2019年3月3日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書65章17節
    マタイによる福音書6章10節
●説教 「絶望から希望へ」

 
    父なる神のために祈る
 
 私たちの信仰生活にとって欠かすことのできない主の祈りを、先週から学び始めました。そのとき、主の祈りは6つの願いが含まれていることを申し上げました。そしてその最初の3つの願いが、父なる神さまのための祈りであると申し上げました。自分自身のための願いの言葉ではなく、神さまのために祈り願うことを先にする。これが私たちの祈りの精神であることを主イエスは教えておられるのです。
 私たちは、何でも自分の思い通りになったらどんなにいいだろうと思います。そして神さまに祈り願うとしたら、そのことをまず祈りたいと思う。しかし主の祈りの精神で言えば、私たちの思い通りになることが、私たちのためになるのではないということでもあります。自分中心の生き方が幸せなのではない。なぜなら、私たちは私たちの主である神を賛美し、あがめるために造られたからでです。詩篇102編19節はそのことを語っています。
 それが主の祈りの最初の願い、「御名が崇められますように」の言葉に表れています。父なる神の御名が崇められることを第一に願う。そのように申し上げますと「なにか狂信的ではないか?」とか、「イスラム国のテロリストのようではないか?」‥‥と思われる方が、いるかもしれません。しかしそれはかなり違っています。なぜなら、イエス・キリストの教えは「愛」であるからです。憎しみではなく赦しを語られ、敵対ではなく愛を語られます。神は愛であると語られます。その神の愛の中に生きる。いわばそういうことです。そしてそこに私たちの人生の目的があり、平安があるということです。
 
    御国を来たらせたまえ
 
 本日は、主の祈りの2番目と3番目の祈り願いの言葉です。「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地にも」。
 まず「御国が来ますように」です。「御国」という言葉は、ギリシャ語を直訳しますと「あなたの王国」という言葉になります。すなわち、父なる神さまの王国です。言い換えれば神の国です。そして「来ますように」という言葉は、原文のギリシャ語では「来い」という命令形の言葉になっています。神さまに向かって「来い」ではなんですから、日本語では「来たれ!あなたの王国」とでもなりましょうか。
 申し上げたいことは、ここは「神の国が来ればいいなあ」というような弱々しい期待の言葉なのではなくて、「来たれ!」というような強い望みであるということです。なんとなく期待しているというのではなく、強く願っている、待望しているんです。ですから私たちは、「御国を来たらせたまえ!ぜひ!」という強い願いをもって祈るべきであるということになります。
 さて、神の国が来るとは、どういうことを言っているのかということですが、これにはおもに2つの意味があると言えます。
 
    キリストの再臨と神の国の到来を願う
 
 まずそれは、世の終わりに現れる神の国のことを指しています。すなわち、キリストの再臨と最後の審判を経て現れる神の国です。救いの完成の時です。聖書は、創世記の天地創造から始まっていました。そして人間が罪を犯し、人間の中に罪と悪が入り込み、それによって死が入り込みました。そして人間は楽園を追放され、一生を苦労して過ごし、やがて死ぬこととなりました。その失われた命が回復されるときが、キリストの再臨によってもたらされる神の国です。全聖書の最後、ヨハネの黙示録のラストの場面です。
 その神の国が来ることを願っている。言い換えれば、世の終わり、キリストの再臨を願うことでもあります。今日は聖餐式がありますが、聖餐式の時に歌う讃美歌21−81番「主の食卓を囲み」の中で、「マラナタ」という言葉が繰り返して歌われますが、このマラナタという言葉が「主よ、来たりませ」という意味の言葉で、まさしく再臨のキリストによって来る神の国のことです。そのことを願う。
 早くキリストの再臨があって、神の国が訪れることを願うわけですが、なかなかキリストの再臨がない。したがって私たちの救いの完成の時も遅れている。それはなぜかということになります。その答えは、新約聖書のペトロの第2の手紙3:9にありまして、そこにはこう書かれています。
「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」
 すべての人が悔い改めてイエスさまを信じるように、神さまは待っておられる。それで神の国が来るときを遅らせておられると述べられています。したがって、「御国が来ますように」という願いの祈りは、すべての人が救われますように、という願いであるとも言えるのです。そのように、すべての人がイエスさまを信じるようになって救われることを願いつつ、「御国を来たらせたまえ!」と強い願いを持って祈るのがこの祈りです。
 
