2019年2月17日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書 64章7節
    マタイによる福音書 6章 7〜8節
●説教 「神さまと私」

 
    一対一の関係
 
 先週、日本の水泳の有力な女子選手である池江璃花子選手が、自らが白血病にかかっていることをインターネットのツイッターで明らかにしました。すばらしい活躍をされ、東京オリンピックでも活躍が期待されている選手ですので、多くの人がたいへん驚きました。そして心配する声、励ましの声が多くの人々から寄せられているそうです。私もご回復されることを願っております。
 そんな中、池江選手が再びツイッターで次のように書き込んだことが話題となっています。「私は、神様は乗り越えられない試練は与えない、自分に乗り越えられない壁はないと思っています。」
 私は池江選手がクリスチャンかどうかは知りません。しかし彼女が書いた「神様は乗り越えられない試練は与えない」という言葉は、新約聖書の中の言葉にたいへん似ていることは事実です。使徒パウロの言葉です。
(一コリント10:13)「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
 実に慰めと励ましを与えられるみことばです。私たちの神さまは、耐えられないような試練に遭わせることはなさらないというのです。
 このみことばをよく見ますと、それは、神さまという方が、私という個人に関わり、注目しておられることが前提となっていることが分かります。神さまという方が、私たち人間を作ったきり「あとは知らん、勝手にやってくれ」と言って、ほったらかしておられるお方ではないということです。私たちに関心を持ち、それどころか注目をしておられ、さらに私たちを耐えられない試練に遭わせないように、細心の注意を払って導いてくださっている方であることが、見えてきます。
 すなわち、神さまと私という、一対一の関係を持ってくださる方であることが前提となっています。これは驚くべきことではないでしょうか。大宇宙を造られた神さまです。その大宇宙から見たら、この小さな地球という星の、そこに何十億人と住む人間の中の、この私という一人をもお忘れになることなく、たいせつに見ていてくださるということ。これは驚きです。感動です。
 新約聖書では、その神さまを「父」と呼んでいます。
 
    父なる神
 
 私たちは、お祈りをする時に、神さまに呼びかける言葉でもって祈り始めるわけですが、人によっていろいろな呼びかけ方をいたします。私はだいたい「父なる神さま」と呼びかけて祈り始めますが、他のクリスチャンの祈りを着ていますと、「愛する天のお父様」と言われる方もあるし、「天の神さま」、あるいは「聖なる神よ」と言われる方もある。また加藤常昭先生のように、「教会のかしらなる主イエス・キリストの父なる神」と呼びかける方もあります。いずれにしても、神さまが私たちの父であるということを前提にしています。
 それは、きょうの聖書箇所でも言われていますように、イエスさまが私たちの神さまについて、8節で「あなたがたの父」と言っておられるからです。先ほど申し上げたように、天地宇宙の造り主であり全能の神さまが、私たちひとりひとりに関心を持って接し、耐えられないような試練に遭わせないように導いてくださるばかりか、その神さまが私たちの父であると言われるんです。私たちは慣れっこになってしまって、何の疑問も持たないようになってしまっているかもしれませんが、偉大な神さまが私たちの父であるとイエスさまが言われる。これはすばらしいこと、この上なく良い知らせではありませんか?
 もちろん前回も申し上げたように、それはどんな父親かによると思われる方もいるでしょう。中には子どもを虐待するような父親も世の中にはいるからです。しかしイエスさまがおっしゃる私たちの父なる神さまは、私たちを愛する神さまであるということです。それゆえ先ほど示しました聖句、「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(一コリント10:13)が成り立つんです。
 しかし、神さまが私たちの父であるということは、自動的にそうなったのではありません。イエスさまのとりなしがあったからこそです。私たちは神の子どころか、神の敵でありました。罪人であり、神に背き、神を信じない、神の敵であった。しかしその神の敵であった私たちのために、イエスさまが十字架にかかって、自らの命と引き換えに、わたしたちの罪を赦し、神さまにとりなしてくださった。それで初めて神さまは、私たちの父となられ、私たちは神の子となることができるようになったんです。
 そのありがたさをかみしめたいものです。
 
