2018年10月21日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 エレミヤ書29章11
    マタイによる福音書5章9
●説教 「平和を実現する者とキリスト」

 
    平和
 
 平和は人類が長い間、願い求めてきたものだと言えます。
 昨年の夏休みのことですが、休暇をいただいたとき、長野県の上田市にある「無言館」という施設を訪れました。山の林の中に静かに建っている建物でした。それはどういう施設かというと、第二次世界大戦中、志半ばで戦場に散った画学生(画家を志す学生)たちの残した絵画や作品を展示している小さな美術館です。そういう画家として世に出ることなく、死んでいった方々の絵が、たくさん展示してありました。
 多くは20代で亡くなっています。東京美術学校(現東京芸術大学)などを繰り上げ卒業し、あるいは 在学中に兵士として軍に入隊し、戦地へ赴きました。そしてその絵の下には、その絵を描いた方がどこで亡くなったかということが書かれていました。見ると、フィリピン、ニューギニアなどで南方で戦死、あるいは病死している人が多くいました。つまりそれらの絵は、戦地に赴く前、直前などに描いたものなのです。
 それらの絵は沈黙しています。しかし、無言のうちに戦争とは何かを訴えてくるかのようでした。私には、今まで見てきた戦争を記念する様々なものの中で、もっとも戦争のむごさというものを感じさせられた施設の一つとなりました。
 
    平和を実現する人々
 
 本日のイエスさまの言葉は、「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神のこと呼ばれる。」というお言葉です。
 平和を実現する人々と聞くと、私たちがまず思い浮かべるのは、それはノーベル平和賞を受賞したような人たちでしょう。もしイエスさまがそのような人たちのことをおっしゃっているのだとしたら、それは私たちには無縁な言葉となります。たしかに平和を実現するということは尊いことに違いありません。しかしそれは私たちには関係のない、別世界の人たちのこととなります。
 ちなみの今年のノーベル平和賞受賞者は二人でした。一人は、アフリカのコンゴ民主共和国のお医者さんで、デニス・ムクウェゲさんという男性でした。もう一人はイラク人の女性で、ナーディーヤ・ムラードさんという人権活動家でした。このお二人は、いずれも、戦争や紛争下における性暴力と闘ってきた人でした。それはとても尊い働きです。
 しかし、では私たちはそのような大きな働きができるかと言われれば、できないと言わざるを得ない。そうすると今日のみことばは、やはり私たちからは遠いみことばだと言うことになってしまう。
 あるいは、これはノーベル賞をもらうとか、そんな大きなことではなくても、例えば反戦平和運動をするということなのでしょうか。そうすると、私の学生時代を思い出してしまうのです。私は学生時代、まさにその反戦平和運動の中に身を置きました。しかし私自身がそこで経験したことは、「平和」という言葉からはほど遠い現実でした。対立するグループのことを口を極めて非難し、攻撃する。反戦平和運動のためなら、多少法律を破っても良いのだという考え方もありました。自分たちを正当化し、相手を徹底的にやっつけるのですね。そんな経験をしたものですから、ここでイエスさまがおっしゃっておられるのは、少なくともそういうことではないなということだけは分かるんです。
 
    平和とは?
 
 さて、ここで「平和を実現する人々」と日本語に訳されていますが、これは「平和をつくる人々」と訳すこともできます。
 そしてこの「平和」という言葉のギリシャ語ですが、それは「エイレーネー」という言葉であり、その意味は、平和、平安、安心、安全、無事というような意味があります。そしてこれも時々申し上げることですが、ギリシャ語の「平和」という言葉は、旧約聖書のヘブライ語の「シャローム」という言葉から来ています。そのシャロームの平和という言葉の意味は、平和、平安、繁栄、健康、和解といった意味があります。ずいぶん「平和」という日本語の意味からすると、大きく広い意味になりますね。言い換えると、これは人間生活のすべての恵みのことを言っているんです。
 人間生活すべての恵み。ここまで言うとだいたい分かってくるかと思います。つまりここが一番大切なところなのですが、聖書の言う平和、すなわちシャロームは、神様からの賜物であるということです。人間が考える勝手な平和ではない。神様のくださるものです。すなわちそれは、神さまを信じること抜きにはあり得ない平和なんです。
 聖書の語る平和とは、まず神さまとの平和、正しい関係が必要なんです。たとえばローマの信徒への手紙5:1−2に次のように書かれています。
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」
 神との平和は、イエスさまを信じることによって成り立つ。それはイエスさまが十字架にかかって、私たちの罪を赦してくださったから、だから神との平和が実現したんです。
 私は、学生時代の疑問が、それを知ることによって分かりました。神さま抜きで平和を考えようとしていた。それでは自分勝手なものにならざるを得ない。そのことが分かりました。
 
