2018年9月9日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記21章17節
    マタイによる福音書5章4節
●説教 「悲しむ者とキリスト」


     悲しむ者は幸いとの言葉
 
 「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」
 これが山上の説教の2番目の祝福の言葉です。しかしこの言葉は、ふつうの考え方とは全く違っています。ふつうは、悲しむことは幸いではないことです。いやむしろ、幸いではないから悲しんでいると言ったほうがよいでしょう。
 しかしイエスさまは、「悲しむ人々は幸いである」とおっしゃる。そしてその理由は「その人たちは慰められる」からだとおっしゃるんです。慰められることになるから、悲しむ人々は幸いであるという。たしかにそういうことはあるかも知れません。例えば、子どもが転んでケガをしたとします。すると子どもが泣きます。そして親が子どもに慰めの言葉をかける。「痛かったね」と。そのように心配して慰めの言葉をかけられる。それが子どもにとっては幸いなことです。ですから親が心配して慰めるまで子どもが泣き続けたりします。そのように、たしかに「慰められる」から幸いということはあるでしょう。悲しまないと慰められない。だから悲しむ者は幸いだ、と。
 しかし、中には、ひとりぼっちで悲しんでいるという場合もあります。誰も慰めてくれる者がいない。孤独な悲しみです。ですから必ずしも慰めてくれる人がいるわけではありません。
 さらに言えば、人に慰められることによっては癒やされないような悲しみもあります。先週の日本は、まさに災害の一週間であったと言えるでしょう。週の前半には、関西を中心に台風21号によって大きな被害がありました。また木曜日には、北海道で大地震が起きました。それらによって肉親を失ったり、あるいは家を失った人がいました。そのような大きな痛みは、人によって慰められたとしても癒やすことができないようなものがあります。
 そう思うと、私たちもまたさまざまな大きな悲しみを経験してきたのではないでしょうか。そういうことを振り返りながら、このイエスさまの言葉を考えると、このイエスさまのおっしゃった言葉は、「悲しんだら慰められるから幸いだ」というような格言のような、ことわざのようなことをおっしゃったのとは違っているということが分かってまいります。
 
     どういう悲しみか
 
 ではいったい、なぜこのようなことをイエスさまはおっしゃったのか。悲しむこと自体は決して幸いなことではない。にもかかわらず、どうしてイエスさまはこのようにおっしゃるのか。
 まずこの「悲しむ」という言葉、ギリシャ語の動詞が、聖書の他の箇所でどんなところで使われているのかを見てみます。例えばマルコによる福音書16章10節です。これは、マグダラのマリアが復活したイエスさまに出会ったところです。そしてイエスさまがよみがえったことを、イエスさまに従ってきていた人々の所に知らせに行きました。その人たちは、イエスさまが死んでしまったということで泣き悲しんでいました。そこにマグダラのマリアは、イエスの復活を知らせた。
 もう一つ挙げると、ヨハネ黙示録18章11節、および15節19節に使われています。そこでは、神に背いて罪を犯し続けた都が神のさばきによって滅びる様が描かれています。その時、それを見て、その都によって利益を得ていた商人たちが、もう買ってくれる人がいないというので泣き悲しむ、という言葉などが出てきます。
 そのようにイエスさまの死を悲しむ、あるいは都が滅亡することを悲しむというような、非常に大きな悲しみを指しています。すなわち、人間にはどうすることもできないような悲しみを含んでいます。そうするといよいよ、悲しむ者がなぜ幸いなのか、それをどうやって慰めるというのかという疑問が深まってくるような気がいたします。
 
