2018年9月16日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 民数記12章3節
    マタイによる福音書5章5節
●説教 「柔和な者とキリスト」

 
 きょうは、この世の中を長く生きてこられた人生の先輩を祝福する礼拝(敬老合同礼拝)です。そして、年に一度の教会学校との合同礼拝です。そういうわけで、今ここには生まれてからそんなにたっていない子どもたちから、何十年も生きてきたお年寄りまで、すべての年齢の人がいっしょに集まって礼拝をしています。このように、あらゆる年齢の人が集まって、同じことをするというのは、教会以外にはあまりないことだと思います。ですからたいへんすばらしいことだと思います。
 
    柔和な人々は幸い
 
 さて、今日の聖書は、いつもこの主日礼拝で読んでいるマタイによる福音書の山上の説教と呼ばれるところを読みました。教会学校では、今、モーセのところを学んでいますけれども、実は今日の礼拝でもあとからちゃんとモーセが登場します。
 さて、それで今日の聖書の言葉は、イエスさまがおっしゃった言葉です。「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。」
 柔和な人たちは幸せだ、神さまが祝福してくださるというんです。「柔和」というのはどういう意味かというと、辞書を引くと「やさしくて、おだやかなようす」と書いてあります。たしかに、怖い人より優しい人の方が良いですね。すぐ怒って、怖い人は苦手です。だからたしかに、優しくて穏やかな人の方が良いです。
 でも、自分がそのように柔和な人となれと言われたらどうでしょうか? なかなか難しいです。柔和な人になりたいけれども、なかなかできない。なぜなら、いやなことをいわれれば腹が立つし、怒ります。つまらないことがあれば文句を言います。なかなか優しくなれない。だから、自分が柔和な人になれと言われたら、難しいんです。
 
    地を受け継ぐ
 
 続きの言葉を見てみましょう。「柔和な人々は幸いである」の続きです。「その人たちは地を受け継ぐ」と言われています。地を受け継ぐから幸いだ、幸せだ、良いことだというのです。では「地を受け継ぐ」って、なんでしょうか?
 この「受け継ぐ」というのは、「相続する」という意味なんです。相続するというのは、親のものをもらうということです。私たちは、自分のお父さんやお母さんが死んだときに、お父さんやお母さんのもっている貯金だとか、家だとかをもらうんですね。それが相続です。そうすると、ここで「地を受け継ぐ」と言っているのは、天国のお父さんからもらうんです。つまり神さまからもらうと言っているんです。
 何をもらうかというと、「地」です。「地」とは地球の地、土地の地ですね。天と地の地です。つまり、私たちの生きているこの世です。この世界です。この世界は神さまのものです。神さまのものなんですが、それを柔和な人にあげるとおっしゃっているんです。この世界をくださる!神さまの持っている世界をくださる!すごいですね。
 
    柔和な者が地を受け継ぐ
 
 でも、本当にそうなんだろうかって、思う人もいるでしょう。なぜなら、この世のものをたくさん持っているのは、柔和な人ではないんじゃないかって。この世のもの、それはお金であったり、それこそ土地であったり、国であったり、そういうものを持っているのは、頭のいい人だったり、力の強い人だったり、才能のある人なんじゃないかって思うんじゃないでしょうか。学校でもそうなんじゃないか。テストで百点取るのは頭がよい子、スポーツで優勝して表彰状をもらうのはそういう才能がある子‥‥。
 でも今日の聖書でイエスさまがおっしゃっているのは、そういう才能があるとか、頭が良いとか、力があるとか、お金があるとか、そういう人が地を受け継ぐと言っているのではありません。柔和な人です。
 さて、そうするとイエスさまがおっしゃっている「柔和」というのはどういうことなんだろうか。もう少し丁寧に考えてみます。
 「柔和」という言葉は、旧約聖書の言葉であるヘブライ語では「貧しい」そして「謙遜」という意味の言葉と同じです。貧しいというのは、収入がない、お金がない、どうすることもできない人のことです。お金がないと、食べるものを買うこともできません。着る服を買うこともできません。すごく困ります。生きて行くこともできなくなるかもしれません。でも誰も助けてくれない。そうすると、神さまに助けてもらうしかなくなります。そうして神さまに頼る。それがここで言う貧しいと言うことです。
 また「謙遜」というのは、へりくだりと言います。へりくだっている人。自分の無力を知っている、自分が何もできないことを知っている人、自分が取るに足りない者であることを知っている、自信がない。自信がないから神さまに頼る。神さまに助けを求める。そういう人です。
 イエスさまは、そういう人が地を受け継ぐとおっしゃいました。つまり、そういう人に世界をくださると。力があり、自信にあふれ、「俺って偉いだろ」という人、「自分は何でもできるから神さまなんか必要じゃない」って言う人にくださるんじゃないんです。神さまがこの世を与えてくださるのは、謙遜な人です。自分は何をやってもダメだけれども、神さまに頼るという人です。
 
