2019年1月13日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記17章 1〜2
    マタイによる福音書5章43〜48
●説教 「敵を愛する」

 
    敵を愛する
 
 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」この言葉はキリストの言葉としてもっとも有名なものではないでしょうか。なぜこの言葉がそれほど有名かと考えますと、やはりそれはこの言葉が私たちに対して非常に衝撃を与えるからだと思います。
 「敵を愛する」ということは、人間の自然な感情とは逆です。「敵」というのは、文字通り敵です。私の敵です。私が憎む者です。私を滅ぼそうとする者です。また、「迫害する者」とは、私を憎む人であり、いじわるをするし、いじめる者です。そして、時には私たちを殺そうとさえする者のことです。そんな人をどうして愛さなければならないのか。また、愛することができるのか?‥‥考えれば考えるほど、これは受け入れがたい言葉です。そんなことは不可能です。
 むかし、私が若い頃、ある宗教に入っていた同級生が、私のところにその宗教の勧誘に来ました。そしてその宗教の入門書を置いていきました。その中に、キリスト教の「愛」を批判しているところがありました。そこにはだいたい次のように書かれていました。‥‥キリスト教の愛は「愛さなければならない」という一つの規範として考えられている。愛は努力すべきものとしてとらえられている。人間は愛を説かれても、それは観念論であり、実行不可能なことを押しつけている。愛を説くキリスト教の世界で戦争が絶えなかったという事実に、この矛盾があらわれている。‥‥そのようなことが書かれていました。
 もしキリストのこの教えが、その本に書かれていたように「愛さなければならない」というおきてを説いたものだとしたら、それはたしかに実行不可能な無理難題をイエスさまは押しつけているように思えます。つまり、「そんなことは無理です」と言うほかないのです。自分を迫害し、いじめ、苦痛を与え、滅ぼそうとする、そういう人を愛することはできないのです。
 しかし、いっぽうで、このイエスさまの言葉が、たいへん有名であるという事実は、そのように実行不可能な言葉ではあるけれども、やはりその中に尊い真理があることを多くの人は気がついている、あるいは感動さえ覚えるということがあるのだろうと思います。
 
    隣人を愛する
 
 43節でイエスさまは「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」とおっしゃっています。この中の「隣人を愛し、敵を憎め」という言葉は、旧約聖書の中にはありません。「隣人を愛しなさい」という言葉はあります。そしてそれは「十戒」の教えの柱の一つです。しかし「敵を憎め」という言葉は旧約聖書にはない。ないけれども、多くの人々はそのように考えているということでしょう。
 続けて44節でおっしゃったのが先ほど述べた「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」というお言葉なんですが、さて、敵を愛することはできないが、では「隣人を愛する」ことはできるのか? 私たちの身近な人なら愛することができるのでしょうか?
 以前、愛知県のある教会の伝道礼拝の説教者として招かれていきました。その教会の前の土地がちょうど良い具合に教会の駐車場になっていました。それは教会の土地ではなく他人から借りている土地だということでした。そして、その土地を貸してくれた人はもう十年以上も前に亡くなってしまっているそうです。しかし、その土地の相続をめぐって、子供の間に争いが起きて十年以上もたっているのに決着がつかないのだそうです。決着が付けば、その土地の上に家が建ったり、あるいは他の人に売られたりしてしまう。しかし争っていて決着が付かない。それでいまだに教会は駐車場として借りることができているのだということでした。なんとも皮肉なことです。
 肉親と言えば、もっとも身近な隣人です。しかし、では隣人なら愛することができるかというと、必ずしもそうは言えない。「骨肉の争い」という言葉があるように、隣人がもっとも憎い敵に変わったりします。そう考えると、「敵を愛する」という一見途方もないことを言っておられるように聞こえるこの言葉も、実は「隣人を愛する」という言葉の中に含まれてくることが分かります。
 
