2018年12月30日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 士師記11章34〜35節
    マタイによる福音書5章33〜37節
●説教 「格好悪く生きる」

 
    誓い
 
 主の年2018年も、まもなく終わろうとしています。皆さまにとってはどんな一年だったでしょうか。良い年だったという方もおられるでしょう。可もなし不可もなし、という方もおられるでしょう。ひどい年だった、悲しい年だった、あるいは不本意な年であったという方もおられるでしょう。しかし、主にあっては絶望ということがありません。常に希望があるのみです。それは、絶望的なこの世の中に、人となって来てくださり、そして共に歩んでくださり、十字架と死という絶望を経て復活された方、イエス・キリストがおられるからです。そのイエスさまが、永遠の神の国へと歩ませてくださるからです。その希望の主と共に、新しい年へと向かって参りたいと思います。
 さて皆さんの中には、今年の元日に、「今年こそは毎日日記をつけるぞ」と誓ったが‥‥結局、三日坊主で終わったという方もおられるかもしれません。34節でイエスさまは、「一切誓ってはならない」と言っておられます。そうすると、「今年こそは」と日記を書くことを誓うのもダメなのかと言えば、実はそういうことではありません。日記を書くことを誓うというのは、自分を励まして言っているわけですが、ここでイエスさまがおっしゃっていることは、私たち自身の生き方にかかわることです。
 きょうの聖書で言われている「誓い」というのは、神さまにかけて誓うことを言っています。例えば日本でも、「天地神明に誓って」という言い方があります。「天地神明に誓って、私の言っていることは本当です」というような使い方ですね。神掛けて、ということです。神さまを持ち出して、自分の言葉が真実であることを強調する。それがここで言う誓いです。
 33節でイエスさまがおっしゃっている、「昔の人は『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている」という言葉ですが、これは旧約聖書の申命記23章22節などにもともとの言葉があります。そして、聖書全般に言って、「誓い」というものは二つのことを指していると言えます。一つは「誓願」です。それは今申し上げた申命記23:22にも記されていることです。もう一つは、「自分の言葉が真実であることを強調する」ために神さまを持ち出す言い方です。
 
    誓願の失敗例
 
 さて、そのような誓いのどこが問題なのかということなんですが、聖書を読んでいますと、誓ったことの失敗談が時々出てまいります。
 きょう読んでいただいた旧約聖書の箇所のほうは、まさにそれです。それはエフタという士師、つまり国のリーダーが誓ったことについてです。イスラエルは小国であり、まわりを異民族に囲まれていたので、常に侵略されていました。それでそのときはエフタが士師として立てられ、アンモン人の侵略と戦うことになりました。そしてエフタがその戦いのために出陣する時になって、神さまに誓いを立てました。これは誓願と呼ばれるものです。どういう誓いかというと、もし主が勝利を賜ったならば、自分が戦いから帰ってきた時に家の玄関から出てくる者を、主に献げますという誓いをしてしまったのです。主に献げるというのは、旧約聖書の時代に羊や牛を祭壇で焼いて献げたように、その人を焼き尽くす献げ物としてささげるという誓いをしてしまったんです。そしてエフタはイスラエルの民を率いて出陣し、アンモン人に勝利して帰ってきました。すると家の戸口から真っ先に迎えに出てきたのが、自分の娘だったんです。それでエフタは悲しみながらも、神さまに誓ったことだからと、自分の娘をいけにえとして献げた。そういう悲劇が起きました。そもそも、神さまが人間をいけにえとして献げるなんて喜ばれるはずもないんですが、それぐらいに、神さまに誓ったことは、絶対に果たさなければならないと考えていた。そして、人々がその誓いを聞いていたため、誓いを果たさないと自分のメンツにかかわるという思いもあったでしょう。しかしそれは、人間の勝手な誓いです。それが悲劇を生んだんです。
 
