2018年9月30日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 出エジプト記33章19節
    マタイによる福音書 5章  7節
●説教 「憐れみ深い者とキリスト」

 
    幸いなるかな
 
 イエスさまの山上の説教を一節ずつ読み進めています。そして山上の説教の冒頭は、8つの祝福の言葉が述べられています。それが「幸いである」という言葉の繰り返しです。そしてきょうは5番目の祝福の言葉です。「憐れみ深い人々は幸いである。その人たちは憐れみを受ける。」
 この「幸いである」という言葉ですが、前にも申し上げましたようにギリシャ語の語順で言うと、文の冒頭に「幸いである」という言葉が来ています。すなわち、「幸いなるかな!」という言葉から始まっています。今日の七節は、「幸いなるかな、憐れみ深い者よ。憐れみを受けるからだ」という感じです。「幸いなるかな」というのは、感嘆の声です。「なんと幸いなことよ!」というように、「幸せだな〜!」「祝福された者よ!」というような、圧倒的な幸せの宣言と言えるような言い方です。
 つまり、「憐れみ深い人は幸いであり、その理由は、かくかくしかじかで、結論として憐れみ深い人は幸いであるということなのだ」というような、心理学的、あるいは哲学的な考察をした結果、幸いであると言うことができる‥‥というような理屈を言っているのではありません。あるいは、格言を言っているのでもありません。「なんと幸いなことよ!」「幸せだな−!」「祝福された者よ!憐れみ深い者は!」というような、神の子イエスさまの心からの声、感嘆の叫び声のようなものです。
 山上の説教の最初の、「心の貧しい人々は幸いである」もそうでした。「幸いなるかな!心の貧しい者よ!天国はその人たちのものだ」と宣言しておられる。これは、誰か心の貧しい人がいるという他人のことを言っているのではないと、そのとき申し上げました。この自分が、実は心の貧しい者であった時がついた時に、このイエスさまの祝福の言葉が、かけがえのないありがたい言葉として聞こえてくるのでした。本日の「憐れみ深い人々は幸いである」も同様です。「幸いなるかな!憐れみ深い者よ!」と、イエスさまが心からの感嘆の叫びを上げておられる。手放しの祝福です。
 
    憐れみなんか損?
 
 しかし私たちは、これもすぐには納得できないと思います。「なぜ憐れみ深い者が幸いなのか」と。この世を生きて行く時に、憐れみ深いなどということは言っておれない。人に憐れみをかけても何の得にもならない。‥‥そんなふうに思われることでしょう。
 たしかに、人のことなどかまっておれないというのが現代社会の風潮です。これもずいぶん前に話題になったことですが、2001年の文化庁の調査で「情けは人のためならず」ということわざの意味を、約半数の人が間違って理解しているということが分かったというニュースがありました。「情けは人のためならず」ということわざの元々の意味は、「人に対して情けをかけておけば,巡り巡って自分に良い報いが返ってくる」という意味です。ところが、国民の約半分は、「情けは人のためならず」とは、「人に情けを掛けて助けてやることは、結局はその人のためにならない」という意味に誤解しているという結果に衝撃を受けたものでした。裏を返せば、現代社会ではそれほどに情けをかけるとか、人を助けるということに冷淡になっていることが分かるというのでした。その調査からさらに17年も経っている今はどうでしょう。
 今日の聖書の「憐れみ」という言葉は、その「情け」という意味とほぼ同じです。なぜ憐れみ深い者が幸いなのか。憐れみなんてことはムダなことではないのか。そのように思われるのではないでしょうか。
 
    憐れみを受けるために他人を憐れむ?
 
 さて、イエスさまは、なぜ憐れみ深い者が幸いであると言っておられるのか? 「幸いなるかな!」と感嘆の声を上げておられるのか? 
 7節は「その人たちは憐れみを受ける」と続いています。憐れみを受けるから、憐れみ深い者は幸いなのか? つまり先ほどのことわざ、「情けは人のためならず」と同じ意味ということになるのでしょうか? つまり、他人に憐れみをかけておけば、回り回ってこの自分にも報いが返ってくる、だから憐れみをかけるのが大切なのだ、ということなのでしょうか?
 だとしたら、先ほど私は、この言葉をイエスさまは格言やことわざとしておっしゃったのではないと申し上げましたが、やはり格言かことわざの類いになってしまいます。人に情けをかけておけば、自分もいつか助けられることがあるだろうというようなです。
 そこで、この7節全体の言葉の順序ですが、「その人たちは憐れみを受ける」から「憐れみ深い人々は幸いである」というように読みたくなりますが、必ずしもそう読まなくてよいと思います。つまり、「憐れみ深いことをしていれば、その人は憐れみを受ける」というように読まなくてよいと思います。
 ではどう読めばよいかというと、「あなたは憐れみを受けることになるのだから、憐れみ深くあれ。それが幸いなことだ」というようにです。
 
