2018年12月16日(日)逗子教会 主日礼拝説教/アドベント第三聖日
●聖書 サムエル記下12章9〜10節
    マタイによる福音書5章27〜32
●説教 「愛ある関係」

 
     ここで言われていることは何か?
 
 本日の聖書箇所は、たいへん有名な聖書箇所です。それは、たいへん厳しいことが言われているということで有名です。ただ、ずいぶん誤解をもって受け止められてきた箇所でもあると思います。それで、ここでイエスさまは何をおっしゃっておられるのか、ここで言われていることは何かということを、最初に少していねいに見てみたいと思います。
 まず最初の27節でイすが、これは旧約聖書に記されている掟(おきて)の根本である「十戒」の項目の一つです。前回の「殺してはならない」も十戒の掟の中の一つでした。そちらは、十戒の中の第6番目の掟について語られていました。そして今日の箇所は、十戒の中の第7番目の掟に関して教えておられます。
 「姦淫」とは何を指すか。わかりやすく言うとしたら、それは「不倫」という言葉になるでしょう。そうすると、「では『姦淫してはならない』と日本語で書くよりも、『不倫してはならない』と書けばいいじゃないか」と思うかもしれませんが、実はいわゆる不倫だけではない。何が姦淫にあたるかということは、具体的には旧約聖書のレビ記の18章に書かれています。そのように、必ずしも今日で言う「不倫」イコール「姦淫」ではなく、レビ記18章に書かれているさまざまなことを含みますので、「姦淫」という言葉をあてているわけです。
 その上で、今日の箇所を説明することになるわけですが、言葉というのは本当にむずかしいと思います。たとえば28節の「みだらな思いで他人の妻を見る者は」という言葉がありますが、「みだらな」と日本語にすると、何か本当にみだらな印象を受けます。それだけではなく、聖書がここで言おうとしていることを損ねているように思います。ここで「みだらな思い」と日本語に翻訳されている言葉は、他の日本語の聖書では「情欲を抱いて」と訳しています。また、「他人の妻」と訳されていますが、これは他の日本語の聖書では「女」と訳しています。このたび新しく発行された日本語の聖書でも「女」と訳しています。それでこの28節を、前の口語訳聖書はどう訳しているかというと、次のようになっています。
「しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」
 このように訳すと、「他人の妻」に限定されず、女性すべてを指すこととなります。実際に原文は「女」となっています。それで、この聖書箇所は、多くのまじめな男性を悩ませることとなりました。なぜなら、そのように心の中で情欲を抱いて、あるいは性の対象として女性を見るならばそれは心の中ですでに姦淫の罪を犯したのであるということになります。そしてさらに、続く29節30節に述べられているように、自分の目をえぐり出して捨ててしまえと言われており、手を切り取って捨てよと命じられ、さもなくば地獄に落とされてしまうのだと‥‥そのようにおっしゃっていると聞こえるからです。
 たとえば、戦後活躍した作家である椎名麟三は、『私の聖書物語』という本の中で次のように書いています。‥‥「だから姦淫に関するこのイエスの命令も、残念なことに、やはり私には人間としての限度を超えた要求であるように思われたのである。そこでは私は、女に対して男ではない何かになるか、女を女でない何かとして取り扱うかするより仕方がないように思われた。そしてその形のもっとも純粋なあり方は、男は女に対して人間でない何かとなることであり、女を人間でない何かとして見ることである。いいかえれば男は、女に対して木石となり、あるいは女を木石として見ることをイエスは要求していることになるのである。」
 たしかに突きつめて言うと、そういうことがここで言われているように読めます。しかしもしそうだとしたら、人間を男と女にお造りになったのは神さまであるわけですから、神さまはなぜ男と女にお造りになったのかということになってしまいます。そして、「男」と言いましたが、男女を逆にしてもそれは成り立つでしょう。つまり、ここは人、異性を性の対象として見てはいけないということなのか?‥‥という問題が発生します。だとしたら、結婚する者などいなくなってしまうのではないかという疑問も生じるわけです。
 
    ただ厳しい掟を課して断罪するのか?
 
