2018年9月2日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ヨブ記42章6節
    マタイによる福音書 5章 1〜3節
●説教 「心の貧しい者とキリスト」

 
    珠玉の言葉
 
 「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」(5章3節)
 ついにこの言葉をこの礼拝でご一緒に読む時が来たという思いであります。これはキリストの福音というものを、一言で言い表しているみことばです。珠玉の言葉と言って良いでしょう。私にとっては、この言葉があるから前に向かって生きて行くことができるとさえ言えるものです。このみことばを拝読するたびに、魂の癒やしと、心からの平安と静かな喜びによって覆われてくるのが分かります。
 イエスさまが語られた尊い御言葉。私はこの御言葉を説教するこのときに、この言葉の輝きを損なうことがないようにと、神さまに祈りつつご一緒に味わって参りたいと思います。
 
    山上の説教
 
 本日から、「山上の説教」と呼ばれるイエスさまのまとまった教えが記されている箇所に入ります。これはマタイによる福音書の5章から7章に渡って記されています。
 経緯をたどってみますと、イエスさまが世に出られて神の国の福音を宣べ伝えられ始めた。そしてさまざまな病を癒やされ、多くの人々がイエスさまに従って来ました。そしてイエスさまがこの群衆をご覧になって山に登られたということがこの5章の1節に記されています。「山」と申しますと、何か高い山に登られたのかと思われるかも知れませんが、そうではありません。現在、ガリラヤ湖畔のカファルナウムの町があったところの近くを登った所に「山上の垂訓教会」という教会堂が建っていますが、そこがこの場所だとされています。山上の説教は、昔は山上の垂訓と呼ばれたのです。そこは、ガリラヤ湖を眼下に臨む小高い丘です。
 イエスさまが腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄ってきた。そこでイエスさまが口を開かれたとあります。つまり、群衆がイエスさまの後に従って一緒にこの丘に登ってきたが、イエスさまの弟子たちがイエスさまのおそばに来た。そしてイエスさまが語られたということになります。そうするとこの山上の説教は、多くの人々に聞かせる形で弟子たちに向かって語られたということになります。ですから、キリストの信仰について語られつつ、多くの人々に対してもキリストの弟子となるように招かれていると言えるでしょう。
 
    幸いなるかな心の貧しき者
 
 そしてその山上の説教は、「幸いである」という言葉が語られる、八つの福音の言葉から語り始められます。
 そしてその冒頭が、「心の貧しい人々は幸いである」という言葉です。もう少し丁寧にこの3節の言葉について申し上げますと、ギリシャ語の原文ではここは「幸いだ」という言葉から始まっているんです。これは日本語とギリシャ語の語順の違いなのですが、そのあたりの雰囲気をよく出している文語訳聖書の言葉をご参考までに申し上げます。こう訳されています。
 「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。」
 こうすると、ギリシャ語の雰囲気が少し出ています。つまり、「幸いなるかな」という祝福の言葉で山上の説教は始まっているということです。イエスさまは、これらの一連の教えを祝福の言葉として、幸いな言葉として語られているんです。そう宣言して語り始められている。このことはとても大切なことだと思います。イエスさまが祝福の言葉として、今日の箇所から始まる山上の説教全体を語られているということを、ぜひ忘れないで覚えていただきたいんです。これからご一緒に読み進めていくイエスさまの説教。これは祝福の教えであるということです。このことにいつも戻りつつ読み進めていくのがふさわしいんです。
 さて、そうすると今日の教えは、その最初の言葉になるわけですが、そうするとこれはたいへん不思議な言葉に読めるのではないでしょうか。つまり「なぜ心の貧しい者が幸いか?」と疑問に思われるのではないでしょうか。
 ふつう世間では、心が貧しいということは幸いであるどころか、全く逆に、不幸なことであると考えられているからです。むしろ、お金がなくて貧しかったとしても、心までは貧しくない。そうありたいと願い、それが美しい生き方であるとされます。これが逆に、たとえば誰かから「あなたは心が貧しい人ですね」と言われたとしたらどうでしょう。おそらく誰もが腹を立てることでしょう。それは最大限の侮辱の言葉です。そのように、心が貧しいということは、もっともいやしいことであり、忌み嫌われることに違いありません。
 ですから、イエスさまがこの山上の説教の冒頭で、「心の貧しい人々は幸いである」とおっしゃったとき、それは何かの間違いではないかと思うのがふつうだと言えるでしょう。かくいう私も、キリスト信徒となったあともしばらくの間は、この言葉がよく理解できませんでした。
 
