2018年10月7日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 出エジプト記24章10節
    マタイによる福音書5章8節
●説教 「心の清い者とキリスト」

 
    心の清い人々は幸い
 
 「心の清い人々は、幸いである。」ここまで山上の説教の8つの幸いを順番に読んできて、初めて素直に「その通りだな」と思える言葉ではないでしょうか。説明抜きで「心の清い人々は幸い」だと思われる。
 しかし一方で、それはわたしという人間とは別世界の人のことのように聞こえるのも事実です。「心の清い人はたしかに幸いに違いない。しかし、自分とは関係ないことだ。自分は心が清くない。だから別世界の話しだ。」‥‥と、自分とは無関係のことのように思われます。自分からはほど遠い人のことであると思えてまいります。心が清いというと、それは清純無垢で、疑うことを知らず、悪いことなど全く考えない愛の人、というような人を想像いたします。ですからそれは、ますます自分のような穢れた、邪心のある人間とはほど遠い無関係の人だと思える。
 しかしここでイエスさまがおっしゃる「心の清い人」というのはそういう人のことでしょうか?
 
    神を見た人々
 
 「心の清い」という言葉をいろいろ調べても、あまりよく分かりません。それで、この8節の言葉の後半、「その人たちは神を見る」という言葉に注目したいと思います。心の清い人が神を見るのであれば、聖書において神を見た人たちのことを調べれば、心の清い人というのがどういう人のことなのかが分かるというわけです。
 では聖書に出てくる人で、実際に神を見た人は誰でしょうか?‥‥すぐに思いつくのはモーセではないでしょうか。モーセは旧約聖書最大の預言者と言われる人です。たしかに次のように旧約聖書に書かれています。
(出エジプト記 33:11)"主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。"
 たしかにモーセは、神を見たようです。しかし一方では、聖書に次のように書かれています。
(Tヨハネ 4:12)"いまだかつて神を見た者はいません。"
 誰も神を見た人はいない。そうすると、モーセは何を見たのか? そのヒントとなることが、同じ出エジプト記の24章10節〜11節に書かれています。それは、モーセやアロンの他に、イスラエルの長老たちが主なる神さまから招かれて、ホレブの山に登っていった時のことです。こう書かれています。
(出エジプト記 24:10-11)"彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた。神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされたので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。"
 そこには、神さまがどんな姿をしていたかとか、どんな顔をしておられたかということは何も書かれていません。ただ、神さまの足の下の所の描写だけです。サファイアの敷石のようなものがあり、大空のように澄んでいた、と。すなわち、神さまを直接見ることはできなかったけれども、そこにたしかに神がおられるということがはっきり分かった。感動的な体験だった。そのことをもって、「神を見た」と書かれているようです。
 
    神の御使いを見た人々
 
 他には、神の御使い、すなわち天使を見た人が、神を見たと言っているケースがあります。
 例えば、ヤコブ。アブラハムの子のイサクの子のヤコブです。創世記32:31にこのように書かれています。‥‥"ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。"
 旧約聖書の時代は、神を見たら死ぬと言われていたんです。神はあまりにも清い。それに対して人間は罪深い。それで神を見たら死ぬしかない、それほど畏れ多いと考えられていました。今のところでヤコブは、「顔と顔を合わせて神を見た」と言いました。これは実際は神の御使いを見たんですね。御使いを見たことをもって、神を見たと言っているわけです。
 他に神の御使いを見たという人に、アブラハムやヨシュア、サムソンの両親やダビデなどが挙げられます。
 
    主に心が向いた時
 
 さて、それらの人は心が清かったのでしょうか?‥‥とてもそうは言えないと思います。モーセは、若い時に驕り高ぶってエジプト人を打ち殺すという失敗をしています。ヤコブは、兄のエサウをだまして長子の権利を奪うということをしています。ずる賢いヤコブと呼ばれます。アブラハムだって、何度も失敗をしています。ダビデもバト・シェバの件で姦通罪という罪を犯しています。そうすると、神の臨在に触れた、あるいは神の御使いに会ったこの人たちは、必ずしも心が清い人であるとは言えない。であるのに神の臨在に触れる、あるいは神の御使いを見るという経験をしている。では、彼らはたしかに心が清い人と言うことはできないけれども、そのような経験をした時にはどうだったのか?
 モーセは、たしかにかつては傲慢にもエジプト人を打ち殺すという失敗をし、挫折しましたが、逃亡したその後の40年間の生活の中で彼の傲慢は砕かれたのでした。そして、民数記12:3にこう書かれています。 "モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。"
 モーセは、傲慢な心が砕かれて、自分が罪人であることを知るに至った。自分が取るに足りないものであり、それゆえに神様がいなくては何もできないものであることを悟るに至ったのです。そういうモーセに、神は自らを現されたのです。
 ヤコブはどうだったか。ヤコブは先ほど述べたように、兄のエサウを母と一緒になってだまして、長子の権利を奪うということをしました。ずる賢いヤコブと言われます。しかしその彼が、御使いと出会った時、彼は、兄エサウの復讐が心配で恐ろしくて、どうにも前に進めたいような状態だったんです。それで神にすがった。それが御使いが現れてヤコブと格闘したという出来事です。
 さらに、ダビデ王が神の御使いを見た時は、ダビデの過ちによってイスラエルの国に疫病が蔓延し、人々が死に絶えるのではないかと思われた時のことでした。ダビデは自分の罪を悔い改め、神にすがらざるを得ない状況でした。そういうときに、神の御使いを見ています。
 それらの結果、モーセは律法を賜って神の民を導き、ヤコブは兄エサウが自分を赦していたという奇跡を体験し、ヨシュアはエリコが陥落する奇跡を体験し、ダビデは主の赦しを経験しています。神の御使いを見た結果、言い換えれば神に出会った結果、そのようなことを経験したのです。すばらしいことが起きているんです。
 そうすると、「心の清い」ということは、神様の方をひたすら向いてすがるという意味であることが分かってきます。まっすぐに、純粋に神様のほうを向く。そしてすがる。幼子がその親に信頼して、すがるようにです。それがここで言う「心の清い人」だということになります。いつもそうではないかも知れない。しかし悔い改めて神様の方を向く、そしてすがって祈る。そういう時が、わたしたちにもあります。
 