 心の中で、女性に、あるいは異性にそういう思いを抱いただけで、罪を犯したことになる。そう考えた人たちは、他にもいました。それはこの当時で言えば、熱心な律法学者、ラビたちです。彼らは、女性というのは男を誘惑する危険な存在であると見なしました。ですから、道で女性を見かけたら、目をそらせました。見ないようにしたんです。また、女性とは挨拶をしてはいけないと考えました。イスラム教もそうですね。厳格なイスラム教では、女性は肌を見せてはいけないし、女性らしさを表してはいけないから、ベールをかぶり、だぶついた衣装で身を包むわけです。
 イエスさまがおっしゃっているのは、そういうことなのでしょうか。心の中で、性の対象として異性を見ただけで、それは姦淫の罪を犯したことになると。そしてそれは地獄行きの罪なのだと。そうやって脅かして、厳しい戒律を私たちに課すことがイエスさまの目的なのでしょうか?
 もっと言えば、この山上の説教は、20節の言葉を借りていえば、厳格な宗教家である律法学者やファリサイ派よりも厳しく掟を守らなければダメだということなのでしょうか? だとしたら、山上の説教の最初の言葉である「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」というあのありがたいお言葉は、どうなってしまうのでしょうか?
 
    結婚の尊重と意味
 
 きょうもう一箇所読んだ聖書箇所は、旧約聖書のサムエル記下12章9〜10節です。ここは、ダビデ王が預言者ナタンから叱責を受けている所です。ある日、ダビデ王がエルサレムの王宮の屋上から、エルサレム市内を眺めていた。そうするとある一人の女性が水を浴びているのを見たのでした。それはダビデの家来であるヘト人ウリヤの妻バト・シェバでした。ダビデは使いをやってバト・シェバを王宮に連れてこさせ、関係を持ってしまったのです。それだけではなく、バト・シェバの夫であるウリヤを、わざと戦死させてしまったのです。このことは神の怒りを招きました。そして神は預言者ナタンを通して、ダビデを叱責し、罰を与えたのでした。つまり、他人の妻と姦淫をしたわけです。
 先ほど28節の「みだらな思いで他人の妻を見る者は」の「他人の妻」は、「女」という言葉だと申し上げました。単に「女」と訳すと、椎名麟三が悩み、つまずいたようなことになる。異性を異性として見てはいけないのか、という話になる。それでは結婚する人すらいなくなるということになる。それでこの新共同訳聖書は、「他人の妻」と訳したのでしょう。
 しかしここは「女」あるいは「婦人」という言葉です。「他人の妻」と訳すと、他人の妻でなければ良いのか、という問題になる。しかし、きょう32節まで読みましたのは、そこに夫が妻を離縁する、つまり離婚することについて続けて語られていて、きょうの聖書箇所はそこまで全部つながっているからです。そうすると、きょうの聖書箇所は、結婚した夫婦について言われていることが分かってきます。例えば独身者が、異性を異性として見ないのでは、それは誰も結婚などしなくなります。しかし結婚した者が、他人の妻だけではなく、他の女性をそのような対象として見たら、それは結婚の破壊となります。そのように、結婚というものが大切なものであることを述べていると言えます。
 31節32節は、離縁状について述べられています。離縁状とは何かと言えば、夫は妻と離婚した場合、離縁状というものを書けば簡単に離婚できたんですね。妻が気に入らなくなったら、離縁状を書けば妻と簡単に離婚できた。今日で言えば、離婚届に夫の署名捺印だけで離婚できるようなものです。夫が自分の都合で勝手に離婚できる。それは、姦淫と同じだとイエスさまはおっしゃっておられる。つまりそれは、結婚というものをぜんぜん重んじていないからです。
 結婚とは何か。それは結婚式で読まれる聖書の中にも記されていることですが、聖書はその最初から結婚について書いています。創世記2章24節です。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」
 二人は一体となった。一つとなった。すなわち、そこに愛があるんです。異なる二人が一つとなる。愛がなければ一つにはなりません。
 こうしてイエスさまのおっしゃった言葉の意味がだんだん見えてまいります。それは、「こうしたらダメだ」「目をえぐり出して捨ててしまったほうがマシだ」「こんなことをしたら地獄行きだ」‥‥という禁止命令以上のことです。イエスさまは、ダメだ、ダメだ、という禁止命令を厳しく作り直すことが目的なのではない。それ以上のもの。もっと前を向いている。すなわち「愛する」ということです。そちらに目を向けさせるのです。
 