    柔和な人=モーセ
 
 さて、例えばそれはどういう人でしょうか。聖書を読むと、先ほど読んだ民数記の12章3節に「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった」と書かれていました。この「謙遜」というのは「柔和」のことですから、つまりモーセは世界の中で一番柔和だったと言っていることになります。ちょうど今、教会学校でモーセのところの聖書を読んでいますね。
 でも、モーセははじめから柔和ではなかったんです。それどころか、はじめはモーセは自信満々の人でした。自分には何でもできると思っていました。モーセはイスラエル人でしたが、エジプトの王様のもとで育てられました。ですから地位もありました。いろいろな学問を身につけ、武芸も身につけました。だから力もありました。それで、自分と同じイスラエル人がエジプトで奴隷になっているのを何とかしようと思いました。自分の力で。ところが失敗してしまいました。エジプト人を一人殺してしまいました。それでモーセはエジプトを捨てて逃げていきました。遠くのミディアン人のところへ逃げていったんです。自分には何でもできる、神さまなんか必要じゃないと思っていたモーセは失敗して逃げていったのです。そして砂漠の向こうの方で40年が経ちました。40年というとすごく長いですね。今ここに、10歳の子はいますか? その子は40年経ったら50歳になっています!そんなに長い時が経ちました。
 モーセは40歳の時に失敗してミディアンに逃げていきましたから、それから40年経って80歳になっていました。80歳と言えばおじいさんです。力もありません。地位もありません。権力もありません。体力もありません。なんにもできません。エジプトの国で奴隷にされている仲間のイスラエル人を解放するなんて、とても無理です。ひとりぼっちです。
 でも、神さまは、モーセがそういう人になるのを待っておられたんです。なぜなら神さまは、「俺には何でもできる」って言う人を用いることはできないからです。神さまを信じないからです。神さまに頼らないからです。そういう人に任せるわけにはいかないからです。しかしモーセは失敗し、挫折しました。そして自分が無力であることを知りました。神さまに頼らないと何もできないことを知りました。そうなる時を待っていたんです。それは謙遜になるとき、柔和になるときです。昔は高ぶっていたモーセは、そういう失敗と挫折を経て、謙遜になっていました。神さまに頼らないと何もできないことを知る人になっていました。そのモーセを神さまは用いられました。そして、モーセをもう一度エジプトに帰して、強大な王様ファラオから、イスラエルの民を解放するという大きなことをさせたのでした。
 
     神は自信のない人・柔和な人を用いる
 
 神さまは、自信満々の人を用いることはできません。「神さま抜きでも自分はやれる」と思っているから、どうにも用いることができないのです。しかし、自信がなく、知恵も力もないことを知っており、「もう神さましか頼る人がいない」と言って主により頼む人を主は用いることができるのです。そして主にゆだねて、平安を得ることができる。ゆだねることがなかなかできないなら、ゆだねることができるまで祈るのです。そして、その結果「おだやかな」心に主がしてくださる。それが「柔和な人」です。
 主は、そのように主により頼む人を用いて、この世を導こうとされる。それが「地を受け継ぐ」ということです。モーセがそうでした。
 それゆえ、この世で成功しようと思うなら、まず自分の罪を知り、弱さを知ってから、神さまに寄り頼むべきです。主イエスにおゆだねすべきです。主は言われます、「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」と。 そして、たとえこの世で、人の目には失敗に終わったように見えても、きたるべき世、永遠の新しい地では、間違いなくその新しい地を受け継ぐのです。


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