私の母が亡くなりました。昨年の秋頃から、だんだん食べ物を飲み込むことが難しくなってきたと、入所していた静岡の特別養護老人ホームの方から言われていました。食べることができなくなったら、人間は生きていられません。ですから、その日がだんだん近づいてきたと思いました。
 そして、今年の1月の終わり、亡くなる何日か前に、全く食べ物を飲み込むことができなくなったと連絡がありました。秒読み段階です。それでその週に、時間が空いたので、車で静岡の母が入所しているホームに行きました。すると、それまで何年間も認知症とパーキンソン病で表情も硬くこわばっていたのが、なんとなく柔らかい平安な表情になっていました。目が明るくなっているように見えました。
 数年前から、何もしゃべらないし、体も動かせない。こっちが語りかけても聞こえているのかいないのかすら分からない状態でした。その日もそうでしたが、なんとなく表情が明るい。人間、耳は最後まで聞こえているというから、反応がなくてもいろいろ語りかけました。そして、いつものように、讃美歌を歌い、主の祈りを唱えました。主の祈りですから、今日の祈りの言葉「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」という言葉もあります。もはや食べることができなくなった人を前に「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈る。そこにどういう意義があるのかと思うかも知れませんが、まさにそれは、命を与えて下さいという祈りであることを実感しました。そしてそれは、たとえこの地上での命は終わることになったとしても、この祈りを主イエスさまが教えて下さったわけですから、母が信じた天の父なる神のみもとで永遠の糧を与えられるに違いない。そのように思っております。
 
 私たちに日ごとの糧を求めるようにおっしゃり、生きることを願うようにおっしゃる主は、主にすがる者に、神の国での永遠の命を与えてくださるに違いないのであります。


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