    憐れみを受けることとプライド
 
 憐れみを受ける。そうすると、多くの人は「自分は憐れまれたくない」と思うのではないでしょうか。憐れまれるというと、何か自分が見下されたかのように思われるからです。「憐れみを受けるなんて、自分はそんなに惨めではない」と思うでしょう。いやこれは人間から受ける憐れみのことではなくて、神さまから受ける憐れみのことであると言ったとしても、それはつまらないことだと思うのではないでしょうか。
 私の最初の任地の教会では、毎月教団から発行される伝道用の新聞である「こころの友」をいろいろな人に配布していましたが、あるとき私は、余ったこころの友を家々のポストに配っていました。ある家に来たところ、庭にその家のおじいさんと思しき人がいましたので、「どうぞ」と言って手渡ししました。するとそのおじいさんは、一目見て、「なんだキリスト教か。ワシはまだキリスト教の世話にならなきゃならんほど落ちぶれておらん」と言って突っ返されました。私は「そうですか」と言ってそれを受け取りました。そんなことがありました。
 多くの人は、この憐れみとは人間から受ける憐れみではなくて、神さまからの憐れみのことであると言ったとしても、「神さまに憐れんでもらうほど自分は落ちぶれていない」とか、「そんな憐れみは必要ない」とか「神さまっていうのは、願い事だけ叶えてくれればよいのだ」と思うでしょう。自分は憐れみを受けなければならないような惨めな存在ではない、と思うからです。
 
    神の憐れみしかない
 
 しかし、実は私たちは、神の憐れみなくして生きて行けないのです。そのことに気がつくことが幸いなのです。
 私自身、神の憐れみによって命を助けられました。教会を離れ、信仰を捨て、神を捨て、勝手気ままにサラリーマン生活を送っていた時のことでした。持病のぜんそくをこじらせて窒息しそうになり、救急車で病院に運ばれました。今から39年前の、ちょうど今のこの季節でした。遠のく意識の中で、私は昔捨てた神さまのことを思い出しました。そのときの私は、「神さま、私はこんなに良い人だから救ってください」と言うことはできませんでした。神さまを捨て、教会も捨て、信仰も捨てて生きていたからです。勝手気ままに、他人に迷惑ばかりかけていました。だから、今日の御言葉のように「神さま、私は他人に情けをかけてきましたから命を助けてください」と言うこともできませんでした。つまり、私には神さまに助けてもらう権利が一つもなかったんです。
 しかしわたしは、厚かましくも久しぶりに神さまを思い出し、とにかく心の中で叫んでいました。「神さま、助けてください!」‥‥そして気を失いました。私はどうなりましたか? 助かりました。神さまが助けてくださったんです。私には、一つも助けてもらうべき理由がなかったにもかかわらずです。神さまには、わたしを助ける理由は一つもないはずでした。しかし神さまは私を助けてくださいました。その厚かましい祈りを聞き入れてくださいました。なぜ神さまは私を助けてくださったんでしょうか?‥‥それは憐れみです。ただ、神の憐れみです。それ以外にはありません。
 皆さんが、死を迎える時、何と言うでしょうか。「私はこんな良い人間でしたから、どうぞ天国へ入れてください」と言うのでしょうか。私はとてもそんなことは言えません。思い出されるのは、罪、過ち、失敗の数々です。しかしこのように言うことはできます。「神さま、罪人の私を憐れんでください。そして、イエスさまの御名前によってあなたの国に入れてください」と。
 お祈りもそうです。「神さま、私はこんなに良いことをしました、隣人を憐れみました、愛しました、だからお祈りを聞いてください」と言うことはできません。しかし、全くお祈りを聴いていただく資格のないものであるけれども、そんな私を救うために十字架にかかってくださった「イエス・キリストの名によって」お祈りを聞いてください、と言うことはできるんです。それが幸いです。
 
    放蕩息子
 
 ルカによる福音書の15章に、イエスさまのお話しなさった「放蕩息子」のたとえ話があります。その息子は、お父さんに、自分が相続すべき財産を先にくれと言って分けてもらいました。そしてそれを売ってお金に換え、遠くの国に行ってしまいました。そして彼は、その遠い国で遊んで暮らし、放蕩の限りを尽くしました。そして全財産を使ってしまいました。するとその国に飢饉が起こり、食べるにも困りました。それで、その国で豚の世話をする仕事をしましたが、誰も食べ物をくれませんでした。そのとき彼は我に返って、お父さんのところへ帰ることにしました。お父さんのところには食べるものがたくさんある。しかしお父さんの財産を使い果たしてしまったのだから、今さら息子であると言って帰ることはできない。だからお父さんに謝って、こう言おう、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてもらおう」と。そうしてお父さんの家に帰っていきました。するとお父さんは、走り寄って息子を抱き、召使いに命じて一番良い服を着せ、手に指輪をはめてやり、宴会を開いてお祝いしました。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」と言って。
 ‥‥その放蕩息子のたとえ話を思い出してください。言うまでもなく、彼は勝手にお父さんの財産を使い果たしてしまったのですから、飢え死にして死のうが、それは自業自得です。ましてやもう息子と呼ばれる資格はありません。しかしこの父親は、何の資格もないこの息子を喜んで迎え入れました。それは憐れみです。そしてこのたとえ話の中の父親とは、神さまのことをたとえています。神の所に立ち帰る。神さまのところに帰ることができる。何の資格もないのに。そして神はその資格のない私たちを喜んで迎え入れてくださるんです。
 実は、そのたとえ話には書かれていませんが、このたとえ話の背後にはイエスさまの十字架が隠れています。イエスさまが、私たちが父なる神に受け入れられるために、十字架にかかってご自分の命をささげてくださった。なぜ、イエスさまが神の子と呼ばれる資格のない私たちのために命を捨ててくださったのか?‥‥それはイエスさまの憐れみです。愛です。他に何の理由もないんです。
 私たちは、実はそのような神の憐れみによって生かされている。イエスさまに表された神の憐れみを信じて救われる。その恵みに気がついた時に、イエスさまの言葉が聞こえてきます。「幸いなるかな、憐れみ深い者よ」と。そしてわたしたちは思わず祈らざるを得ません。「主よ、わたしを憐れんでください。隣人を憐れむことすら十分にできないわたしを憐れんでください」と。


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