    敵を愛する神
 
 45節で、イエスさまは敵を愛すべき理由を述べておられます。「あなたがたの天の父の子となるためである。」‥‥神さまの子となるのだというのです。
 ここでは、「敵を愛したら、あなたを神の子と認めてあげよう」という意味ではありません。なぜなら、48節で「あなたがたの天の父が」とおっしゃっているように、もう神は父なのです。イエスさまを信じる者にとって神は私たちの父なんです。ですから、「あなたがたの天の父の子となるためである」というのは、名実ともに神さまがあなたがたの天の父、そして私たちは神の子となるためだ、ということです。イエスさまによって「神の子」となりました。しかし今度は名前だけが神の子なのではなく、その中身も神の子となるためだ、ということになります。
 そうすると、わたしたちはともかく、神さまは「敵を愛する」方だということになります。続きに書いてあります。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」
 私はむかしこれを読んだとき、不思議に思いました。なぜなら、もし神さまがこのような方であるとしたら、神さまというのは不公平な方であると思ったからです。だって、悪い者をこらしめて、やっつけるのが本当の神さまではないだろうかと思ったからです。テレビドラマを見ても、映画を見ても、悪い者をやっつけるのが正義です。たとえ悪党がこの世でのさばっても、神さまはそれを赦さない、というのが私たちが神さまに期待することではないでしょうか?
 ところが、ここでイエスさまがおっしゃっていることは、天の父である神は、「悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる」というのですから、開いた口がふさがらないように思えたのです。「神さまはどうして悪い奴をやっつけて、滅ぼしてしまわないのだろうか?」と。これでは、正しい者がバカを見るではないかと思いました。
 しかし、そのような考え方は、私が導かれた後、変えられました。私はイエスさまを信じるようになった後こう思いました。「もし、神さまが、悪い者をただちに滅ぼす方であったとしたら、私はとっくに滅びていた。」と。それは私自身が、実は罪人であり、悪い者であったということに気がついたからです。私がイエス・キリストを信じるようになって、一番感謝していることは、「この自分が実は罪人である、心の貧しい者である」ということを気づかせていただいた、ということです。そして「私が罪人であるにもかかわらず、神は私を愛して下さっていた」ということです。
 神さまが、悪い者の上にも、つまり罪人の上にも、神さまにさからう者の上にも、太陽を昇らせ、正しくない者の上にも雨を降らせて下さるのは、神さまがねばり強く、偉大な愛をもって、罪人が悔い改めるのを待っておられるからです。私たちが神を信じるようになるのを、忍耐強く待っていてくださるように。
 神は未来を見ておられるのです。今罪人である者も、今神に逆らう者でも、必ず悔い改めて主イエスを信じる日が来る‥‥そのように見て下さるのです。そのように主イエスは私たちを見て下さるし、忍耐を持って罪人の私を導いてきて下さったのです。
 
