2018年9月23日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 出エジプト記 2章 23〜25節
    マタイによる福音書 5章 6節
●説教 「義に飢え渇く者とキリスト」

 
 先月のことですが、山口県で行方不明になった2歳の男の子を発見した尾畠春男さんという78歳の男性のことが話題となりました。皆さんもご存じの通りかと思います。尾畠さんは大分県の人ですが、誰から頼まれたわけでもなく、まったくのボランティアで行方不明になった男の子の捜索をはじめたということでした。またこの尾畠さんは災害が起こると、すぐにそこに駆けつけてボランティアを始めるという人だそうで、そのときも、西日本豪雨によって被害を受けた広島県呉市の泥出しのボランティアをしている最中にこの事件を聞いて、急遽駆けつけて捜索に加わったということでした。尾畠さんという人は、かつて魚屋を営んでいたそうですが、65歳で店をたたんで、余生をボランティアにささげることにしたそうです。余生をボランティアにささげるなんて、よほど財産があるのかと思いきや全くそうではなく、貯金はほぼゼロ、収入は月約5万5千円の年金だけだそうです。そして一切の謝礼を受け取らないばかりか、ボランティア先では誰にも迷惑をかけないということから、自分の軽自動車に寝泊まりをするということでした。‥‥このようなご老人がいるということは、悪いニュースが多いこの世の中において、たいへんさわやかなニュースとして伝わったばかりではなく、人間としての生き方の一つを指し示したものとして受け止められたのではないでしょうか。今の世の中にも、こういう人がいるんだと、多くの人が思ったことでしょう。
 今日のイエスさまの御言葉を黙想していました時に、この出来事を思い起こしました。
 
    義に飢え渇く者
 
 イエスさまの尊い教えがまとまって書き記されている山上の説教。本日は、その4番目の幸いについて語られています。
 「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。」
 これもたいへん不思議なおことばです。まず「義」ということですが、これはもちろん正しいという意味です。正義の義です。次に「飢え渇く」ですが、これもそのままのとおりで、あえぐほどに欠乏していることを言っています。言い換えれば、切に求めていることであるとも言えるでしょう。そうすると「義に飢え渇く」ということは、正義がなくて切に求めている、あるいは善を切に求めている人々ということになります。
 昔、中央アジアの国アフガニスタンで激しい戦争が行われていた時がありました。今も内戦が終わっていませんが、そのころは大国が介入して、ひどい戦争になっていました。そのような時に、テレビで放映されていたアフガニスタンの子どもたちの言葉が忘れられません。インタビュアーが子どもたちに、「今、何が一番ほしい?」と尋ねました。すると子どもたちは、口々に「平和がほしい」と答えていたのです。それを見て、非常に切ない思いがいたしました。子どもですから、本当は「おもちゃがほしい」とか「サッカーボールがほしい」というところでしょうが、毎日どこかでミサイルが炸裂し、爆弾が爆発して多くの人が死んでいく。そういう中で、何よりも生きていくことが絶望的に見える。それで何よりも「平和がほしい」と言わざるを得ない。まさに、正義はどこにあるのか?善はどこにあるのか?と、飢え渇く思いがいたします。
 私たちの身の回りではどうでしょうか?‥‥たしかに戦争はないかも知れない。しかしたとえば、高齢者をだまして被害の絶えることがないオレオレ詐欺などの詐欺は決して他人事ではありません。万引き大国と言われる日本、またマナーも悪くなる一方です。町内のゴミ置き場もルールが守られずゴミが散乱する有様、平気で他人の敷地内にゴミを放り込んでいく人、挨拶をしても返って来ないことがある‥‥。困っている人がいても見て見ぬふり。自分さえ良ければ良いという風潮です。学校では子どもたちに、「知らない人から声をかけられたら、防犯ブザーを鳴らしなさい。あるいは逃げなさい」と教えている。つまり、小さい頃から他人を信じないように教えなければならなくなったのです。信じることではなく、信じないことを教えなければならない。こんなに悲しいことがあるでしょうか。‥‥まさに物はあふれていても、人間の心は荒れ果てた砂漠のような社会です。そうは言っても、どうすることもできず、あきらめる。あるいは、自分自身もその人間砂漠の一員となることに甘んじるしかない。
 ところが、イエスさまは、仕方がないから甘んじていなさいとはおっしゃらないんです。「義に飢え渇く人々は幸いである」、「善を切に求める人々は幸いである」とおっしゃる。
 加藤常昭先生は、この「義に飢え渇く」ということについて、次のように解説しておられます。「今ここで正義が行われているかと、問い続けることであります。ここに神の義がたてられているかということなのです。このことを問い続けることをやめるなと主は言われるのであります。」(『加藤常昭説教全集6』ヨルダン社)
 今日もう一箇所読んだ旧約聖書の出エジプト記2章23〜25節。ここではエジプトで虐げられていたイスラエルの民の助けを求める叫びが、神に届いたと書かれています。そして神は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。そしてモーセという人を用いて、イスラエルを救うという物語が始まります。神に祈り叫ぶことから出エジプトの出来事が始まっています。それはまさに義に飢え渇いた人々の叫びであり、祈りです。
 
