2018年11月18日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 出エジプト記34章29節
    マタイによる福音書5章13〜16節
●説教 「地の塩と世の光」

 
    地の塩
 
 「あなたがたは地の塩である」とイエスさまはおっしゃいます。それはどういう意味なのでしょうか。まず「地」ですが、これは天に対する地という意味で、この地上の世界のことを指しています。言い換えれば、この世のことです。ですから、このあと「あなたがたは世の光である」とおっしゃるその「世」と同じ意味だと言えるでしょう。
 また「塩である」という言い方は、塩の役割をしているという意味だと考えられます。そうすると、塩の役割は何かということについて考えてみたいと思います。
 塩の役割は、まず食べるものに味付けをするということがあります。料理にはほとんど塩を使います。あるいは塩の入っている調味料が使われます。塩が使われなければ、料理は味気ないものになってしまうでしょう。そのように塩は味を付けるという役割を持っています。
 また、塩は腐敗を防ぎます。食物でも塩に漬ければ腐りません。昔ながらの十分な量の塩に漬けた梅干しは、何年経っても腐りません。今残っている一番古い梅干しは、今から442年前の戦国時代に漬けられた梅干しだそうです。そのように、塩は腐敗を防ぐ役割を持っています。
 また、これはあまり知られていないと思うんですが、塩は毒を抜くこともできます。私が以前いました能登の輪島には、塩ふぐという食べ物がありました。これはふぐの卵巣を塩に漬けたものです。ふぐの卵巣と言ったら猛毒で、食べたら死ぬはずです。ところが輪島のある料理店に行ったとき、塩ふぐというのを出してくれました。それはふぐの卵巣を長期間、塩に漬けたものだそうです。店のメニューには載っていない。なぜ載っていないかというと、保健所が許可を出さないからだそうです。でも昔から問題なく食べているから大丈夫だという。食べてみました。大丈夫でした。でもみなさん、マネをしないでください。食べるのなら、能登まで行ってちゃんとした店で食べてください。とにかく、そのように毒を抜くという効果も期待できる。
 そうすると、イエスさまが「あなたがたは地の塩である」とおっしゃったとき、それは、この世の中に味を付け、また腐敗を防ぎ、毒を抜くという役割を果たすということになります。
 
    世の光
 
 次に14節の「あなたがたは世の光である」という言葉です。光の役割は、言うまでもないことですが、ものを照らすという役割があります。光がないことを考えてみれば分かり易いでしょう。光がなければ、真っ暗です。何も見えません。世の中は闇となります。光は、どこに何があるかが分かるようにします。あたりを照らして、ものが見えるようにします。
 また、光はものを照らすだけではありません。例えば星のような小さな光。星の光はものを照らす明るさはありません。しかし、星は夜、方角を教えてくれます。むかし、船が海のまっただ中で星を見て航海したようにです。また、街灯も何もない暗い夜道を歩いていて、遠くの方に民家の明かりが見えたときはホッとします。そのように、光は方角を教え、自分の位置を教え、どこに向かって行ったら良いかを明らかにする役割があります。
 さらに、光は私たちに潤いを与えてくれます。例えばクリスマスのイルミネーションは、ものを照らすほどの光ではありませんが、心を和ませ、潤いを与えてくれると言えるでしょう。光にはそのような役割がある。
 
