2018年12月2日(日)アドベント第一主日 逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書 46章11節
    マタイによる福音書 5章17〜20
●説教 「完成する人」

 
    リース
 
 いよいよ今年もアドベント、待降節の季節を迎えました。当教会でも皆さんの手によってクリスマスの飾り付けがなされました。玄関にも、この会堂の入り口にもリースが飾られています。リースは、今はいろいろなものが売られていますが、もともとは、緑色の葉っぱと、リボンなどの赤い色を使います。そして丸い形にします。これにはちゃんと意味があります。
 まず、丸い形は「永遠」をあらわします。丸はとぎれることなく循環するからです。それから、葉っぱの緑色は、教会の典礼色では「平和」とか「成長」ということをあらわします。そしてリボンの赤い色はキリストの「血」をあらわします。血は聖書では命を表します。つまり、キリスト・イエスさまが十字架でかかって流された血、捧げられた命をあらわしています。そうすると、リースの意味は「キリストの十字架の血による永遠の命と平和」ということになります。主イエス・キリストの十字架によって、永遠の命が与えられ、平和と成長がもたらされることを物語っているのがリースです。それはまさに聖書が伝える福音そのものだということができます。多くの人が、このキリストに出会うことができるよう、祈りたいと思います。
 
    旧約聖書の完成者
 
 今日の箇所でイエスさまは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」とおっしゃっています。律法というのは旧約聖書に書かれている神の掟のことだと皆さん思われるでしょうから、律法を廃止するという言い方は分かるでしょう。しかし「預言者を廃止する」という言い方は、預言者という人間を廃止する、という意味に聞こえて、違和感が残るのではないでしょうか。
 実はこの「預言者」というのは、イザヤとかエレミヤとかいった預言者という人間のことを言っているのではなくて、わかりやすく言えば「預言者の書」という意味なんです。つまり、イザヤ書、エレミヤ書というような預言者の書物ですね。そして、「律法や預言者」という言い方は、今日の私たちの手にしている旧約聖書のことなんです。ユダヤ教ではイエスさまを信じていませんから、旧約聖書だけが正典です。そして旧約聖書は、ユダヤ教では三つに分けています。それは、律法・預言者・諸書です。
 「律法」というのは、モーセ5書のことを指します。つまり、創世記から始まる旧約聖書の最初の五つの書物です。そして「預言者」というのは、イザヤ書、エレミヤ書といった預言書のほか、ヨシュア記や列王記なども含みます。3区分のもう一つの「諸書」は、詩編や雅歌、ヨブ記やエステル記などを含みます。しかしイエスさまの時代には、まだ「諸書」は正典として認知されておらず、要するに「律法と預言者」までが正式な正典とされていました。ですから、イエスさまがおっしゃっている「律法と預言者」というのは、旧約聖書のことだと言っていい。
 そうすると17節の言葉は、イエスさまは旧約聖書を廃止するためではなく、完成するために来られたという意味だということになります。
 
