2019年1月27日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編33編13〜14節
    マタイによる福音書6章1〜4節
●説教 「ひそかな楽しみ」

 
    インフルエンザ
 
 先週は想定外のインフルエンザにかかり、皆さんにはたいへんご心配とご迷惑をおかけしました。とくに役員の方々にはお世話になりました。週報に書いたとおりですが、私はクリスチャンとなって初めて主日の礼拝を休むこととなりました。なんとか礼拝に、とも思いましたが、今インフルエンザは学校でも出席停止となります。つまりウィルスを拡散させてはならないのです。そういうわけで、あきらめて寝ておりました。それで、19日の土曜日夜の役員研修会から、日曜日夜の夕礼拝に至るまで、70周年記念行事である小林克哉先生のご奉仕の集会に一つも出ることができませんでした。また、小林先生とは、日曜日の朝携帯電話から彼の携帯電話に「よろしく頼む」ということを電話で話しただけで、会うこともできませんでした。
 しかし考えてみれば、今回は最初から小林先生の奉仕と決まっていましたので、私が休んでも穴を開けることなく、すべての礼拝と集会が支障なく執り行われたわけです。これは本当に神さまのご計画としか思えません。何という主のご配慮であったかと、感謝いたしております。
 
    施し
 
 さて、イエスさまの山上の説教に引き続き耳を傾けてまいりましょう。
 1節で「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」と述べられています。ここで「善行」と日本語に訳されている言葉は「義」と訳される言葉が使われています。正義の義です。聖書ではもともと「義」、すなわち「正しさ」というものは、神さまに対して正しいことをするということです。だから、人に見てもらおうとして義を行うということは、それは人に見てもらうために神さまに対して正しいことをする、ということになり、それはそもそも意味としてちょっとおかしいことになります。神さまに対しておこなうことを、人間に見てもらうことを目的として行う。これは、おかしいわけです。
 ここで言われている「善行」すなわち「義」は、そのあと2節3節4節で出てきます「施し」のことを指していると言えるでしょう。そうすると、前回のところで「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えられ、きょうのところではなぜいきなり「施し」ということが出てくるのかと変に思われる方もおられるでしょう。
 しかし実は、今日の箇所から続けて出てきます、施しと祈りと断食。この三つは、ユダヤ人の信仰生活の柱であると言われています。すなわち、神を信じる生活とは、施しをすること、祈ること、断食をすることとして現れると考えていたんです。
 以前イスラエルに旅行に行った時、エルサレムの道ばたの少し高い所に座っている人がいました。堂々と座っていました。するとガイドさんが、「あれは物乞いの人だ」と言いました。そして「イスラエルでは物乞いは威張っている。なぜなら、施しという良いことをさせてやっていると思っているからだ」と説明してくれました。
 そのように、イスラエル人(ユダヤ人)は、物乞いの人が堂々としているほど、貧しい人に施しをするということを重んじていましたし、今も重んじています。貧しい人を顧みることは、聖書の教える所でもあるからです。そしてそれはその通り尊いことに違いありません。
 
    格好悪いからやめろ、か?
 
 しかしきょうイエスさまは、その尊い施しという行為を、人に見せるためにするなとおっしゃっています。
 2節では、「あなたは施しをする時には、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」と言われています。
 「偽善者」という言葉。この言葉のギリシャ語には、「役者」という意味があります。演じているんです。自分は信心深い信仰者であるということを演じている。本当はそうではないのだけれども、演じている。見せかけている。そして、多くの人が集まる会堂や、多くの人が道を行き交う街角で施しをする。「自分の前でラッパを吹き鳴らす」というのは、施しをする時に本当にラッパを吹いて注目させるわけではないでしょうけれども、あたかもラッパを吹き鳴らして人々の注目を集めるような、「自分はちゃんと貧しい人を顧みて、施しをしていますよ−!」と宣伝するようにして施しをしている、ということでしょう。自分が善人であり、信心深い信仰者であることを役者のように演じ、人々に見せつけるために施しをする。‥‥そうであってはならないと、主はおっしゃっています。
 なぜそんなことであってはならないと言われるのか? そのように人々に自分が義人、善人であることを宣伝するようなやり方では、かえって人々の反発を招くから、やめると言われるのでしょうか?
 たしかに、あまりにも自分が良いことをしていますよと見せびらかすかのようになされる善行は、鼻持ちならないところがあります。
 しかしここでイエスさまが言われることは、そのような見せびらかすようなことはかえってみっともないからやめろということではありません。かえって人々の反発を招くから、目立たないようにやりなさいということではないんです。もしそういうことをおっしゃっているのだとしたら、結局は同じことになってしまいます。つまり、人の目にどう映るかを計算しているという点では、同じことになってしまいます。
 人の目に良く映るものでありたい。それは結局は、自分がほめられること、自分が高められることを願っているに過ぎません。
 