    キリストの渇き
 
 飢え渇きと言うことを考える時に、イエスさまご自身が飢え渇かれたことを思い出さなければ成りません。それはヨハネによる福音書19章28節です。十字架にはりつけにされたイエスさま、そしてその死も近づいてきた時に、十字架上で「渇く」と言われました。十字架のイエスさまが「渇く」とおっしゃった。なんと耳に残るような言葉でしょうか。この言葉は、のどが渇いたという意味ではありません。イエスさまの心が渇かれたんです。
 考えてみると、イエスさまが十字架にかけられたという出来事は、まさに人間の罪の結果といわなければなりません。イエスさまは、神の国の喜ばしい知らせを宣べ伝え、病気の人々を癒やし、悪霊に取りつかれた人からは悪霊を追い出し、まさに善を行われたのでした。しかし人々はそのイエスさまを十字架という死刑台に追いやった。イエスさまを十字架という死刑台に追いやった人々は、イエスさまに対する妬みによるものでした。そのイエスさまは、弟子によって裏切られました。そしてイエスさまが捕らえられた時、弟子たちは師であるイエスさまを見捨てて逃げていきました。一番弟子であったペトロは、イエスさまのことを知らないと、3度も言って見捨てました。そのように、愛したはずの弟子たちからも見捨てられました。そしてイエスさまは無実と知りながら、自分の立場を守るために十字架の判決を下したローマ総督のポンテオ・ピラト。十字架の周りには、イエスさまをののしる人々‥‥。
 神の子イエスさまが、全身全霊をもって愛を注いで来られたというのに、この仕打ちです。しかし私たちに、それらの人々を非難する資格はありません。彼らと同じ罪が私の内にあることを知った時に、この私も彼らの一員であると告白せざるを得ないからです。
 そのような中で十字架にかけられ、まさに死を目前にしたイエスさまが、「渇く」とおっしゃったんです。まさに、正義はどこにあるのか?善はどこにあるのか?愛はどこにあるのか?と言わざるを得ない。同時に、この言葉を聞く私たちのふがいなさが浮き彫りとなり、悔い改めさせられるような言葉です。
 しかしこのイエスさまの「渇く」という言葉は、決して嘆きの言葉ではありません。人間の罪の世の中にあって、理不尽にも十字架にかけられたイエスさまが、十字架にかけた人々、それは私たちを含むわけですが、そういう人間の救いを、なおも求める言葉です。そしてその救いを求める言葉は成し遂げられました。そのしるしが復活です。愛のない、善のない、罪人である私たちを救ってくださったんです。
 
    神は人間を良いことをするために造られた
 
 そもそも最初に神さまが人間をお造りになった時、それは良いものとしてお造りになりました。すなわち、正しいものとして、言い換えれば互いに愛し合うものとして造られました。ですから、最初の人間が置かれた場所、エデンの園は満ち足りた世界でした。エデンの園には、テレビもインターネットも、自動車もありませんでしたが、満ち足りた世界でした。それは愛があったからです。そして主なる神さまが共におられたからです。
 しかし人間が神を忘れ、罪を犯したことによって一変しました。愛を失いました。世界は罪にまみれた世界に、砂漠のような社会になりました。
 しかし神さまはあきらめませんでした。それが聖書の歴史です。神さまは罪人となってしまった人間を救うために、道を用意されました。それがイエスさまに至る道です。救いというのは、第一に、罪人である人間がキリストによってそのまま救われること。第二に、キリストによって救われた人間が、初めの良い状態に戻ることです。
 ただ今読み続けているこのイエスさまの山上の説教でいえば、最初に「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」というお言葉で始まっていました。これはすでに学んだとおりですが、この心の貧しい、罪人である私という人間が、そのままイエスさまによって救われるということでした。そして「悲しむ人々は幸いである」。まさに私たちは、自分が罪人であり、救いようのない人間であるという事実を知った時に、悲しむ。しかしそういう私たちを主イエスは慰めてくださる。
 こうして、ありのままの私たちを受け入れ、救ってくださるイエスさまは、今度は私たちがどのような人であることを願うかということを教えられていると言えます。柔和、すなわち謙遜であること。そして今日の御言葉で、義に飢え渇くこと、すなわち善を追い求めることです。私たち罪人であるにもかかわらず、イエスさまが救ってくださった。そのことに感謝して、神の義、神の正しさ、善を願い求める。そこに聖霊が働かれるのです。
 
    満ち足りた人生となるためには
 
 私たちは誰でも、満ち足りた人生を送りたいと思います。それでお金や家や物を追求いたします。しかし、神さまは、この世の物で満ち足りるようには人間をお造りになりませんでした。この世の物質ではなく、神さまの与えるもので満たされるように造られたんです。
 詩編に次のように書かれています。(詩編 17:15)「わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み、目覚めるときには御姿を拝して満ち足りることができるでしょう。」‥‥神に出会い、神を礼拝することによって満ち足りると書かれています。
 使徒言行録には次のように書かれています。(使徒 13:52)「他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。」‥‥喜びと聖霊に満たされていた。聖霊に満たされる時に、喜びも満ちたという意味にとれます。私たちは、この世の物質的なものによって満たされるようには造られていないんです。神さまが与えてくださる良いもの、そのもっとも良いものは聖霊であり、それによって満たされる。聖書はそういうことを述べています。
 そして今日の聖書の御言葉は、私たちがどのようなものを追い求めるべきかということを教えています。それは義です。神さまが正しいとされることを求めるようにと。善を追い求めるようにと。そこに神が「幸いだ」と祝福を与えてくださる。「満たされる」と約束してくださる。こうして私たちは、何を求めて歩んでいったら良いかを知ることができるのです。
 先ほど「主の祈り」をご一緒に唱えました。主の祈りの中で、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈りました。父なる神さまのみこころが天国においてなされている。同じように、この世でも成りますように、と祈ったんです。神さまはあきらめないで、私たちを導いてくださっている。私たちもあきらめないで、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈り続ける者でありたいと思います。 主が、こんな私たちをあきらめないで救い、導いていてくださるのですから。主が満たしてくださることを信じて、歩んでいきたいと思います。


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