    旧約聖書では話半分
 
 完成するとおっしゃっておられるわけですから、イエスさまが来られるまでは完成していなかったことになります。それまでは未完だったということです。
 聖書通読表に従って聖書を初めの創世記から通読しておられる方も多いことと思います。今年は今のところ、お二人の方が逗子教会聖書通読表を私の所に提出されました。旧約聖書を読み始めますと、それは天地創造のことが書いてある創世記から始まります。アブラハムが登場する。そして出エジプト記になってモーセが登場する。さらに旧約を読み進めていくと、ダビデが登場し、イスラエルの王国の歴史が書かれています。その王国もバビロン捕囚で滅亡する。やがて神の憐れみによって、補囚から解放され祖国へ帰還する‥‥。そういう歴史が書かれています。その中には、読みにくい神の戒律も書かれています。また、詩編や雅歌など、文学作品もあります。さらに、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書といった預言書が続きます。
 そのように旧約聖書を読んでみて、「では旧約聖書は何が書いてあるんですか?」と聞かれたら、皆さんは何と答えるでしょうか。今簡単に旧約聖書の内容を私は述べましたが、そういうことは答えられる。しかし、「要するに、何が書いてあるんですか?」と聞かれたら、なかなか答えるのが難しいのではないでしょうか。つまり、適切な答えが見つからないんじゃないでしょうか。
 前任地の富山にいた時に、地元の新聞のコラム欄に、教会の牧師として毎月1回ほど随想を書いていました。あるとき、担当の新聞記者さんから「聖書を読み始めました」というメールをもらいました。旧約聖書から読み始めたようでした。私はとてもうれしく思いました。ところがしばらくたって、彼はつまずきました。「神はたくさん人を殺している」というんです。たしかに、ノアの洪水もそうですし、悪いソドムとゴモラの町が滅びたのもそうです。また、戦争のことがたくさん出てきます。そういうことに彼はつまずいたのでした。それで私は、「がんばって新約聖書まで読んでください。そうすれば分かりますから」と返事しましたが、その後どうなったか分かりません。
 そのように、私たちは聖書を読んだことのない人から、「要するに旧約聖書には何が書いてあるんですか?」と聞かれても返答に困るし、また「旧約聖書では、神は戦争ばかりしている」と言われても答えに窮します。
 しかし今日のイエスさまの言葉、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」というお言葉を聞いて、初めて納得できます。「あー、そうだったんだ」と思う。旧約聖書だけでは、未完成だったんです。
 例えば家を建て始めて、棟上げの時点で建築が終わってしまったと勘違いしたらどうでしょうか?「この壁もない、柱だけの吹きさらしの家に住むんでしょうか?」と言うでしょうか?‥‥そんなことを言う人はいません。まだ建て終わっていないからです。これから壁が造られ、内装がされていくからです。あるいは、上巻と下巻の2冊に分かれている推理小説を読んでいるとしましょう。その上巻だけを読んで、「犯人が捕まらなくて、世の中間違っているではないか」という人はいないでしょう。下巻まで読めば、ちゃんと犯人は名刑事が捕まえてくれるからです。
 旧約聖書だけ読んで、「聖書は何が書いてあるのか分からない」と言ってみたり、「神さまはひどい」と言うのは、それと同じことです。
 18節ではイエスさまは、「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」とおっしゃっています。言い換えれば、旧約聖書の一つの文字も訂正されない、ということです。旧約聖書に欠陥があるのではないということです。先ほども申し上げたように、旧約聖書には神の裁きによって多くの人が死んだことも書かれています。戦争のことも書かれています。倫理に反するような人もたくさん登場します。しかし、歴史の中では、さまざまな理不尽なことが起こってきたのも事実です。それらの負の歴史、痛ましい歴史があって、現代に至るまで時間が続いてきたんです。物語が続いてきたんです。その過去の出来事、物語を、自分は気に入らないからと言って抜いてしまったら、物語が物語ではなくなってしまいます。
 私たちの人生も同じではないでしょうか。私たちの人生も物語のようなものです。過去には失敗もあった。ひどいこともあった。悲しいこともありました。しかし私たちひとりひとりは、そういう過去を歩んできて、現在がある。イエスさまは「律法の文字の一点一画も消え去ることはない」と言われましたが、それは、私たちが歩んできた人生の一分一秒でもムダではなかったのだと。イエスさまによれば、そういうことになります。私たちには、消してしまいたいような過去があるかもしれません。しかしそのような過去も、イエスさまによって、祝福へと変えられる経験となっているのです。そういうことができます。
 
    完成と成就
 
 この「完成するためである」の「完成」というギリシャ語(プレーロー)は、完成と日本語に訳すことができるほかに、口語訳聖書が訳しているように「成就」と訳すこともできます。「完成するため」といえば、それまでは未完成であったということになります。そしてイエスさまが完成させるということになります。また、「成就するために」と訳した場合は、旧約聖書は予言であり、イエスさまがその予言の成就であるということになります。
 いずれにしても、旧約聖書はイエスさまがいなければ終わらないということになります。ここで初めて聖書というものが、イエスさまによって完成される、成就されるものであることが分かります。
 20節では、「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」とおっしゃっています。義というのは、正しさであり、善です。律法学者やファリサイ派というのは、ユダヤ人の中でももっとも正しいと思われていた人たちです。その人たちよりも、正しさ、善がまさっていなければ天の国に入ることはできないと言われています。
 そうすると、到底私たちなど天の国に入ることができないし、神さまに近づくこともできないと思われます。しかし、この山上の説教の最初を思い出して下さい。5章3節です。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」‥‥正しさがない、善もない、自分はまったく心の貧しい者である。しかしその心の貧しい私に、イエスさまは「天の国はその人たちのものである」とおっしゃって下さる。天の国をくださる。神さまのところに連れて行って下さる。そう約束なさっていることを思い出すんです。
 すなわち、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」とおっしゃるイエスさまは、この私たちを律法学者やファリサイ派にまさる者として下さるんです。イエスさまがそうして下さるんです。
 
    私たちの人生の完成者
 
 イエスさまは旧約聖書の完成者である。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」とおっしゃったイエスさまは、この私たちひとりひとりの人生の完成者でもあられます。
 私たちの人生は、どのようになったら完成したと言えるのでしょうか?‥‥お金持ちになったら完成したと言えるのでしょうか? あるいは、社会的な地位を得たら完成したと言えるのでしょうか? それとも、良い家族に恵まれたら完成したと言えるのでしょうか?‥‥それらは本当に完成したことになるのでしょうか?
 しかし、何か違うような気がするのではないでしょうか。旧約聖書を読み終えた時、なんとも言いようがない疑問が残るようにです。何かが足りないような気分になるようにです。しかし、イエスさまが、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」とおっしゃったとき、すべての謎が解けるような思いがします。イエスさまが来られたことによって、初めて聖書は聖書となる。
 同じように、私たちの人生が何によって完成したと言えるかといえば、それはイエスさまをお迎えすることによって完成するのだということです。それでイエスさまは、私たち一人一人のところに近づいて来られるのです。そして、イエスさまが来られたのは、私たちの人生の過去を廃止するために、否定するために来られたのではなく、完成するために来られたのです。
 私たちがイエスさまをお迎えした時、たとえこの世の目で見たら、失敗だらけの不本意な人生であったとしても、それは完成するのです。この私のような人生でさえも。感謝というほかはありません。


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