    すでに報いを受けている
 
 2節の後半で「彼らはすでに報いを受けている」と言われています。この「報いを受けている」という言葉は、ギリシャ語では「領収書を渡す」というような意味があります。たとえば、バークレーという新約聖書学者によれば、むかし奴隷を売った場合の領収書に、「取り決めの全額をたしかに受け取りました」と書いたのだそうですが、そのように領収書を渡される。
 つまり、人々の前で賞賛されたくて、自慢をしたくて施しをする。その時点で領収書は切られているということです。精算は終わっている。だから神さまからの報いは何も期待できないと。
 たしかに、人々に自分の善行を見せつけ、誇るために施しをしても、その施しを受けた貧しい人が助かるならば良いではないかという考え方もあるでしょう。しかしここで言われているのは、神を信じる者としてそれはどうなのか、ということです。最初にも述べましたように、「善行」という言葉は「義」という言葉であり、それは神さまに対してする行為です。そのように神さまに対してするはずの行為が、自分がほめられるために、自分が人々から賞賛を受けるためになされる。そうすると、それが実際に人々から賞賛を受けるかどうかはともかくとして、その時点ですでに領収書が着られている。すなわち、神さまからは何の報いも与えられない。
 それは神を信じる生き方なのか?ということです。それは神さまをだしにしているパフォーマンスにすぎないということになります。
 
    ただ神を見よ
 
 3節でイエスさまは、「施しをする時は、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」とおっしゃっています。実際は、右の手も左の手も自分の手には違いないのですから、右の手のすることを左の手に知らせないという言い方は、何だか大げさのようにも聞こえます。しかしここまで言われると、全く人目に付かないようにせよということが、非常にわかりやすい表現で強調されていると言えます。
 あるいは、右手のしたことが左手に知られる前に忘れられてしまうと考えても良いでしょう。それぐらい、自分が良いことをしたということをすぐに忘れる。ただ神さまを見ているんです。人から見てどうこうではなく、ただ神さまを見ている。自分が良いことをしたという意識すらない。
 きょうの聖書箇所で、神さまからの報いということが出てきます。4節では、人目に付かないように、右の手のしたことを左手に知らせないほどにするならば、「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」と述べておられます。そう聞くと、「なんだ、結局は報いられたいのではないか。人から報いを期待しないと言うが、神様からの報いは期待するんじゃないか」と冷ややかに批判する人もいるでしょう。
 しかし私たちは実は知っているはずです。ただ神さまからの報いを期待する、ということが、どんなに難しいことであるか、ということを。‥‥人からは全く感謝されることもなく、尊敬されることもない。ただ神さまが報いてくださることを信じて、おこなうということができるのか、ということです。そうなると、これは良いことをしたとか、しないとかいう問題ではなく、目に見えない神様を本当に信じているのかどうか、ということになってきます。
 19世紀、イギリスで、ジョージ・ミュラーという人が孤児院を始めました。財産があったわけではありません。ただ、町に孤児があふれ路頭に迷っているのを見て、聖書の言葉に心を動かされた。そして孤児院を始めるのが神の御心であるとの召命を受けて、自分の持っているものをすべて売り払って孤児院を始めたのです。
 最初は建物を借りて始めました。その時、ミュラーたちは、孤児院を運営する規則を作りました。その中に次のようなものがありました。‥‥「いっさい募金を頼んで回らない。ただ神さまに祈って神さまにお願いする。」また、「寄付をしてくれた人の名前と金額を発表して、人の名誉心をあおるようなことはしない。それぞれの寄付者には、ひそかに感謝する。」‥‥そのようなことを決めたのです。そして彼らはただ、神に祈ることによって、神さまからの助けを期待して孤児院を運営していったのです。そしてすぐに孤児がたくさん預けられていきました。
 これはだれが見ても、無茶な冒険です。寄付を頼まないし、寄付者の名前を発表しない、つまり人間の名誉心をあおらないで、いったいどこから寄付が集まるというのか?すぐに孤児院は行き詰まって、つぶれてしまうのではないでしょうか?‥‥神を信じない人にはそう思えたのです。
 しかし、ミュラーの孤児院は、決してつぶれることはありませんでした。どこからともなく寄付が集まり、しかも建物は次々と建ち、孤児たちは十分な食物と衣服を与えられ、2000人以上の孤児を収容するようになったのです。これは神の奇跡です。目には見えない神様にすがって、期待したので、神様が答えてくださったのです。この場合の神の報いとは、神様が生きておられることを知るということです。‥‥私たちが、人からの報いを捨てて神のみことばに従ったとき、神の御業を見るのです。 そして神がたしかに生きて働いておられることを見た時、私たちはこの上ない喜びに満たされます。それはかけがえのない喜びです。
 ここでいわれている報いとは、いわばそういう報いです。
 
    神を知る
 
 神さまという方がいるのかいないのか分からない。そのように考える人は多いでしょう。神さまがいるのかいないのかというようなことは、自分の頭の中で考えていても分からないことです。しかし例えば、きょうのようなみことばに従ってみる。すると、このイエスさまのみことばに従おうとするときに、すでに神さまのことを考えざるをえないことが分かってきます。心が次第に神さまに向いていくんですね。
 そして従って行った時に、神さまが応えてくださる。神さまがたしかにおられることが分かってくる。そのように思います。


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