2019年2月24日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編102:19
    マタイによる福音書6章9節
●説教 「人生における第一の願い」

 
    説教題について
 
 本日の説教題は、なにか講演会のような題をつけてしまいました。しかしこれは、今日のみことばに関して、私自身の人生を根底から揺さぶられ、そして主の感動に満たされた経験から出た正直な思いから出た言葉です。
 そして主は、実は私たちをここに導こうとされているのだということを強く思います。そしてここにこそ、全き平安があることを申し上げたいと思います。
 
    主の祈り
 
 本日から、しばらくの間、今日の箇所から記されている「主の祈り」をていねいに読んでまいりたいと思います。先ほどもご一緒に「主の祈り」を唱えましたが、そちらは文語の言葉になっていました。日本のプロテスタント教会が、現代の口語文ではなく、文語で祈っているのは、一つには文語は簡潔で覚えやすいということと、プロテスタント教会であれば、教派は違っても文語の主の祈りは同じ言葉を使っているので、たいへん便利ということがあると思います。
 「主の祈り」は、昔から教会の中でたいへん重んじられてきました。それは、主イエスさまご自身が今日の節の冒頭で、「だから、こう祈りなさい」とお命じになっていることから来ています。新約聖書の成立した時代とほぼ同じ時に書かれた「12使徒の教訓」という教会の文書があるんですが、その中では、主の祈りを一日に3回祈るように命じています。また教会では、主の祈りは、十戒、使徒信条と共に「三要文」と呼ばれています。そのように、主の祈りは教会の歴史の中で、ずっとたいせつに祈られてきました。その主の祈りをご一緒に学ぶことができますのを、本当にうれしく思います。
 そして主の祈りは、前回の箇所でもありましたように、私たちが願う前から私たちに必要なものをご存じである父なる神に向かって祈る。私たちを愛してくださっている父なる神です。それで私たちは、そういう安心感と信頼感の中で祈ることができるんです。
 
    神のために祈る
 
 さて、その祈りの最初の願いは、「御名が崇(あが)められますように」です。文語の主の祈りでは、「願わくは御名を崇めさせたまえ」です。御名というのは、神さまの名前のことですから、父なる神さまの名前が崇められることを願う祈りが、第一の願いとなっているわけです。
 そう言われますと、たいへん不思議な思いになるのではないでしょうか。とくに、初めて主の祈りを知ったときには、何かたいへん違和感が感じられるのではないかと思います。なぜなら、ふつう祈りというものは、自分自身に関わることを祈り願うのだと思ってきたからです。希望する学校には入れますようにとか、商売が繁盛しますように、というようにです。
 しかしこの祈りはどうでしょう。一番最初に、神さまの名が崇められますようにと、神さまのために祈る言葉となっている。これは考えてもみなかったような願いの言葉なのではないでしょうか。いや、この第一番目の願いだけに留まりません。主の祈りは、全部で6つの祈り願いの言葉からなっていると考えられますが、その最初の半分、3つの祈り願いの言葉が、神さまのための祈りの言葉となっているんです。
 そうすると、「なぜ神さまのために祈る必要があるのか?」と思うのではないでしょうか。そもそも聖書では、神さまは天地宇宙をおつくりになった全能の神さまです。何でもできる神さまです。その神さまのために祈る必要があるのか、と。たしかに、何でもできる父なる神さまのためにこの無力な私たちが祈っても、なんの足しにもならないように思われます。
 しかしどうでしょうか。例えば、私たち自身に置き換えてみて、自分がお父さんだとして、幼い我が子がこう言ったとしたらどうでしょうか。‥‥「お父さんの願いがかなえられるように、ぼくもお祈りするよ」と。その小さな我が子の祈りはなんの力にもならないようにも思われます。しかし少なくとも、皆さんはうれしいのではないでしょうか。
 主の祈りの場合は、天の父なる神さまが、私たちが「御名が崇められますように」と祈り願ってうれしく思われるだけではありません。それは実は私たち自身のためになるからです。
 