    神の敵である私を愛してくださるキリスト
 
 私たちは、みな神にそむいて生きていました。神さまの言うことなんか聞かないで歩んでいました。それが罪です。神の敵だったのです。そのように神の敵であった私たちが、どうして先ほどのように神を「父」と呼ぶことが赦されているのでしょうか?‥‥それは他でもない、神の御子イエスさまが、私たちの代わりに十字架についてくださったからです。
 もちろんこんなことを私たちは教会で耳にタコができるほど聞かされてきたことです。だから、「あなたのためにイエスさまが十字架で死んでくださった」と言われても、慣れっ子になってしまっていて、何の感動も感じないのです。
 しかしもう一度よく考えてみたい。神の敵であった私、神さまの言うことなんか聞かないで自分の思うとおりに歩んでいたこの私を、神は憐れんで、愛して、受け入れて、本当ならこの私が滅びなければならなかったのを、神の一人子イエスさまを私の代わりに十字架で滅ぼしてしまわれた。私たちは、このことに何の感動も感じないようになってしまってはならないんです。
 三浦綾子さんの「ひかりと愛といのち」という本の中に、こんな話が出てきます。三浦さんがまだ肺結核で療養所で身を横たえている時のことだそうです。三浦さんは何人かの刑務所にいる囚人の人と文通をしていたそうです。その中の一人はヤクザだったそうです。戦後神奈川県の厚木で二人を殺して捕まり、獄に入れられた。そしてそこでキリストを信じたのだそうです。そしてこの人は変わったそうです。表情も変わったそうです。「これがあの二人殺しの犯人か?」と誰もが驚くほどの、輝いた顔になったそうです。
 この人・Sさんは、死刑が確定した。しかしそれでもやけにならず、死ぬことに恐れを感じたりしなかったそうです。そして暇さえあればSさんは、イエスさまが十字架にかかって自分たちの罪を帳消しにしてくださったこと、死んでも地獄ではなく天国に行けるということを、同じ刑務所の囚人たちに伝え、次々とキリストを信じる人が増えていったそうです。そのころ、カリエスで寝たきりの三浦綾子さんは、Sさんと知り合った。そして文通をしていた。Sさんはいつも三浦さんにやさしい慰めの手紙をくれたそうです。そして手紙の最後に必ず「罪人の頭・S」と書いていたそうです。
 三浦さんは何人かの人たちと相談して、このSさんの減刑運動を始めたそうです。ところがSさんは、「自分は犯した罪を償いたい」と言って、減刑運動を中止してほしいと言いました。そしてついに、Sさんは死刑台に上っていったそうです。
 キリストの愛、イエスさまの十字架の愛は、ひとりの人間を変えてしまうほどの愛です。自分の力で変わるのではない。イエスさまの力によって、変えられるのです。 Sさんは、自分は御子イエスさまがご自分の命に代えて、この私を愛してくださっている、ということをいつも感謝していたに違いありません。愛だけが人を変えることができるのです。
 かくいう私も、十字架のキリストの愛を知らされて、実際に変わったかどうかは兎も角、それまでは知らなかった「感謝」ということが分かるようになりました。
 
    完全
 
 きょうの聖書でイエス様は、わたしたちを、どこに導いていって下さるのかを語っておられます。(48)「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」‥‥この「完全」というのは、「完璧な人間になる」と言うことではありません。それはジョン・ウェスレーが言ったように、「愛における完全」です。まず「愛する」ということが第一の動機になることを言います。
 もちろん、それは私たちが自分の力でなるというのではありません。そんなことはできません。興味深いのは、ここの「完全になりなさい」という言葉は文法で言えば確かに命令型でもあるのですが、同時に「未来形」でもあるのです。つまり前後の関係から言えば、どの聖書も訳しているように、「完全な者となりなさい」という訳で良いのですが、イエスさまのいたずらかどうか分かりませんが、「完全な者となるだろう」とも訳すことができるのです。
 そうするとここは命令ではなくなる。むしろ、イエスさまが私たちを、やがて完全な者にしてくださる、という約束の言葉となるのです。
 つまり、イエスさまには目標があるのです。イエスさまは私たちに夢をもっておられるのです。‥‥私たちがやがて完全に人を愛することができるように、そういう人となるように。十字架にかかって私たちを救ってくださったイエスさまは、責任持ってこの愛のない罪人の私たちを、夢をもって導いてくださるのです。いわばイエスさまの決意表明の言葉となります。
 
    小さなこと
 
 47節の言葉は興味深いと思います。「あいさつ」です。あいさつをする。小さなことに違いありません。しかし、イエス様は身近なことをおっしゃったんです。あいさつをする。あいさつができる‥‥ここに敵を愛するということの具体的な例が出ているんです。これは小さいことかもしれない。しかし、憎んでいる人にはなかなか気持ちよくあいさつをするということができないのではないでしょうか。しかし、イエスさまを信じればできないことではないのです。イエスさまに結果はお任せして、崖から飛び降りる思いで、憎い隣人、言い換えれば敵となってしまった人に心から挨拶をする。主イエスは喜んで、このことを支えて下さるでしょう。なぜなら、主イエスの御心だからです。
 44節に戻りますと、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とあります。「祈りなさい」と。祈ることなら、誰も見ていません。神様と私という秘密です。憎い人のために、祈る。そこから始まることをイエスさまは教えておられると言えます。


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