    山上の説教の順序
 
 さて、山上の説教の最初の8つの幸い、これは八つの祝福ということで「八福」とも言われますが、それを簡単に振り返ってみましょう。
 最初は「心の貧しい人々は幸いである」から始まっていました。そこでは、心の貧しい人というのは他の誰のことでもなく、この自分自身のことである、そのことに気がつくことから始まると申し上げました。私自身が心が貧しい者である。罪人である。何も良きことができない者である。そう自覚したとき、その心の貧しい私を救って天の国に迎え入れてくださるイエスさまのありがたさが分かるのだと。それが福音であると申し上げました。そのように、罪人であり心の貧しい者である、ありのままの私を受け入れ、救ってくださるイエスさま。ここから始まっています。
 そして「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」と、受け入れていただいた私たちを慰め、癒やしてくださる。そして「柔和な」謙遜になって神に祈るよう導かれる。「義に飢え渇く」すなわち善を求める者となり、隣人に対しても憐れみ深くなり、「心の清い」すなわち単純に神を求める。‥‥これを追っていくと、この順序が大切であることが分かります。すなわち、心が貧しい私、罪人の私がイエスさまによって受け入れられ救われる。そして癒やされ、徐々に変えられていくという過程であることが分かります。イエスさまが私たちを導いてくださるんです。
 そして今日の「平和を実現する人々は幸いである」というみことばに行く。平和など作り出すことのできるはずがないこの私たちが、神さまが、イエスさまがそういう私たちをそのように変えていってくださるというんです。「その人たちは神の子と呼ばれる」とありますが、神の子とはもともとイエスさまのことです。そのイエスさまと似た者となっていく、いや似た者にしていってくださるということになります。つまり、平和を、シャロームを作り出す者としていってくださると。この私たちがです。信じられないようなことですが、それがキリストの奇跡なんです。
 
    平和を実現する人で思い出す人
 
 平和=シャロームを作り出す人。それは先ほど申し上げましたように、神さまの平和・平安、神さまの良きものです。それをこの私にもイエスさまから与えられる手助けをして下さった人。その人のことを思い出します。
 私は体を壊してサラリーマンをやめ、郷里の静岡の田舎に戻りました。神を捨て、キリストを捨てた私は、そうやって挫折をしました。しかし不思議な導きがあって、また教会へ通うようになりました。そして仕事のほうは、教会員の杉山さんという方が事業を始めるので、私に手伝ってくれないかと声をかけてくれました。こうして、二人だけの零細企業がスタートすることとなりました。杉山さんが社長で、従業員は私一人です。その事業所を始めるに当たって、杉山さんは、「これは神さまにささげる事業とする」と言いました。私は最初その意味が分かりませんでした。そして彼が言うには、この会社は、毎朝8時から始めることとするが、15分間の礼拝をもって始めるというのです。具体的には、最初旧約聖書の創世記の1章から読み始めて、毎日1章ずつ読む。次の5分間は、今読んだ聖書について黙想する。そして残りの5分間で社長と私が祈る‥‥。毎日その礼拝をもって始めると言いました。そしてこの会社が、大きくなって従業員が増えたとしても、その礼拝は続けると言われました。こうして、そのプレハブの零細企業は始まりました。そして毎朝礼拝によって仕事が始まりました。
 その二人だけの会社は、自動車部品製造会社である親会社から注文が入るのでした。しかし、まもなく全然注文が入らないときがありました。私は、「ああ、やっぱりダメかな。こりゃつぶれるかも知れないな。つぶれたら、次は何の仕事をしようかな‥‥」などとのんきに考えていましたが、退職金をはたいてこのプレハブの事業所を作った社長はそんな簡単なわけにはいきません。注文が入らないから仕事がない。それで社長は何をしているかというと、なんと聖書を読んでお祈りしているんです。私は見ていて呆れました。「そんなことをしていて、注文が入るわけないよ」と。ところが数日経つと、注文がまた入ってくる。そんなことが何回かありました。それを端で見ていた私は、「いや、神さまってすごいな」と思い始めたんです。
 注文が入ってこないときも私には彼が平安に見えた。シャロームに見えたんです。実際は、心配で心配で仕方がなかったかも知れません。しかし私は、彼が慌てず騒がず冷静に見えました。それは今申し上げたように、彼が聖書を読んでお祈りして、神さまにすがっていたからだと思います。神さまのみことばを必死に読んで、そして神さまに必死に祈って、そうして平安、シャロームをいただいたんだと思っています。
 また彼は、毎朝の始業時の礼拝だけではなく、日曜日の教会の礼拝を絶対に休まない人でした。大量の注文が入って、夜遅くまで仕事をしても間に合わないようなとき、日曜日も仕事をしなければ納期に間に合わないようなときもありました。下請け企業にとって、納期を守るということは至上命題です。絶対に納期を守らなくてはならないのです。何月何日の何時までに注文の品を納めよと言われたら、絶対に守らなくてはならないのです。だから日曜日も仕事をしなければ間に合わないようなときもあるんです。しかし彼は、そういうときでも、午前の礼拝だけは必ず守る。そして終わると仕事場に急いで戻る。そうして納期に間に合うんです。
 社長はいつも平安でした。平和でした。彼が怒ったのを見たことがありません。どんなに忙しくても、反対にどんなに暇で、資金繰りに困るんじゃないかというときでも、彼は落ち着いていました。
 一個不良品を出すと、たいへんなことになります。すぐに親会社から呼びつけられて、すでに納めた製品の段ボール箱を開けて、何百個、ときには千個以上の製品をすべて調べ直さなければならないんです。たいへんな労力と時間がかかります。しかもそれはすでに収めた製品に不良品がないかどうかのチェックですから、精神的にもまいります。しかし、そんなときでも彼は愚痴の一つも言いませんでした。
 それも彼が立派な人であったからだとは思いません。彼は、神にすがる人、キリストにすがる人だったということです。心配を神さまに打ち明け、助けを求めて祈る。礼拝を欠かさない。そして聖霊によって平安を与えていただく。
 私が信仰に導かれた理由の一つに、この杉山さんの存在がありました。彼が平和、すなわちシャロームを作り出したんじゃないんです。キリストのシャロームが、彼を通して実現したんです。「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」。これも、キリストの平和が、神にすがりキリストにすがる者を通して実現するということです。その人が偉いんじゃない。キリストが偉いんです。そのキリストが用いてくださる。それでその人たちは、神の子と呼ばれるんです。


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