2019年2月3日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ヨナ記2章2〜3節
    マタイによる福音書6章5〜6節
●説教 「密室の祈り」

 
    祈りが大事であること
 
 キリスト教は祈りの宗教であると言われます。そしてそれは本当のことだと思います。もちろん、祈りというものはキリスト教だけにあるのではなくて、ほとんどの宗教には祈りがあります。しかし、キリスト教における祈りというものは、おそらく他の宗教の祈りとは、かなり違っているのではないかと思います。
 祈りを抜きにしたら、キリスト教は成り立ちません。いや、祈りを抜きにしたら私たちの信仰生活そのものが成り立ちません。なぜ成り立たないのでしょうか?‥‥例えば、赤ちゃんにだれも何も語りかけなかったとしたらどうでしょうか。その赤ちゃんはちゃんと育つことができるでしょうか?言葉を覚えることもできないでしょう。赤ちゃんはアメリカで育てば自然に英語を話すようになります。イスラエルで育てば、自然にヘブライ語を話すようになります。そのこと一つをとっても分かるように、子どもはまわりの人々と接する中で成長していきます。
 クリスチャンはどうでしょうか?‥‥イエスさまによって神の子としていただいたものです。神の子が成長していくためには、神さまと接して、会話して、神さまからいろいろなことを教えていただいて、成長するほかはありません。その神さまと接して会話する方法が祈りなんです。
 キリスト教というものは、私たちと神さまとの人格的な関係です。神さまとの人格的な関係というのは、神さまが生きておられる方だからです。神さまが生きておられる方だから、その神さまと共に生きる。だから思想でもなく、主義主張でもなく、いわゆる宗教でもありません。たしかに社会的な分類においては宗教なのですが、むしろ、神さまと私という関係であるというほうが正確だと思います。
 人格的な関係というのは、相手と会話をすることによってできていきます。神さまとの人格的な関係というものもそうです。その神さまとの会話が祈りです。だから祈りがなかったら、キリスト教の信仰も成り立たないのです。
 加藤常昭先生は、本の中で、人がどうしたら生きておられる神さまを信じることができるかということについて、他人はだれも手を出すことができないかもしれないと述べ、続いて次のように述べておられます。‥‥「結局のところ、その方と神さまとの問題だからです。人間がどんなに論証したって、神さまが生きて働いて下さることが起こらない限り、これはどうしようもありません。私どもは、いつの日か、いや、実はもうすでに神さまがその方を捕らえていてくださるということ、そのことにその方が早く気づいて下さるようにと祈るよりほかないのです。従って、信仰というのは、祈ることを抜きにしては成り立たないのです。これははっきり言わなければなりません。
(加藤常昭、『加藤常昭説教全集6 マタイによる福音書1』、ヨルダン社、1990年、p.194-195)
 