    言葉の真実の強調の失敗例
 
 今のは誓願という誓いのケースですが、もう一つは先ほど述べましたように、自分の言葉が真実であることを強調するための誓いです。
 たとえば、ダビデ王の例ですが、ダビデがバト・シェバ事件を起こしたあとのことです。バト・シェバ事件とは、ダビデが自分の部下であるウリヤという人の妻を奪ってしまったばかりか、そのウリヤをわざと敵との戦争の激しい場所に送って、戦死させたという事件です。それを主は見逃されませんでした。それで主は、預言者ナタンをダビデの所に遣わされました。サムエル記下12章です。そのとき預言者ナタンは、ある話をしました。‥‥お金持ちで多くの羊を飼っていた男と、貧しくてたった一匹しか羊を持っていない男がいた。あるとき、そのお金持ちの男は、自分のところに来た客にごちそうを出す時に、自分の羊を屠ることを惜しんで、貧しい男がたいせつにしていた一匹の羊を取り上げて客に提供した‥‥という話をしました。
 ダビデ王はそれを聞いて激怒し、「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ」と言いました。王として、貧しい人を虐げるそのお金持ちは許せないと怒った。まことに格好いい王の態度だと言えるでしょう。このダビデが言った「主は生きておられる」という言葉が、この場合は誓いの言葉となるんです。そのお金持ちの男を死刑にすることを誓うということです。しかしナタンは言いました。「その男はあなただ」と。まさにあなたはウリヤの妻バト・シェバを奪い、ウリヤを死に追いやった。それはこのたとえ話のお金持ちの男そのものだと。あなたが死刑だと言った、その死刑になる男があなただと。そのナタンの言葉を聞いて、ダビデは自分が罪を犯したことを悟りました。
 
    神を利用するな
 
 他にもまだまだありますが、以上の例を見ただけでも、誓いということがいかに身のほど知らずかということを証言していると言えるでしょう。いずれも、自分の正しさを強調しているんです。神さまを信頼しているというよりも、自分です。神さまではなく、自分が前面に出ている。
 イエスさまが「一切誓ってはならない」とおっしゃっているのはまさにそのことです。イエスさまは、誓いということそのものを否定しておられるのではありません。なぜなら誓いというものはモーセの律法にも書かれているからです。しかしその誓いを、人間が自分勝手に使ってしまっていることを否定しておられるのだと言えます。いわば、自分を高めるために神を利用するな、真実を口にせよ、ということです。
 イエスさまは、「天にかけて誓ってはならない」「地にかけて誓ってはならない」「あなたの頭にかけて誓ってはならない」とおっしゃっています。これらは、神にかけて誓っているのではないから良いのではないか?と思うかもしれませんが、まさにそこにワナがあるわけです。当時のユダヤ人たちは、神にかけて誓うと、果たせなかった時にまずいから、神の代わりに「天」や「地」、「自分の頭」にかけて誓うということをした。しかしそれはごまかしに過ぎないとおっしゃるんです。それらは皆同じことだと。「天」は神のおられるところであり、「地」は神がお造りになった神のものであり、「あなたの頭」も神がお造りになったものであって、神にかけて誓っていることと変わりはないのだと。神さまをだしにして、神さまを利用して、自分を高めようとしているんだ、とおっしゃっているんです。
 たとえば「絶対に君を幸せにしてみせる」とプロポーズのときに言う。たしかに格好いい言葉です。「絶対に君を幸せにしてみせる、神にかけて誓う」というとたいへんそれが強調される。しかし、本当に人間が人間を幸せにすることができるかと言えば、それはできないんです。「髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできない」と主はおっしゃっています。10万本あるという髪の毛。そのたった一本の髪の毛すら、わたしたちは白くも黒くもすることができません。もちろん、髪染めを使えば白髪を黒くすることは見かけ上はできますが、本当に黒くなったわけではありません。わたしたちは、自分の寿命を延ばすこともできません。今の時代ではなく、戦国時代に生まれたかったと思っても、できません。違う両親から生まれたかったと思っても、できません。しかしそれらすべてをおできになる方がいます。それが神さまです。
 何もできない人間が、その神さまを引き合いに出して誓うなど、何様のつもりかと、イエスさまはおっしゃるのです。身の程をわきまえよということです。身の程をわきまえないことを言って、かっこつけようとするな、ということです。
 
