2018年12月9日(日)逗子教会 アドベント第二主日礼拝説教
●聖書 出エジプト記20章13
    マタイによる福音書5章21〜26
●説教 「衝撃の愚か者」

 
 当教会の建物は御覧のように、ただ今工事中です。それで例年建物のてっぺんの十字架から地面に向かって垂らしているイルミネーションを今年は飾ることができずに残念ですが、そのぶん玄関の中に飾っていますクリスマスツリーが、存在感を増しているように見えます。
 クリスマスツリーというともみの木を使います。もっとも、当教会のものはプラスチック製ですけれども、なぜツリーにもみの木を使うかということについては諸説あるようです。もみの木は全体が三角形の形をしていることから三位一体をあらわすという説もあるようです。また十字架がもみの木でできていたという説もあるそうです。あるいは、ゲルマン人にとってもみの木が生命力と希望のシンボルであったからだという説もあるそうです。そんなことを知ってツリーを見ると、また違った感じで見ることができるのではないでしょうか。
 
    人を殺してはならない
 
 さて、本日の聖書で、最初にイエスさまは、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている」とおっしゃっています。人を殺した者は裁判にかけられて罰を受けるというのは、当たり前のことだと思われます。ただ、ここではイエスさまは「昔の人は」と言われています。これは旧約聖書のことを指しています。旧約聖書の中で、神の掟として命じられているわけです。それは、神の掟の基本である「十戒」に書かれていることです。出エジプト記20章13節です。「殺してはならない。」単純明快な戒めです。
 この十戒の戒めに基づいて、たとえば同じ出エジプト記21:12では「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」と定められています。そしてこの掟は、イスラエルでは昔からずっとそのように定められてきた。そのことをイエスさまはおっしゃっているんです。
 もちろん、イスラエルに限りません。日本でも殺人罪の最高刑は死刑です。近年、日本では犯罪への厳罰化を求める声が高まっています。人を殺した者は死刑にするのが当然という声が高まっています。殺された人の家族がどんな思いをしているかという、被害者の感情を考えるとそのような極刑を求める気持ちもたしかに分かります。
 話は変わりますが、つい最近、横須賀学院高校の私の聖書の授業では「十戒」を扱いました。それで、十戒の第6戒である「殺してはならない」について、生徒にこんな質問をしました。「もし幼稚園児から、『なぜ人を殺してはいけないの?』と聞かれたら、何と答えますか?」と。いかがでしょう。なぜ殺してはいけないのでしょうか。「法律で決まっているから」という答え方もあるでしょう。法律では、人を殺したら、最も重い刑罰が科されます。しかしでは、法律がそうなっていなかったら殺しても良いのかという問題が発生します。戦争ともなれば、敵を倒して殺すことが奨励されるわけです。あるいは、人を殺してはいけないのは「殺された人の家族が悲しむから」という答えもあるでしょう。しかしこれも、「では、悲しむ家族がいない人なら殺しても良いのか?」という問題が発生します。
 そのように考えていきますと、いずれの答えも完全ではないように思います。それで私は、「なぜ人を殺してはならないのか。それは、神さまがそう言っておられるからだ」と言いました。するとあるクラスでは、「なるほど〜」と声が上がりました。結局は、そういうことだと思います。
 