    イエスを見ることが神を見ること
 
 そして、聖書にただ一人、本当に父なる神そのものを見た方がいます。それがイエスさまです。
 (ヨハネ 6:46)「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。」
 さらに、ヨハネによる福音書では次のように書かれています。(ヨハネ 1:18)"いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。"
 イエスさまなら、福音書に登場する人々はみな会っています。つまりイエスさまを見た。ならば、心の清い人に限らず、多くの人が神を見たことになるのではないのでしょうか?
 しかし、イエスさまに出会った人が皆イエスさまを神であると信じたわけではありません。イエスさまは弟子のフィリポに向かって次のようにおっしゃっておられます。
(ヨハネ 14:9)"イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。"
 そのように、イエスさまを見ているのにそこに神を見ることができない。皆そうだったんです。ユダヤ人指導者たちはイエスを死に追いやりました。弟子たちはイエスさまを裏切って見捨てました。ローマ総督のピラトは、イエスさまに十字架の判決を下しました。誰もイエスさまに神を見ることができなかったんです。
 しかしその弟子たちも、復活の後、イエスさまが神であることが分かりました。ヨハネによる福音書には、よみがえられたイエスさまを見た弟子のトマスが次のように言ったと書かれています。
 「わたしの主、私の神よ」(ヨハネ20:28)
 イエスさまのためなら命も捨てますと誓いながら、いざとなるとイエスさまを見捨てた弟子たち。トマスはその一人でした。しかしそのイエスさまが、十字架で死なれた後、よみがえられて自分たちの所に来てくださった。それは愛とゆるしの姿でした。そのときにトマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と心から告白したのでした。イエスさまに神を見たのです。
 続けてイエスさまはおっしゃいました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
 
    神との交わり
 
 今わたしたちの時代は、イエスさまが天に帰られていますから、直接見ることはできません。でも信じることは幸いなんです。そしてイエスさまは、礼拝の中にいてくださることを約束なさいました。(マタイ18:20)「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
 ですから、この礼拝においても、イエスさまはいてくださる。わたしたちは心を清くしていただくなら、すなわち単純にそのことを感謝して信じるのなら、神を見ることができるのです。
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 「クリスチャン新聞・福音版」7月号に、ファイナンシャルプランナーで、相続診断士という仕事をしているTさんという女性の証しが載っていました。40歳を過ぎた頃、ゴスペルと出会ったそうです。以前いた会社の向かいにヤマハの教室があり、ゴスペルと書いてあった。ゴスペルは格好良さそうだし、コーラスにはお金もかからないし、楽器も使わなくていいと思って始めたそうです。しかし、そのゴスペルの講師は宗教的なことが何も分からない人で、歌の中に出てくる「アーメン」とか「ハレルヤ」という言葉の意味が分からなかった。それで、「クリスチャンの方に失礼だな」と思って、いったんゴスペルをやめたそうです。
 その後、心を病んで心療内科にかかっていた時期があったそうです。その医者がクリスチャンで、「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある」(伝道者の書3:1/新改訳聖書)という御言葉をプレゼントしてくれた。すべてのことには時があると。そして最初のゴスペルをやめて2年後、ブラザー・タイスケさんのゴスペルクワイアを聴いて、これは面白いと驚いて、それをきっかけに、もう一度本気でゴスペルを歌うようになったそうです。そしてある時、ゴスペルを歌う中で神様に触れる体験をしたそうです。こう書いておられます。「歌っていると心が満たされるのです。泣けてきたり、自由になったという解放感を覚えたり。『何だろう、この幸せ感‥』といった感じでした。神様はしっかりわたしを捕らえていてくださっていたのです。」
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 わたしたちは、この世において、主によって心を清くしていただいて、すなわち単純に主におすがりして、神に触れることができる。そして、やがて神の国に迎え入れられた時には、名実共にイエスさまと、そして父なる神とお目にかかって、主を礼拝する。そのようにして歩んでいくことができます。


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