     愛ある関係
 
 愛ということに目を留めれば、他の異性を求めるようなことは当然しない。そのように読めば、ここでイエスさまが言わんとしていることが分かってきます。
 そのように、愛ということが背景にあってこれらのことが語られている。そうすると、前回読んだ箇所も同じことになります。前回は、やはり十戒の「殺してはならない」という掟から、人を憎むことはすでに心の中で殺人を犯したのであり、殺人と同じことなのだということが言われていました。ここも、他人を憎むという方向に行くのではなく、愛するという方向に向かうようにイエスさまは私たちを促しておられる、そう読むと見えてくるものがあります。
 本日の29節〜30節で言われていること、「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」という言葉も、何も姦淫についてだけ語られているのではない。憎むことについても語られている。そのように読むべきです。すなわち、すべての罪についてそのように言われているんです。
 すなわち、神の御心に背いているのなら、罪を犯しているのなら、それは地獄に落とされるのだということです。それほど重いことなのだと。じゃあ、私たちはどうやったら救われるのか。もうイエスさまに赦していただくしかありません。こんなに心の貧しい者である私をゆるして下さるイエスさまに。こうして、山上の説教の冒頭の言葉が生きてきます。「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」というお言葉が。
 こうして主は、愛することがむずかしい私たちをゆるし、愛することができるように助けて下さる。まさにそこに喜ばしい知らせ、福音があります。主は、「あれもダメ」「これも罪」「それも地獄行き」と言って脅して、私たちを思いのままにコントロールして動くロボットになさりたいのではありません。私たちが、イエスさまに表された神の愛を知り、自発的に神を愛し、隣人を愛すること。今日の箇所で言えば、神が自分に与えて下さった人を愛することヘと向かわせて下さるのです。
 
    映画「マリア」
 
 先週、オリーブの会のクリスマスで、参加者の皆さんとご一緒に映画「マリア」のDVDを見ました。2006年のアメリカ映画です。時代考証もたしかで、とてもリアルで驚きましたが、同時にたいへん感動させられました。
 そして映画の題名は「マリア」でしたが、その夫となったヨセフがクローズアップされているように思われました。マリアは、親が勝手に決めた婚約者であるヨセフを最初は素直に受け入れられなかった。しかし、ヨセフのあずかり知らないところで身ごもったマリア、聖霊によって身ごもったマリアをヨセフは受け入れてくれた。そして皆さんご存じのように、ローマ皇帝の住民登録の勅令が出て、マリアとヨセフはベツレヘムへと向かいます。その道中、マリアはヨセフの優しさ、愛を見る。自分の分のパンを半分とっておいて、マリアを乗せているロバにこっそり与えたり、また川を渡る途中にロバが暴れてマリアが川に落ちて流される。そのマリアをヨセフは必死に助ける。旅先のベツレヘムに着くと、マリアが産気づき子どもが生まれそうになる。ヨセフは、必死になって休めるところを捜す‥‥。そういうヨセフを見て、マリアは信頼と愛を増していくんです。
 そして、家畜の休んでいる洞窟で、イエスさまがお生まれになる。そうすると、マリアとヨセフをイエスさまが結びつけているように思えました。
 愛なき世界にお出でになったイエスさま。それは神の愛への招きに見えました。マリアとヨセフは、幼子イエスさまと共に歩んでいきました。私たちもイエスさまと共に前に向かって歩む。そこに道が開かれてきます。


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