    イエスさまは悲しみを知っていたか
 
 そうすると、「イエスさまは本当の悲しみを知らないから、このような悠長なことを言われたのだ」と考える人もいるのではないでしょうか。イエスさまは私たち人間が遭遇する悲しみ、大きな悲しみというものをご存じなかったのでしょうか?
 しかし聖書を見ると、決してそんなことはなかったことが分かります。まずイエスさまの生い立ちです。すでに学びましたように、イエスさまは、ご両親であるマリヤとヨセフ夫婦の旅先の家畜小屋でお生まれになりました。そしてまもなく、時の権力者であったヘロデ王が、キリストを殺すために軍隊をつかわして、ベツレヘム付近の2歳以下の男の赤ちゃんを皆殺しにしました。ベツレヘムの町は「激しく嘆き悲しむ声」におおわれたのでした。幼な子イエスさまは、両親に抱えられて、からくもエジプトに逃げていきました。‥‥このようにまず、イエスさまはすでに生まれたばかりのころから、悲しみの渦巻く中に置かれたのです。
 そして、イエスさまはその後ナザレの村で庶民の両親に育てられ、世に出られるまでごく平凡な庶民として歩まれました。ローマ帝国の占領地で、重税に苦しむ人々の一員として生きられました。そしてこの時には、すでに父親のヨセフを亡くしていると考えられています。そのように肉親の死という悲しみを経験されていました。
 これらのことから分かることは、当時のふつうの庶民として生きてこられたイエスさまは、ふつうの人たちが出会う悲しみというものは経験してこられたし、また目の当たりにされてこられたということです。
 そしてさらに、イエスさまのもとに集まってきた群衆は、悲しみの中にあった人々が多かったのでした。「悪霊にとりつかれている」と後ろ指を指されていた人、不治の病に冒されている人、体が不自由で差別を受けてきた人‥‥。それらの人々が負ってきた悲しみを主イエスはよく見てこられたのです。そしてそれらの人々の苦しみ、悲しみを受け止められました。
 さらに、イエスさまはこのあとも大きな悲しみに向かって歩んで行かれる。十字架です。イエスさまが、苦しまれないで十字架にかかられたのではないことは、みなさんよくご存じの通りです。その十字架の前の晩、逮捕される直前、イエスさまは弟子たちを連れてゲッセマネと呼ばれる園に行かれました。そしてこう言われたのです、(マタイ26:38)『そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」』‥‥イエスさまは、死ぬほどの悲しみを味わわれるのです。そして十字架へと向かわれる。
 ですから、私たちはある意味では、イエスさまは最もよく悲しみをご存じであると言わなければなりません。 そのように、悲しみというものをよく知っておられ、そして、この後も十字架という大きな悲しみへと向かっていくイエスさまが言われるのです。「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」と。
 
    主の慰め
 
 ではその慰めとはどういう慰めか。人間の慰めか? そうではありません。神さまの慰めです。
 本日読みました旧約聖書は、創世記21章17節の言葉です。それは、神さまがハガルという女性におかけになった言葉です。ハガルというのは、イスラエルの先祖であるアブラハムの妻サラの女奴隷です。アブラハムとサラの間には子どもが生まれませんでした。神さまは、二人の間に子どもが生まれることを約束なさっていた。しかしなかなか生まれない。それで神さまの約束を待ちきれなくなったアブラハムの妻サラは、自分の女奴隷ハガルによってアブラハムの子どもを産ませることにしたのです。そうして生まれたのがイシュマエルです。その後、神さまの約束通りサラにも子どもが生まれた。それがイサクです。ところが、そのあと、サラはハガルとイシュマエルを追い出すんです。サラにとっては、夫の子どもを生んだハガルとその子イシュマエルが煙たくなったんですね。それで追い出す。これはハガルにとってはひどい話しです。自分の主人であるサラによって、サラの夫アブラハムの子どもを生ませられたのに、生まれると今度は自分たちをいじめて追い出す。たまったものではありません。
 ハガルは息子イシュマエルを連れて去って行きました。途中、荒れ野をさまよい、ついに革袋の水がなくなりました。あとは死を待つだけです。そうしますと子どものイシュマエルが声を上げて泣きました。こんなひどいことがあるかと思うような目に遭っているハガルとイシュマエル。荒れ野の中ですから、誰も助ける者もいない。哀れ、二人は死ぬばかりかと思われたそのときに、神がハガルに声をおかけになったのが、先ほど読んだ箇所です。主はそのときこのようにハガルに声をかけられました。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」
 そうして神はハガルの前に井戸を見つけさせてくださった。二人はそれをのんで生き延び、進んでいくことができました。そして実際に、イシュマエルには多くの子孫が与えられ、国民となる。
 そのように、神さまは、誰もいないところにおいても、誰も助ける者も慰める者もいないところにおいても、出会ってくださる。そして慰めを与えてくださる。そして実際に助けを与えてくださるんです。それはたしかに幸いなことです。
 