    兄弟に腹を立てる
 
 さて、イエスさまは、そのように十戒の中の、誰もがそう思うことを言われました。そして続けておっしゃったことが、驚くべきことでした。「兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける」。
 この「兄弟」というのは、肉親の兄弟のことに限りません。仲間のこと、同胞のことも含むような言葉です。また、仲間や同胞でなければ良いのか?という質問があるとしたら、それはちょっと困った質問ということになるでしょう。なぜなら、キリスト教会は、すべての人に向かって福音を宣べ伝えるので、いわばすべての人がこの「兄弟」という言葉の中に含まれてくると考える方が自然です。つまり、誰かに対して腹を立てる者は誰でも裁きを受ける、とイエスさまはおっしゃっていることになります。
 これはなにか、何事にも腹を立てずにニコニコしていなさいという言葉にも聞こえます。もちろん、そんなことができたらどんなに幸せかと思いますが、実はそういう教えではありません。ここでイエスさまが言おうとなさっていることは、ただ今「殺すな」という十戒の教えを引用されたことから分かりますように、人に対して腹を立て、バカとか愚か者と言ってののしることは、殺人と同じであるとおっしゃっているのです。ですから、こんなに驚くことも他にないでしょう。
 もちろん、「ばか」とか「愚か者」という言葉自体がいけないということではありません。たとえば、親しい友人に対して「ばかだなあ」と愛着をもって言う場合があるでしょう。そういうことを指しているのではありません。ここでは、憎しみをもって腹を立て、またバカとか愚か者と言ってののしることを言っておられるのです。つまり問題は、相手を憎むという心なのです。そしてそれは人を殺したのと同じことである、とイエスさまはおっしゃりたいのです。
 そうすると、殺人犯に対して口を極めて非難していた人も、自分は人を殺すことなど絶対しないと思っている人も、もはや第三者ではなく、当事者になってしまうことでしょう。
 それにしても、実際に人を殺したわけでもないのに、心の中である人を憎み、ののしっただけで、どうして殺人と同じことになるのか?‥‥それは次の聖書の言葉が、理由をよく表しているでしょう。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル記上16:7)
 私たちの主は、心をご覧になるということです。殺人の根っこが憎しみであるとしたら、その憎しみがすでに人を殺すことと同じであるというようにご覧になる。それゆえ、24節に書かれていることですが、憎しみを抱いたまま神さまに供え物を献げて礼拝しても、神さまはそれを受け入れられない。お祈りしても聞かれないということです。憎しみをゆるしに変えなければならないというのです。
 