    あなたがた
 
 さて、そのようなことを踏まえて、もう一度イエスさまの言葉を聞きましょう。「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」何かほど遠い感じがしないでしょうか。塩のすばらしい役割、そして光のすばらしい働きを考えてみると、自分は、そのようなものとはほど遠いと思わないでしょうか。
 私などは、とても無理だと思います。私は、地の塩などではあり得ない。世の中に味を付けることもできないし、腐敗を防止することもできない。また、自分が光などであるはずもない。ましてや、16節でイエスさまが「人々があなたがたの立派な行いを見て」などと言っておられるのを見ると、恥ずかしくて、それは誰か他の人のことだとしか思えません。例えば、マザー・テレサのような人のことならば分かる。しかし私はそこに含まれていない。だから、外に投げ捨てられて、人々に踏みつけられるだろう‥‥そんなふうに思うんです。
 それでもう一度イエスさまの言葉を見てみます。そうすると、「あなたがたは地の塩である」とおっしゃっています。「あなたがたはがんばって、地の塩になりなさい」とおっしゃっているのではない。「あなたがたは地の塩である」とおっしゃっています。
 では、その「あなたがた」とはどういう人たちでしょうか? 今、この小高い丘の上で、イエスさまの周りに座って、お話しを聞いている人たちです。イエスさまの最もそばには、イエスさまの弟子たちが座っている。その周りには、イエスさまのお話しを聞くためについてきた人々がいます。何か立派な人たちでもない。ただ、イエスさまについてきた人たちです。お話しを聞いている人々です。その人たちに向かって、「あなたがたは地の塩である」と言われ、「あなたがたは世の光である」とおっしゃっているんです。それはまるで、この礼拝に集まっている人々に向かっておっしゃっているのと同じです。
 心の貧しい、罪人である私たちが、ただイエスさまに繋がっているというだけで、「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と言われる。不思議な感じがいたします。
 