    キリストが負ってくださる
 
 さらに、私たちにとって最大の悲しみは、愛する者の死ということでしょう。そしてこれは誰もが避けることのできない悲しみであると言えます。私たちは、愛する者の死、肉親の死というものを前にして全く無力です。死というものの力を見せつけられるような思いがいたします。それは絶対の壁として私たちの前に立ち塞がります。私たちはそれを前にして、涙を流して泣くことしかできません。
 イエスさまが十字架にかかられて死なれ、墓に葬られたとき、イエスさまを信じていた人たちはどれほどのショックと悲しみの中に置かれたことでしょうか。イエスさまが墓に葬られて三日目の朝、マグダラのマリアなど婦人の弟子たちはイエスさまの葬られた墓に急いで行きました。ところが墓に着いてみると、墓石はどけられており、イエスさまの遺体が見当たらない。誰かが持ち去ったのか、故人が地上で生きていた痕跡である遺体すら無くなってしまった。それでマグダラのマリアは、墓の外に立って泣いていました。たいへん悲しんだのです。そういうマリアに対して、声をかけた人がいました。「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか。」‥‥それは復活されたイエスさまでした。こうして、死という悲しみが、イエスさまの復活という喜びへと大転換させられました。それは単なる言葉だけの慰めではない。慰めと言ってこれ以上の慰めはありません。よみがえられたのです。最終的な敵である死が、キリストにおいてうち破られたのです。
 そのイエスさまが言われた言葉が、今日の聖書の言葉です。「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」
 すなわち、イエスさまが十字架において私たちの罪を担ってくださり、死んでくださった。私たちの罪を担ってくださったんです。そのイエスさまが、命をかけておっしゃっておられるのが今日の言葉です。
 もうずいぶん前のことになりますが、マザー・テレサがニューヨークにいたとき、マザーたちの修道会の施設にいる一人の若いエイズ患者がマザーを呼び止めたそうです。そしてその青年が言ったそうです。 「あなたは私の友達だから打ち明けるのですが、頭痛がしてたまらない時(エイズの特徴の一つはひどい頭痛だそうです)、私は、茨の冠をかぶせられた時のイエスさまの苦しみを思うのです。痛みが背中に移動した時には、兵士たちがむち打った時のイエスさまの痛み、そして私の手に痛みが走るときには、十字架に釘付けられた時のイエスさまの痛みを思うことにしています。」 彼は自分が治る見込みがないことを知っていたそうです。そしてそれを勇気を持って受け入れていたと、マザーは言っています。そしてその勇気を、彼は、自分の苦しみをイエスさまと分かち合う愛において見出した、と。彼の顔には苦しみとか不安の影はなく、むしろ、大きな平安と深い喜びが漂っていた、と。
 体の痛み、そして迫ってくる死。そこには本来ならば絶望があり、非常な悲しみがあるはずです。しかしその時、イエスさまの苦しみを思うという。深い悲しみの中で父なる神に向かって祈られた主イエス・キリスト、そして、捕らえられ、あざけりを受け、ムチで打たれ、十字架の木に釘で打ち付けられ、苦しみを受けられた。そうして死なれた。 この私たちの主イエス・キリストは、間違いなく、私たちの苦しみ・悲しみを担われたんです。
 私たち自身が非常な悲しみに遭い苦しみを味わう時、マザー・テレサの会った青年が言ったように、キリストの悲しみ、苦しみを、私たちも分かち合わせていただいていると言えます。それゆえ苦しみは、神から見捨てられた証拠ではありません。むしろ、キリストがその十字架の苦しみを、この罪深い私たちにも分かち合うことをゆるしてくださっていると見ることもできるのです。そこに苦しみも喜びへと変えられていく道があります。そして実際に、イエスさまによって苦しみは喜びへと変えられていく。神の奇跡に出会う喜びです。
 大きな悲しみに会う、その時確かに、十字架の主イエスが私たちのために十字架にかかられていることが分かってまいります。そこに本当の慰めがあります。だから「幸いである」と言えるのです。


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