    格好悪くて良い
 
 本日の説教題は「格好悪く生きる」とさせていただきました。なんと魅力のない説教題でしょう。多くの人は、かっこよくありたいと願う。それに反するような説教題です。
 ペトロのことを思い出します。最後の晩餐の時、イエスさまは弟子たちに対して、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」(マタイ26:31)とおっしゃいました。それに対してペトロは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません」と言いました。それに対してイエスさまは、「あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしのことを知らないと言うだろう」と告げました。するとペトロは、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と答えました。つまり、ペトロは、自分は命をかけてイエスさまに従うことを誓ったんです。
 しかしその結果はどうだったでしょうか。皆さんご存じのとおり、イエスさまが予告なさったとおりになりました。ペトロは夜明けを告げる鶏が鳴く前に、三度イエスさまのことを知らないと言って否認し、イエスさまを見捨てました。鶏が鳴いた時、ペトロは自分の弱さを知って、泣くしかありませんでした。何と格好悪いことだったでしょうか。最悪です。人間の弱さの極みです。ペトロには絶望しかありませんでした。自分に対する絶望です。
 しかし、まさにその自分に対する絶望が、全く新しい希望へ変えられました。それはイエスさまの復活によってです。十字架にかけられて死んだイエスさまがよみがえられた。その復活のイエスさまが、ペトロたちのところに来てくださった。それはご自分を裏切り、見捨てた弟子たちを受け入れるイエスさまのお姿でした。
 人間は弱いんです。神さまの前には、格好悪くしか生きられないのが事実です。しかしそういう弱いわたしという人間を、ちゃんと受け止めて、受け入れて、共に歩んでくださる方がおられる。それがイエスさまです。だから、わたしたちは、弱いまま、ありのままの自分をイエスさまにゆだねて生きることができる。そこに神さまの祝福が現れるんです。
 
    神を神として生きる
 
 37節「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」
 神にかけて誓ってはならないと言っても、言葉がいい加減であってよいと言うことでは決してありません。いや、むしろ、誓うまでもなく、あなたの語る言葉は真実ではければならないということです。神さまの言葉の前には、「然り、然り」「否、否」と言いなさいと。つまり、「はい」または「いいえ」と正直に答えなさいと言う。それ以上のことは、「悪い者から出る」とおっしゃる。この「悪い者」とは、悪魔のことです。格好つけようと思って、誓う。神さまを出しにして、自分をひけらかす。それは悪魔の誘惑に乗ることであるとおっしゃるんです。
 わたしたちは、ウソを言ってはなりません。ウソを言う必要がないんです。格好をつける必要もないんです。この弱いわたし、格好悪いわたしを受け入れてくださる方がおられるからです。そして祝福へと変えてくださるからです。
 教会でも誓いがなされます。例えば結婚式の時も「誓約」があります。結婚する二人に対して、どんなときも生涯愛して連れ添うことを約束していただきます。そうすると、「イエスさまが一切誓うな、とおっしゃったことと違うじゃないか?」と不審に思われるかもしれません。しかしそうではありません。なぜなら、この誓いは、人間の誓いに終わっていないからです。そのあと指輪の交換があり、そして牧師が祈りをささげるからです。その祈りの中にこういう言葉あります。「どうか、言葉をもって約束したことを誠実ならしめ、み教えに従って、主の豊かな恵みに答える者とならせてください。‥‥」と。今二人が約束したことを、主がかなえて下さるようにと祈る。こうして教会の誓約は祈りとなるんです。
 牧師就任式でも、役員任職式でも、みな同じです。誓約という誓いをしていただくけれども、それらは祈りが続いている。すべては神への祈り願いとなっているんです。
 わたしたちはすべてをなすことのできる方に祈ることができる。わたしたちは神への祈りによって、主と共に進んでいくことができます。


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