    他人事か
 
 そこで考えてみたいのは、「心の貧しい人」と言われて、誰のことを思い浮かべるか?ということです。皆さんは、「心の貧しい人」と言われたとき、誰のことを思い浮かべるでしょうか?‥‥「あの人」というふうに、自分の嫌いな人のことを思い浮かべるでしょうか? そしてそんな人でもイエスさまは救ってくださるということだな、と思われるでしょうか。ご参考までに、イエスさまの言葉に次のような言葉があります。
 (マルコ2:17)「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
 これは、イエスさまがみんなから嫌われている徴税人や罪人と呼ばれる人たちと一緒に食事をなさっていることについて、厳格な宗教家であるファリサイ派や律法学者が非難したときに、イエスさまがお答えになった言葉です。そうすると、「ああ、イエスさまはあわれみ深い方だから、そんな心の貧しい人でも救ってくださるんだなあ」と感心することとなる。イエスさまが憐れみ深い方だから、自分の軽蔑する人、嫌いな人、そういう心の貧しい人でも救ってくださるのだと思う。しかし、そうだとしても「心の貧しい人が幸いである」というのは言い過ぎではないかと思われる。幸いとまでは言えないだろうと。それは納得できない。仕方なく救うのなら分かるけれども、幸いであるというのは言葉が過ぎるのではないかと思われる。‥‥多くの人が思うのは、そんなところではないでしょうか。かくいう私もそう思っていたのです。どうしてもイエスさまの言葉が理解できなかった。
 しかし、この言葉が理解できるようになるポイントがあります。それはこの「心の貧しい人」というのはいったい誰のことか、ということについてです。それが誰か他人のことであると思っているうちは、この言葉が理解できないんです。しかし「心の貧しい人」というのが、ほかの誰のことでもない。この自分のことであると気がついたときに、大転換が起こる。そのとき、雷に打たれたかのように目が開かれます。そして「心の貧しい者というのは、この自分のことであった」と胸を打って告白せざるを得なくなる。すると、そのとき同時に続く言葉が聞こえてくるのです。「天の国はその人たちのものである」と。イエスさまの言葉が。そして、天国が垣間見えるように思われるのです。他の何にも代えがたい平安が訪れます。
 
    悪人正機
 
 私自身、全く心の貧しい者でありまして、それはどう心が貧しいかというと、自分が心の貧しい者であることすらなかなか分からないほど、心の貧しい者であります。それがイエスさまのあわれみによって、少しずつ分かるようにしていただいたに過ぎません。そして、あるとき、さらに目が開かれるという経験をいたしました。それはなんと、仏教の浄土真宗を学んだことによってキリストの福音に開眼するという経験でした。それほど私の心は鈍かったのです。
 このことは以前もお話ししましたので、聞いたという方もおられることを承知の上でお話しさせていただきます。罪の問題というとキリスト教の専売特許のように考える方もいるのですが、そうではありません。このことを深く考えた人がいました。それが浄土真宗の開祖である日本人、親鸞です。このことを話し出すと長くなりますから結論だけ申し上げます。親鸞の師匠は法然という僧侶で、法然は浄土宗の開祖です。法然も親鸞も「他力本願」による救いに到達しました。他力本願を簡単に言うと、自分自身には救う力はなく、ただ阿弥陀仏の慈悲によって救われるということです。その点で、自分の力によって救われるのではなく、ただキリストのあわれみによって救われるというキリスト教と通じる所があることがお分かりかと思います。そしてさらに、法然も親鸞も罪人の救いを信じます。ただその強調点が異なっているんです。
 罪人の救いについての法然の考え方は、例えば次の言葉に表れていると言えるでしょう。
 「善人なほ生れ難し、いはんや悪人をや」
 それに対して親鸞の救いの考え方は「悪人正機(あくにんしょうき)」と言われます。別の言葉で言えば「悪人優先」ということになります。それは歎異抄にある次の言葉によって代表されます。
 「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
 それぞれの「悪人」というところを「罪人」と言い換えれば、キリスト教にもつながってきます。そして、この両者を比べてみると分かってきます。法然のほうは否定の言葉で語られ、親鸞のほうは肯定の言葉で語られているのでわかりにくいかも知れませんが、わかりやすく言えば、法然の言っていることは「悪人でも救われるのだから、ましてや善人でも救われる」ということになります。そしてこちらの方が、多くの人々にふつうに受け入れられる言い方であると思います。もしかしたらクリスチャンでも、そのように考えておられる方がいるかも知れません。というよりも、私も昔はそのように考えていたのです。イエスさまは罪人でも救ってくださるのだから、ましてや良い人は救ってくださると。
 それに対して親鸞のほうは、「善人でさえも救われるのだから、ましてや悪人は救われる」ということです。これはふつうの考え方の逆です。常識をひっくり返している。たしかに、法然も親鸞も、ともに悪人、つまり罪人が救われるという点では同じかも知れない。しかし強調点が違うのです。「善人でさえも救われるのだから、ましてや悪人は救われる」と言ったほうが、悪人つまり罪人にとっては、はるかにありがたい。すなわち、悪人正機は「自分が罪人であることに気づけ」と言っているのです。そして自分がこの悪人、罪人であることに気がついたとき、はじめてその救いのありがたさに目が開かれることになります。
 
    イエス・キリストによる救い
 
 そうしてあらためてイエスさまの言葉を見てみましょう。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」
 心の貧しい人というのは、罪人のことを指し、悪人のことであり、それはすなわち自分のことであると気がついたとき、「天の国はその人たちのものである」というお言葉が、わたしに語られたありがたいお言葉として心に響いてまいります。
 使徒パウロの次の言葉を思い出します。(テモテへの手紙一1:15)「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」
 使徒パウロは、自分は最もひどい罪人だと言っています。言い換えれば、最も心の貧しい者だということです。自分が最もひどい罪人であり、最も心の貧しい者だと気がついたとき、その自分に対して「天の国はその人たちのものである」という言葉が、心に聞こえてくる。
 親鸞は非常に尊い救いの境地を見出しました。しかしその本尊である阿弥陀如来は実在するとは言い難い。それに対して、イエスさまという方は、たしかにこの地上に来られた方です。そしてまさにその罪人、悪人、心の貧しい者を救うということを実行するために十字架にかかられた方です。すなわち、イエス・キリストという方によって、罪人の救い、すなわち私の救いが実現するに至ったのです。
 この私というどうしようもなく心の貧しい者が、イエスさまによって救われる。「天の国はあなたのものである」とおっしゃってくださる。そのとき天国が垣間見える思いがいたします。そしてこの方に従って行きたいと思うのです。


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