    密室の祈り
 
 マタイによる福音書の5章から7章に渡ってイエスさまが語っておられる、いわゆる「山上の説教」。そのちょうど真ん中に、きょうの箇所から始まる「祈り」についての教えとなっています。これもまた、信仰生活の中心が祈りであることを念頭に置かれているものと思われます。
 しかもきょうの箇所をお読みになってお分かりのように、それは「あなたの父」と呼ばれている神さまとの一対一の祈りについて教えておられます。神さまと私という一対一になって祈る祈りを教会では「密室の祈り」と呼んできました。6節で言われているとおりです。‥‥「だからあなたが祈る時には、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」
 これは何か、一人きりになれる部屋でなくてはならないということではありません。部屋でなくても良いのです。とにかく、自分ひとりになって神さまに祈ることのできる状態のことを言っておられます。
 きょう網一箇所読んだ聖書は、旧約聖書のヨナ書でした。これは海に投げ込まれたヨナが、神さまの使わした大きな魚に飲み込まれて助かり、その魚のお腹の中で祈った言葉です。そこにはヨナしかいないのですから、これもまた密室の祈りです。
 しかしきょうの教えは、神さまに祈る時には、必ずひとりの時に祈らなければならないということではありません。みんなの前で祈ってはならないということではないのです。だとしたら、教会の礼拝でも司会者や牧師が祈ることはできないことになってしまいますし、祈祷会など持つことができなくなってしまいます。
 ここでイエスさまがおっしゃっているのは、偽善者がしているように、他人に見てもらおうとして人々の前で祈ることを戒めておられるのです。「偽善者」という言葉は、この前の施しについての箇所でも申し上げましたが、ギリシャ語では「役者」とか「俳優」という意味のある言葉です。つまり、彼らが貧しい人に施しをする時に、自分が憐れみ深い良い人であることを人々に見せようとして施しをするのと同じように、自分が神を信じる敬けんな人物であることを人々に見せつける目的で、人々の集まる会堂や大通りの角に立って祈りたがるということです。現代の日本では、あまり想像できないかもしれませんが、信心深い人が多い国では、そういうことがありうるのです。つまり、敬けんな信仰者ではないのに、敬けんな信仰者を演じる。そして自分が賞賛を受けようとする。そんなことであってはならない、とイエスさまは戒めておられるんです。
 それは神さまのほうを見ているのではなく、人々のほうを見ているからです。そして神さまではなく、自分がほめたたえられることを目的としているからです。
 例えば、映画やドラマで、恋人に愛を告白する場面があったとします。ではそのその役の俳優が、本当に相手に愛を告白しているのかといえば、そうではありません。それはあくまでも演じているだけです。本当に愛しているわけではありません。それと同じです。神さまに対して祈る。しかしそれが本当に信じて祈っているわけではなく、演じている。それは祈りではないとおっしゃっているんです。すなわち、神さまの方を向いていないんです。
 神さまに対して祈るというのは、神さまに対して語りかけるということです。真剣になって神さまのほうを向いて語るしかないはずです。密室の祈りは、神さまと自分という、ただ一対一になることを強調している祈りです。神を信じていなければそのような祈りはできません。
 
    何をそんなに祈ることがあるか?
 
 考えてみますと、私の信仰に大きな影響を与えた人たちは、だいたい神さまとの祈りの時間を十分とっていた人でした。ボストロム先生、そして直接お会いしたことはないけれども、書物などを通して影響を受けた信仰者がいます。チイロバ牧師こと榎本保郎先生、内村鑑三、ジョン・ウェスレー、マザー・テレサ‥‥こういった人たちは、いずれも祈りの人でした。中には、一日のうちに1時間も2時間も密室の祈りの時間を持つという人もいます。
 そのようにいうと、世間の人々は「何をそんなに祈ることがあるのか?」と不思議に思うことでしょう。私もかつてそう思ったくちです。たとえば神社にお参りする人は何を祈るでしょうか?あるいは神棚に向かって祈る人は、何を祈るでしょうか?‥‥仕事がうまくいくように、健康であるように、商売が繁盛するように‥‥というようなことを願って祈るでしょうか。
 もちろん、私たちもそういうことを祈ります。しかしそれだけではありません。その具体的なことは、このあともまた学んでいくことになるのできょうは申し上げません。しかし、キリスト者の祈りというものは、単に現世利益を求める願いだけではありません。
 それから、神棚に向かって祈る人は、こちらの願いを申し上げるだけではないかと思います。しかしキリスト者の祈りは、こちらが申し上げるだけではありません。神さまの言葉に耳を傾けることも含みます。神さまの言葉というのは、基本的に聖書を通して語りかけられる神の言葉です。また、礼拝を通して聞き取る神の言葉です。そのように、キリスト者の祈りは一方通行ではありません。祈りは神さまとの会話だと言われるのは、そのためです。
 イエスさまもよく祈られました。密室の祈り、すなわちひとりになって祈られたことも聖書に書かれています。
 聖書を読むと、イエスさまがによる福音書1章35節には、イエスさまが朝早くまだ暗いうちに起きて人里離れたところにいって祈られたこと(マルコ1:35)、あるいは弟子たちを先に湖の向こう岸に行かせたあと、祈りためにひとりで山にお登りになったこと(マタイ14:23)、また、イエスさまが祈るために山に行って徹夜で祈られたこと(ルカ6:12)などが書かれています。また、最後の晩餐のあと、ゲッセマネの園で祈られた時も弟子たちを置いてひとりになって神さまの御心を尋ね求める祈りをされました。そのように、イエスさまはしばしば一人きりになって神さまと一対一になられて祈られました。
 そしてまた、マルコによる福音書の9章には、イエスさまが穢れた霊に取りつかれた男の子から穢れた例を追い出されたことが書かれていますが、その時弟子たちが自分たちにはどうして穢れた例を追い出すことができなかったのかとイエスさまに尋ねました。するとイエスさまは、「この種のものは祈りによらなければ決して追い出すことはできない」とおっしゃいました。このことから、イエスさまのなさる奇跡の源泉は、神さまとの祈りによるものであることが分かります。すなわち、神さまの力を経験するためには、祈るということがどうしても必要であるということです。
 