    私の体験
 
 実は「世の光」も「地の塩」も、私には忘れがたい経験があります。それは以前も証ししましたように、私が大人になってから信仰に導かれたときのことです。
 大学生時代に教会に行かなくなり、神を信じなくなった私でした。そして会社に就職しました。しかしぜんそくの激しい発作を起こして、救急車で病院に運ばれ、死の淵まで行きました。そのとき、厚かましくも神さまのことを思い出し、神さまに助けを求めました。幸い助かりましたが、会社を辞めて郷里の静岡の両親のところに戻りました。人生初の挫折を経験したのでした。もう、これからどうしたらよいかも分からなくなっていました。誰にも会いたくありませんでした。
 そんなとき、夕方、街角にて、幼なじみから声をかけられました。そしてその日の夜、彼の家に行きました。そして私はビックリしました。狭い彼の部屋に、聖書とか、三浦綾子さんの本とか、キリスト教の入門書などが並んでいたからです。彼の家は貧しい家でした。それで彼は中学を卒業して働きました。そういうこともあって、小学校、中学校時代は、彼はみんなから軽んじられていました。もちろん彼は教会とかキリスト教とかとは全く縁のない男でした。
 ところが、その彼の部屋にキリスト教の本が並んでいる。どうしたのかと聞けば、中学を卒業して働いたけれども、どこに行っても馬鹿にされるので、会社を転々とした。そういうときに偶然キリスト教の本屋さんを見つけてそこに出入りするようになった。そして夜は、FEBCキリスト教ラジオを聞くようになったというんです。しかし教会には通っていないし、誰もキリスト教のことを教えてくれる人がいない。するときょうの夕方、街角でたまたま小宮山を見つけたから、声をかけたのだというんです。私は、郷里に戻ってから初めて、彼に自分の今の境遇を話しました。そして挫折して、何をしていいかも分からないということを告げました。すると彼は、「じゃ、祈ろう」と言うんです。私は、正直言ってこいつから祈ろうなんてことばを聞くとはと、ビックリして正座すると、彼は祈り始めました。「神さま、小宮山君が挫折して戻ってきました。どうか道を開いてあげてください」というような祈りでした。そのとき、私の心は照らされたんです。そして心がジーンと温かくなりました。祈りが終わって彼を見ると、昔みんなから馬鹿にされていた彼が、偉大な人のように見えました。光り輝いているかのようでした。それから私は、毎晩彼の家に通うようになったんです。‥‥彼は、そのとき、私にとっての世の光でした。
 いっぽう、「地の塩」のほうは、それから数ヶ月後に起きました。今お話しした彼を通して、私は再びキリストの方へ足が向いていました。教会に戻りました。小さな教会です。すると、ちょうど時を同じくして、何人か同じ年ぐらいの青年が通うようになって、その小さな教会に青年会ができました。それで、日曜日礼拝に行った午後も、青年と喫茶店に行って過ごすようになりました。仕事は、教会員の人が脱サラをして、事業所を立ち上げようとするのを手伝ってくれと言われて、そこで働くようになりました。これもすでにお話しした方です。彼と私の二人きりの零細企業です。彼は信仰の人でした。会社は朝は祈りから始まり、仕事中もチイロバ先生などの説教のテープが流れている。休憩時間となると、教会の話しや聖書の話しとなる。そうして家に帰ると、両親はクリスチャンでしたから、私が教会に戻ったことを喜んで、聖書の話しや教会の話しをする。夕食が終わると、あの彼の家に行く。すると聖書の話しとキリストの話。最後はFEBCラジオをいっしょに聞く。そして帰って寝るという生活の繰り返し。日曜日は教会に行き、青年会ができたのですぐ帰れない。‥‥いつのまにか一週間、毎日キリストに囲まれているような生活になっていました。数ヶ月前は、教会にも行かず神も信じない、キリストのキの字もなかった自分が、今、毎日毎日朝から晩までキリストに囲まれている。なんか変だと思いました。静岡県の私の郷里のほうは、本当にクリスチャンが少ないんです。教会もどこも小さい。そんなにクリスチャンがいるはずがないのにです。
 それで、私はちょっとだけキリストから逃れようとして、平日の昼休みは、近くに見つけた喫茶店に行くことにしました。社長と二人でお弁当を食べる。食べ終わってそのままにしていると、社長が聖書の話しなどをするので、国道沿いの喫茶店に逃げることにしたんです。そしてその喫茶店でコーヒーを飲んで過ごす。「ここまではキリストは追いかけてこれない」などと思っていました。
 そうしたある日、いつものように昼休みにお弁当を食べるのもそこそこに、喫茶店に出かけました。そしていつものようにカウンターに座ってコーヒーを飲んでいました。すると喫茶店のママが私に「これ読んでみない」と言って、一冊の本を渡したんです。「ふーん」と言って、その本を手に取ると、題名に「地の塩」って書いてあったんです。私は、「なんか聞いたことある言葉だなあ」と思って開いてみると、なんとキリスト教の本でした。私はビックリして、「ママさん、クリスチャンだったの?」と聞くと、「ええ、そうよ。藤枝教会に通ってる」と言うんです。それで私が、「実は俺も島田教会に通っている」と言ったら、「まあ、そうなの!」とママさん本当に喜んで、それからは、昼休みに私が行くと、私とキリスト教の話しをするようになったんです。
 こうして、キリストからちょっとだけ逃れようと思ったら、そこもキリストだったということになった。それで、一週間毎日朝から晩まで、キリスト者に囲まれている生活が、さらに全く隙がないほどそうなってしまったのでした。そしてやがて、これがキリストに捉えられたということなのかと分かりました。主は、この私のような者を捕らえるために、クリスチャン包囲網を作って、私を追い込まれた。でもそれは私にとっては、ものすごく神の愛を感じる出来事でした。そして、幼児洗礼は幼児の時に受けていましたので、クリスマスに信仰告白式をして、名実共にクリスチャンとなったのでした。
 すなわち、無神論者となってしまっていた私は、幼なじみを通して「世の光」に出会うことから始まり、喫茶店のママさんの「地の塩」でとどめを刺されたわけです。彼らは、いずれも普通の人でした。しかしどこが世の人々と違っていたかというと、キリストを信じる人であったということです。それが私にとって、世の光となり、地の塩となったんです。
 
    モーセ
 
 出エジプト記34:29を読んでいただきました。モーセがシナイ山で神さまと出会い、神から語りかけられ、十戒と律法を賜った。そうして山から降りてきたところ、モーセの顔が光を放っていたというんです。それはモーセ自身が光を放ったというよりも、神の光を映し出していたのだということができます。モーセは、神の招きに応えて山に登り、神と会話していただけです。それが神の光を映し出すこととなったんです。
 イエスさまは、「あなたがたは地の塩である」とおっしゃいました。それは私たちが自分から塩になるように努力するというのではなく、イエスさまがそのようになさるということに他なりません。「あなたがたは世の光である」も、自分自身が光り輝くというよりも、主の光を照らすものとなるということに違いありません。月が太陽の光を反射して光るようにです。イエスさまを信じ、そのみことばに耳を傾ける者を、主はそのように用いられるという。主のお役に立たせていただけるというのです。


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