    くどくど祈る
 
 さて、きょうの聖書箇所も、その父なる神さまに祈るということについて教えられています。まず7節ですが、「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。」
 祈る時には、くどくどと述べてはならない。そう言われると、「えっ?」と思われるのではないでしょうか。多くのキリスト者に力を与えた人たちは、みなよく祈る人たちでした。ジョン・ウェスレー、内村鑑三、榎本保郎、マザー・テレサ‥‥。いずれも、忙しい中で、他のことを置いておいてでも祈りの時間をたいせつにした人たちです。毎日1時間も祈る人たちでした。そもそもイエスさまご自身が、ある時は徹夜で祈られましたし、最後の晩餐のあとゲッセマネの園では3時間も同じことを祈られました。ですから、これは長く祈ってはならないということではないことだけは確かです。
 では、「くどくどと祈ってはならない」とはどういうことでしょうか。
 よく見ると、「異邦人のようにくどくどと述べてはならない」と言われています。異邦人とは、異教徒であり、すなわち、真の神さまではないものを拝む人たちのことを指しています。そしてイエスさまは、その人たちについて「彼らは言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」とおっしゃっています。
 つまり、彼らは、どうしたら神さまが自分の願いを聞いてくれるかということを考えている。呪文のようなものを百万回唱えたら願いがかなえられるのか、あるいは真冬に滝に打たれたらかなえられるのか、我が身を傷つけて熱心に祈り願ったらかなえてくれるのか‥‥というように、どうしたら神が自分の願いをかなえてくれるのか、ということだけを考えている。その場合の神さまとは、何か冷酷で、気むずかしくて、分からず屋の神さまのようになるではありませんか。
 しかしイエスさまによれば、私たちの神さまは非情な独裁者ではありません。気難しくて横暴な専制君主ではないのです。私たちの神さまは、私を愛して下さる天の父です。それはどうしてそうなったかと言えば、イエスさまが十字架にかかって、わたしたちの罪を赦してくださったからです。そのことを私たちが信じることが大切です。そこからおのずと答えが出てきます。
 すなわち、誰に向かって祈るのか?ということです。異邦人のように、そもそも存在しない空想上の神さまに向かって祈ってもムダです。存在しない神に向かって祈るから、祈りが答えられることもないし、くどくど願うことになるんです。呪文のようになるんです。真の神さま、天の父に向かって祈る。このことをはっきりさせると、自然に祈りが変わってきます。
 
    あらかじめ必要なものをご存じ
 
 さて、次の8節になりますと、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」とイエスさまはおっしゃっています。
 これも不思議な言葉ですね。「私たちが父なる神さまに願う前から、私たちに必要なものをご存じなら、何も祈る必要はないじゃないか?」と思うでしょう。
 しかしたしかに、よい親は、自分の子どもに何が必要かを知っているに違いありません。たとえば、我が子が「ご飯を食べさせて」と言わなくても、ちゃんと食事を用意するに違いありません。また子どもを裸のままにさせておくはずがありません。子どもが「下着や服を買って」と言わなくても、親は着る物を用意するでしょう。
 同じように、私たちを愛する父なる神さまは、私たちが願う前から、私たちに本当に必要なものはご存じであるということです。ですから、私たちは私たちが願う前から、私たちにとって必要なものをご存じである神さまが、必要なものを与えていて下さるのです。だから当たり前すぎて、そのことが見えなくなっているのではないでしょうか。子どもにとって、親が食事を用意し、着る物を用意していてくれるのが当たり前になっていて、いちいち「ありがとう」と言わない。私たちも、父なる神さまが、私たちにとって必要なものを与えて下さるのが当たり前のようになってしまって、気がつかない。だから感謝もない。神さまが見えなくなっている。‥‥そういうことがあると思います。その神さまが見えるようになる、分かるようになるには、神さまと会話しなければなりません。それが祈りです。
 「私たちが願う前から、父なる神さまが、私たちに必要なものをご存じなのだから、私は祈る必要がない」と言って、祈らなかったら、神さまはどう思われるでしょうか?‥‥たとえば、子どもが親と全然口をきかなかったとしたらどうでしょうか?‥‥親はどんなに寂しいことでしょうか。
 困っているなら困っていると、助けてほしいなら助けてほしいと、素直に親に訴える。また、「ありがとう」と言ってくれる。そういうコミュニケーションを、父である神は求めておられると言えるでしょう。そういう中で子どもは成長していくものです。だから、「神さまが、私たちに必要なものをあらかじめご存じだから祈る必要はない」などということはないのです。

 私は、若い日に仕事を辞めて献身し、伝道者になるために東神大に入りました。そしてその在学中に結婚し、卒業年度に長男が生まれました。学生ですからお金はありません。結婚して家内が子どもを授かるまでは家内が下谷教会の幼稚園で働いて食べさせてもらいましたが、子どもが授かってからは、それをやめました。そして通っていた三鷹教会が、多くの奨学金を出してくれることになったのも奇跡でした。もちろんそれでも、生活費はギリギリでした。そして、子どもを出産する時に、三鷹の産婦人科医院で産むことになりました。そして子どもが生まれたことは本当に喜ばしいことだったのですが、産婦人科医院に支払う費用を心配しました。そうすると、そこの医院のお医者さんはクリスチャンで、何と神学生割引だと言って、費用をまけてくれたのです。もちろん、こちらからお願いしたわけではありません。勝手に負けてくれたんです。本当に助かりました。
 このことを思い出す時、私は、神さまは本当に、願う前から必要なものをご存じでいてくださるということを思わざるをえません。
 
    安心して祈る
 
 それらの経験があって、「神さまが祈る前から必要なものをご存じなのだから、祈る必要はない」と言って、祈らなくなったでしょうか?‥‥それは逆でした。父なる神さまが、私に何が必要であるかをご存じであることを知って、ますます神さまを身近に感じ、祈るようになりました。私たちとって何が必要であるかを、神さまがご存じであるから、私たちは安心して神に願い求め、また助けを求め、感謝をささげることができるんです。そうして神を知っていくことができるんです。
 私たちの父として、私たちを愛する父としていてくださる神さま。このことを知るためにも、祈る者でありたいと願います。


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