    真の父が対象
 
 また、きょうの箇所でイエスさまは、6節で「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」とおっしゃっています。
 神さまのことを「あなたの父」と言われている。父と言われると、皆さん、自分の父親を想像されると思います。そうすると、それは尊敬できるお父さんばかりではないと思います。先週、虐待で父親が自分の娘を死なせた事件が報道されました。たいへん痛ましい事件でした。そんな父親もいるわけです。そうすると、神さまが「あなたの父」と言われると、理解できないと思う人もおられると思います。
 しかしこれは、神さまが人間の父親のようだというのではないんです。逆です。神さまこそ真の父であるということです。そして地上の人間の父は、その真の父である神さまのようであるべきだということになります。いずれにしても、神さまこそ真の父である。その真に父である神さまは、あなたを愛する真の父なんです。
 
    神との出会い
 
 6節をもう一度見ますと、「隠れたところにおられるあなたの父」とおっしゃっています。神さまが「隠れたところにおられる」と。これはたいへん面白い言い方だと思います。神さまは、ふだん人間の目からは隠れている。だから世の中の人々は、「神さまって、いるのかどうか分からない」と言うんです。かくいう私たちも同じように思っていたんではないでしょうか。
 しかし、祈ることによってその隠れていると思っていた神さまが見えてくる。神さまと出会うことができるんです。
 前にもお話ししました、富山県の富山新庄教会を開拓伝道して建てた亀谷凌雲先生。亀谷先生は、浄土真宗のお寺の跡取りでした。その亀谷先生が、住職を継ぐ前、北海道の小樽で学校の教師をしていたときのことです。キリスト教の有名な伝道者である金森通倫先生が小樽に来た。それで亀谷先生は、金森先生を訪ねました。そして、キリスト教の祈りについての疑問をぶつけました。仏教の中でも浄土真宗には祈りというものがない。ただ南無阿弥陀仏の念仏を唱えることで足りるとする宗教です。それで亀谷先生はキリストの伝道者である金森先生にこう言ったそうです。浄土真宗では、祈りがない。それは、阿弥陀仏にすべてをゆだねきっているから祈る必要がない。しかしキリスト教であれこれ祈るのは、神さまに任せきっていないからなのではありませんか?と。それは神さまに対して失礼なんじゃないでしょうか?と。そう尋ねた。
 すると金森先生は、「君は祈ったことがあるかね」と亀谷先生にお聞きになった。祈りなき宗教をもって得意としていた亀谷先生は「祈ったことはありません」と答えた。すると金森先生は「それでは祈りは判りませんよ、祈って御覧なさい。祈れば必ず神より力が与えられ、神の臨在に接するのです」といわれたそうです。
 まさにそういうことだと思います。祈りがなんであるかということは、祈ることをもってしか説明できないところがあります。ですから、きょうのイエスさまのお言葉は、神さまと一対一になって祈ることへの招きだということができます。
 最後に、マザー・テレサの言葉をご紹介いたします。「祈ることを愛しなさい。日中たびたび祈りの必要を感じるようになさい。多少の面倒を乗り越えて祈りなさい。祈りは心を広くして神ご自身という贈り物を受け入れることができるようにする。願い求めよ。心は大きくなって神を自分のものとして受け取り、離さないでいることができるようになる。」


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