    この世において神の支配が貫かれることを願う
 
 第二番目に、「御国を来たらせたまえ」とは、この世において神さまの支配が完全に貫かれることを願う祈りでもあります。なぜなら、御国という言葉は、ギリシャ語では「神の支配」という意味があるからです。
 そのように言うと、「神さまは全能者であるから、すでに世界を支配しておられるのではないか?」と思う人もいるでしょう。たしかに、神さまは宇宙の法則を保っておられるし、銀河系という大きな天体から、小さくて顕微鏡でも見えないようなミクロの原子の世界に至るまで、神さまの支配のもとにあるに違いありません。
 しかし、では人間はその支配を受け入れているのかと考えますと、そうは言えないのです。人間には自由意志が与えられています。すなわち、神さまに従うこともできるが、神さまに背くという選択もできる。そして人間は神に背くという選択をしている。言い換えれば、神さまの言うことを聞かない。
 牧師がよく受ける質問の一つに、「神がいるなら、なぜ悲惨な戦争が起きるのか?」「なぜ目を覆いたくなるような殺人事件が起きるのか?」というようなものがあるということは、前にも申し上げましたが、そのような質問に対して、わたしは「戦争も殺人事件も、神さまが起こしたものではありません。人間が起こしたものです」と答えます。人間が、神さまの御心通り愛し合ったなら、戦争も殺人事件も起きないはずです。けれども、その人間が神さまを信じない。また、神さまに従わない。神さまの支配に服しないんです。
 ですから、「御国を来たらせたまえ」という願いは、人が神を信じるようになること、そして神さまに従うようになることを願う意味となります。そうするとそれは、そのように祈るこの自分自身もまたそうであるようにと願うことになります。
 
    御心の天になるごとく地にもなさせたまえ
 
 さて、次に「主の祈り」の3番目の祈り願いの言葉、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」です。文語では「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」です。
 これは、ただ今の「御国が来ますように」の2番目の意味と重なります。「御心」とは父なる神の心であり、神の意志です。「御心の天になるごとく」ですから、天国では、神さまの御心がなされていることになります。たしかにそれは当然でしょう。天国、すなわち神の国では、神さまの意思がなされているに違いありません。そうでなかったら、それはもはや天国ではありません。天国は、みな神さまを信じ、神さまが心から礼拝され、平安で、お互いに愛し合っている世界に違いありません。
 それに比べて、この世はどうでしょうか? 平安もなく愛のない世界なのではないでしょうか?‥‥私たちの身の回りでも、不愉快なことが起きる毎日です。電車に乗っても、職場に行っても、学校に行っても、道を歩いていても、不愉快なことが起こります。心配事が起こります。
 悪い人が居なくなったら、悪はなくなるのでしょうか? たとえば、世界の人々を不安に陥れるテロ。ではテロリストがいなくなれば、平和になるのでしょうか? テロリストを殺害したら、テロはなくなるのでしょうか?‥‥事実は、テロリストを殺害しても、さらに憎しみが増幅されて、新たなテロリストが生まれてきます。
 私は若い頃、世の中の仕組みを正しくすれば世の中は良くなるのだと思いました。それで学生時代は、先輩の影響もあって、新左翼運動に関わりました。マルクス主義に傾倒しました。ヘルメットをかぶってデモにもよく出かけました。しかし、あるときから、次第にマルクス主義から距離を置くようになりました。それは、そのマルクス主義者の信頼し、尊敬していた人が、非常に自分勝手なで、いざとなると我先に我が身を守ろうとしたのを見たからです。まあ、人間としてそんなことは当たり前と言えば当たり前なのですが、若い私にはそのことが分からなかった。
 その後やがてキリストのもとへ導かれてから、いくら世の中の仕組みを変えても、システムを変えても、人間は良くならないのだということが分かりました。問題は人間の心の中にある罪であるということが分かりました。そしてその同じ罪が、この自分の中にもあるということも知りました。
 本日の説教題は、「絶望から希望へ」といたしました。人間が、自分自身の本当の姿を知ることは絶望です。なぜならそれは自分が罪人であるということを知ることだからです。自分の中に、愛がない。神を愛する愛がなく、隣人を愛する愛がない。それが罪人であるということです。その自分の真の姿を知ったときに、そこには絶望しかありません。
 しかし、いったん絶望を知ってこそ、真の希望が見えてきます。それがイエス・キリストというお方です。それが救いです。そのキリストが見えてくる。そこに無限の希望があります。山上の説教の冒頭の言葉、「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」とのお言葉どおりです。
 それゆえ、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」との祈りは、必然的に、わたしも含めてすべて人が、キリストの愛を信じるようになることを願う祈りにもなります。
 
    天の父に仕える
 
 「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」
 私たちは、神さまの国が来るように、神さまの御心がこの地上でもなされるように、そのことを願って主に仕えていく者です。献金も奉仕もそうです。献金も、なにか会費とか分担金というものではありません。それは感謝と献身のしるしであると言われます。その献身というのは、神の国が来るように、神の御心がなされるように、この私たちをお用いくださいという願いです。そのために自分自身を神さまに差し出す。仕えていくのです。
 私自身に神の国が来ますように、わたしの周りの人々のところに神の国が来ますように、この地域に神の国が来ますように、日本に神の国が来ますように、世界に神の国が来ますように。日々祈る者でありたいと思います。


[説教の見出しページに戻る]