    御名があがめられますように
 
 さて、「崇められる」という言葉ですが、これは「神聖なものとする」とか「聖別する」という意味のある言葉です。父なる神さまを、いと高き方であると認めることです。神聖にして特別な方として崇めることです。
 このようにイエスさまがおっしゃるのは、逆に父なる神さまが崇められていない現実があるからでしょう。それは私たちを省みてみれば分かることです。わたしという人間、自分という人間は、神を崇めることを第一にしているだろうか、と。
 私たちは、何を第一にして生きているでしょうか?‥‥私たちの思い通りになることを第一に願っているのではないでしょうか? わたしの思い通りにすべてが動いていけば最善だと思っている。私たちひとりひとりは、何を第一の願いとしているでしょうか?私たちは、何を目標として生きているでしょうか?‥‥お金持ちになることでしょうか? 世の中で認められることでしょうか? みんなから尊敬を受け、賞賛されることでしょうか?
 それらは、自分を高めることに違いありません。自分を高くしようとしている。そのようにいうと、「誰だってみんなそう思っているじゃないか」といぶかしく思うでしょう。しかし、そのとき神さまはどこにいるでしょうか? 自分が第一で、神さまが第二でしょうか? あるいは、神さまのことなんか、考えもしないでしょうか?
 自分を第一としたとき、神さまは自分の願いをかなえるための手段となってしまいます。しかしきょうのイエスさまの言葉、この主の祈りの最初の願いの言葉は、その順序をひっくり返しています。父なる神さまが第一であると。そう言っているんです。
 
    人生の意義
 
 今日はもう一箇所、旧約聖書の詩編102編19節を読んでいただきました。もう一度読んでみましょう。
  後の世代のために
  このことは書き記されねばならない。
  「主を賛美するために民は創造された。」
 この中で「賛美する」とは、ほめたたえる、礼拝する、崇めるという意味です。つまり、先ほどの主の祈りの「崇める」と同じような意味になります。すなわち、この詩編の言葉は、「主なる神を賛美し、礼拝するために、私たち人間は造られた」と語っているんです! これは驚くべき言葉ではありませんか? 
 私は、イエス・キリストを信じるまで、そんなことは考えもしませんでした。自分の人生は自分のものだと思っていました。自分がやりたいようにし、自分の思うとおり好き勝手に生きるんだと。しかし、その結果挫折をしました。そしてイエスさまとの出会いに導かれました。そして、キリストに従って生きるという道のあることを知りました。
 さて、その後献身し、伝道者となりました。そして伝道者として歩んでいて、難しい出来事、困った問題にぶつかったこともしばしばでした。そういう中で失敗すること、思うようにならないこともしばしばありました。自分の無力さや、何のために伝道者となったのかと疑問に思うことさえありました。そんなある日、車を運転しているとき、夕礼拝でも歌っている「あなたをたたえ」というワーシップソングがCDから流れてきました。その歌詞は、まさに今日の詩篇102編19節のように、私たちが神さまをたたえ、崇め、礼拝するために、どんなときも感謝するために造られたという簡単な歌詞です。
 その曲を聴いているとき、私は、主がわたしにこう語りかけておられるように感じました。‥‥わたしはあなたを、わたしをたたえるために作った。あなたが失敗をしたとしても、わたしのために役に立たなかったとしても、それは問題ではない。あなたが今、わたしを崇めているならば、それでいい‥‥。そして私は、ものすごい平安に包まれました。
 みなさん、これは福音ではないですか? 良いニュースではありませんか?
 この世の中では、人は何かの役に立つことを求められます。能力を求められます。利益を生み出すことを求められます。結果を出すことを求められます。そうできない人は落ちこぼれていきます。また、「自分は誰の役にも立っていない」と悲観する人がいます。「人様に迷惑を掛けているだけだ」と絶望する人がいます。
 しかし主は言われます。「主を賛美するために、あなたは造られた」と。主を礼拝するために、私たちは造られた。それが第一であると。主は、私たちがどんな立派な人であるかということを問われません。今、私たちが主を崇め、礼拝しているのなら、それを主は喜ばれるのです。
 
    主の願いと共に
 
 「天におられる私たちの父よ、御名が崇められますように。」
 イエスさまは、私たちが父なる神が崇められますようにと願うように教えておられます。それは、そこに私たちの人生の意味があるからです。目的があるからです。私たちの幸福があるからです。
 何よりも、天国、神の国では、神さまとイエスさまを前にして、礼拝がなされているんです。神を礼拝することは、私たちの願いをかなえるための手段ではありません。私たちの生きる目的そのものです。
 それで私たちは、まず自分自身が神の名を崇めるように祈り願い、そして私たちの隣人が神の名を崇めるように祈り願います。そして世界中の人々が神の御名を崇めるようになるように、祈り願うんです。それが教会の第一の務めです。


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