マーガレット・コヴェル
 
 昨日は、太平洋戦争が始まった日でした。77年前の昨日12月8日、日本海軍の艦載機数百機がハワイの真珠湾を攻撃し、日本はアメリカと戦争に入ったのでした。その真珠湾総攻撃隊長が淵田美津雄中佐でした。この人は、戦争中はまさに典型的な軍人で、大和魂のかたまりのような人でしたが、戦後キリスト者となり、さらにキリストの福音を宣べ伝えるようになった人でした。その淵田美津雄さんがキリストに傾くきっかけとなった出来事がありました。前にもご紹介したことがあると思いますが。
 終戦後、連合国による戦犯裁判が始まりました。淵田氏はそれについて、「これは人道などの美名を使ってはいるけれど、勝者の敗者に対する一方的な合法に名を借りた復讐でしかなかった」と思いました。それで逆に淵田氏は、連合国側もいかに非人道的な行為をしたかの証拠を集めようとしました。戦争中に敵側の捕虜となって、戦後帰還してくる人々から取材をすることにしたのです。アメリカから送還された旧日本軍捕虜が、浦賀に設けられた収容所にいったん入れられました。淵田さんはそこに出かけて行って、捕虜になった者から、連合国側の捕虜虐待調査を始めたのです。やはり中にはずいぶんひどい扱いを受けた日本兵たちもいたのでした。
 すると、アメリカのユタ州から帰還した兵士たちがある出来事を語りはじめたそうです。彼らは20人ばかりで、腕を落としたり足を切ったりの重傷者たちでした。そして、アメリカのユタ州のある町の捕虜病院に収容されました。そこで手当を受けながら義手義足も作ってもらったそうです。するとある日、20歳前後の若いアメリカ人女性が現れ、日本人捕虜に懸命の奉仕をし出したそうです。それが、マーガレット・コヴェルという人でした。彼女は日本の捕虜たちに向かって、「皆さん、何か不自由なことがあったり、何か欲しいものがあったりしたら、私におっしやって下さい。私はなんでもかなえて上げたいと思っています」と言ったそうです。捕虜たちは、最初、何かの売名行為かと思っていた。ところがこのお嬢さんのすることが、純粋な奉仕でした。手足の不自由な捕虜たちに、親もおよばぬ看護をしたそうです。なにか捕虜たちの身辺に不足しているものを見つけたら、翌朝は買い整えて来るというサービスぶりであったそうです。そうして二週間、三週間と続いていくうちに、捕虜たちは心うたれて来たそうです。それで、「お嬢さん、どういうわけで、こんなに私たちを親切にして下さるのですか?」と聞いたそうです。
 彼女はしばらく黙っていたそうですが、やがて彼女は言いました。「私の両親があなたがたの日本軍隊によって殺されたからです。」衝撃の事実でした。彼女マーガレット・コヴェルの両親はキリスト教の宣教師であり、関東学院のチャプレンだったそうです。そして日米開戦前、引き揚げ勧告によってフィリピンのマニラに移ったそうです。しかし日本軍のマニラ占領によって、ルソン島の山中に隠れました。やがてアメリカ軍の反転攻勢が始まり、昭和20年1月、アメリカ軍はマニラに上陸し、そこを占領しました。それで日本軍はルソン島山中に追い込まれることとなりました。そこでゴヴェル宣教師夫妻の隠れ家が見つかった。日本兵は、コヴェル宣教師夫妻にスパイの嫌疑をかけ、日本刀で夫妻の首をはねて殺したそうです。
 このできごとは、アメリカで留守を守ってた娘マーガレットにも伝わりました。彼女は、両親を失った悲しみと、両親を処刑した日本兵に対する怒りでいっぱいになりました。しかし、アメリカ軍の報告書には、このとき目撃していた現地人の話が記されていました。‥‥彼女の両親は両手を縛られ、目隠しをされ、日本刀を振りかざす日本兵のもとで、2人は心を合わせて熱い祈りをささげていたということでした。
 マーガレットは、地上におけるこの最後の祈りで両親が何を祈ったかを思ってみました。すると彼女は、次分がこの両親の娘として、次分の在り方は、憎いと思う日本人に憎しみを返すことではなく、両親の志をついでキリストを伝える宣教に行くことだと思ったそうです。そして、自分の住んでいる町に日本兵の捕虜収容所の病院のあることを知りました‥‥捕らわれの身でありながら、傷つき、病んでいる。どんなにか、わびしい毎日であろう。‥‥マーガレットは、町の捕虜病院に飛んで来ました。そしてソーシャルーワーカーという名義で働きはじめました。それからというもの、心からのサービスで、捕虜たちが日本へ送還されるその日まで、約六ヶ月、病院に来るのを一日も欠かしたことがなかったというのです。
‥‥この話は淵田さんの心を激しく打ちました。「やっぱり憎しみに終止符を打たねばならぬ。」ということで、淵田さんは、畳を叩いてほこりを立てているような捕虜虐待の調査を即刻止めにしたということです。(淵田美津雄、『真珠湾攻撃総隊長の回想・淵田美津雄自叙伝』、講談社より)
 憎しみをゆるしに変え、さらに和解のわざへと進んでいった一人の女性が、神さまによって用いられた。連合国に対する憎しみでいっぱいだった一人の帝国軍人を変え、救うために用いられたのです。
 
    キリストによって神と和解する
 
 25節からは、また違う話になっていて、たとえ話になっています。ここに裁判官が出てきますが、この裁判官は神さまのことをたとえています。
 心の中で憎しみを抱き、人をののしる私たちは、もはや弁解の余地はありません。それは殺人と同じだというのですから。神の裁きを受けるしかないんです。どうしたらよいのでしょうか。新約学者の織田昭先生は、「私たちの人生は、裁きを受けに行く道中みたいなもの」であると言われます。裁きを受ける前に、早く手を打つしかないと。
 ではどうやって手を打ったら良いのか。それは、イエスさまによって神と和解させていただくことです。イエスさまが十字架にかかって、ご自分の命と引き換えに、私たちの罪をゆるし、神と和解させて下さる。このイエスさまを、キリストを信じることです。そうすると、きょうの聖書は、私たちが神さまから見たら殺人に等しい罪を犯していることを自覚させると共に、そのような私たちを救い、神と和解する道があることが示されていることが分かります。それは、イエスさまを信じるということです。こんなどうしようもない私たちを救って下さるイエスさまを信じる。そうして私たちは和解させていただけます。


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