2018年8月5日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書6章8節
    マタイによる福音書4章18〜22節
●説教 「召命」

 
    召命
 
 本日は「召命」という説教題を付けました。召命というのは命を召すと書きます。これはキリスト教用語です。神さまが、ある使命のためにその人を招く、召し出すことを言います。きょうは、4人の漁師たちがイエスさまから召命を受けたところです。
 いよいよイエスさまが世に出られて、人々に教えを語り始められました。そのことを前回のところで読みました。そして今日のところを読むと、この4人の漁師さんたちは、初めて登場しますので、初めてイエスさまに会ったかと思う方もおられると思いますが、実はそうではありません。ヨハネによる福音書のほうを読むと、このときよりも前に、イエスさまを知っていたんです。その中のアンデレと、おそらくはヨハネと思われる人の二人は、洗礼者ヨハネの弟子でした。そして先生であるヨハネがイエスさまのことを指して「見よ、神の小羊だ」と言ったので、イエスさまの弟子となりました。そしてアンデレの兄弟であるシモン・ペトロもそのときイエスさまの弟子となった。したがいまして、この4人の漁師さんのうち、少なくとも3人はイエスさまをすでに知っていただけではなく、イエスさまの弟子となっていたんです。
 そうしますと、きょうの聖書箇所の見出しに書いてある「4人の漁師を弟子にする」という見出しは正しくないことになります。そもそもこのゴシック体で書かれている見出しは、聖書の原文にはないものです。この日本語の聖書を翻訳した人が、付けたものです。そしてこの見出しは正しくない。
 じゃあ今日の聖書箇所は、何が書かれているのかということになりますが、それがイエスさまの言葉を聞きますと分かります。イエスさまはここで彼らに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」とおっしゃいました。「弟子にしよう」と言われたのではなく「人間をとる漁師にしよう」と言われた。彼らが魚を捕る漁師であったので、それにひっかけて「人間をとる漁師に」と言われたイエスさまのユーモアをここに感じるのですが、つまりこれは彼らに伝道者とすると言って招かれた言葉です。それまでもイエスさまのことを知っており、イエスさまの弟子となっていた。しかし今日の箇所では、さらに一歩進めて、伝道者となるように招かれたのです。そのことがここに書かれているのです。これは仏教流に言えば、在家信者に出家を促しているということになるでしょう。
 また、同じ出来事についてルカによる福音書も第5章で書いていますが、そちらはこのときのいきさつがもう少し詳しく書かれています。ルカによる福音書のほうでは、イエスさまがシモン・ペトロの舟に乗って岸から少しこぎ出すように頼み、その舟の上から岸辺に集まった群衆に向かって教えを語られます。それが終わると、イエスさまはシモン・ペトロに舟を沖に漕ぎ出して網を下ろして漁をするようにお命じになります。実はペトロたちは、一晩中湖で漁をしても魚一匹とれなかったのですが、イエスさまのお言葉だからと沖に舟を出して網を下ろす。すると予想外の大漁となります。それでペトロたちが恐れおののく。そしてイエスさまが、「恐れることはない。今からのち、あなたは人間をとる漁師となる」と続きます。そして彼らがすべてを捨ててイエスさまに従う。‥‥そのようにルカによる福音書では、そのいきさつが詳しく書かれています。
 ところがマタイによる福音書のほうは、それらをすべて省いています。まるでそのようないきさつはどうでもよいと言わんばかりです。そして私たち読者の注意を、ただ一点に向けさせている。それが19節のイエスさまの言葉です。「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」。そしてそのイエスさまの招きの言葉に対して、二人がすぐに網を捨ててイエスさまに従ったこと。そこにすべての焦点を合わせています。それはそのあとの二人、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟に対しても同じです。
 そのように、マタイによる福音書では、彼らの過去のいきさつであるとか、どういう出来事があったとか、そういうことをすべて省略している。それはまるで、私たちがどういう人生を歩んできたかとか、どういう過去を負っているかとか、どういう人物であるかとか、そういうことはイエスさまにとって何の問題にもならない。今、イエスさまの招きに対して従うかどうか。と言っているかのようです。
 彼らはイエスさまの招きを聞いて、すぐに従いました。イエスさまと共に歩む日々が始まったのです。
 
    自分は関係ない?
 
 この出来事は、正確に言えば、伝道者となるための招きの出来事であると申し上げました。聞いている皆様は、ならば自分には関係ないことだと思われるかも知れません。しかし、伝道者となるための主の招きは、年齢にはあまり関係ありません。
 出エジプト記では、あのモーセは80歳の時に、イスラエルの民をエジプトから救い出すための召命を受けました。そしてすべてを捨てて従って行きました。
 先日、東京神学大学学長の大住先生をお招きして特別伝道礼拝を持ちました。そして礼拝後の講演会で、大住先生は最近の東神大の卒業生の例として、76歳の人が伝道者として任地に向かったことを紹介されました。
 さらに言うならば、今日の聖書は伝道者としての召命を受けることだけを言っているのではありません。
 
    出家者でない人は関係ない?
 
 よく、日本のキリスト者は人口の約1%しかいないと言われます。しかしこれは洗礼を受けた人の数です。ところが、日本人に「もし自由に宗教をどれか選ぶとしたらどの宗教を選ぶか?」とアンケートを採ると「キリスト教」と答える人が一番多いというデータもあるそうです。また他のデータでは、教会の礼拝に通っていないけれども、自分はキリスト教だと思っている人を含めると、日本人の約6%になるというものもあるようです。6%というと少ない数字に見えますが、無宗教という人が多い日本人から見ますとこれはけっこう多い数字です。1%の6倍ですから、単純に考えると、この教会員も6倍になるようなものです。
 そうすると、自分はキリスト教だと思う人がすべて教会につながっているのではない。もっと言うと、教会に来ている人は、イエスさまの招きに応えた人だと言うことができます。本当のところを言えば、イエスさまはすべての人をキリストの体なる教会に招いておられる。しかしその招き、それは自分が気がついているかいないかも含めて、その招きに応えた人が教会に来ているのだということだと思います。
 昨年は宗教改革500周年で、日本キリスト教団ではさまざまなイベントが組まれました。宗教改革によってプロテスタント教会が誕生したわけですが、それはドイツのマルティン・ルターから始まっています。ルターの宗教改革の合い言葉は、「聖書のみ」「信仰のみ」「恵みのみ」という「のみのみ」といわれることと、もう一つは「万人祭司」です。「万人祭司」という言い方は誤解があるということで、最近は「全信徒祭司」と言われます。すべてのキリスト信徒は祭司であるということです。祭司というのは、キリストと人間の間を執り成す職務のことです。すなわち、牧師や神父だけではなく、すべての信徒が人々とキリストの間を執り成す祭司であるということです。
 夏になると、私が神学生の時に夏期伝道実習に行った時のことを思い出します。私は高知県の香長伝道圏という、七つの教会の伝道圏に遣わされました。その中の、南国市の海沿いの集落にある土佐嶺南教会でのことです。教会が建つその集落は人口が4千人の集落でした。そして土佐嶺南教会には40名ほどの人が集っていました。4千人の人口のところに40人の人が集う教会というのはなかなかのものですが、当時のその教会の牧師である楢本先生は、こういうことをおっしゃいました。「教会に来る人は40人だけれども、その40人は、それぞれが家族や近所の人や友達などが救われるように祈りに覚えて教会に集っている。つまりその祈りに覚えいている人々の代表として来ている。だから目には見えないけれども、その祈りに覚えている人を加えれば、この礼拝は何百人もの礼拝なのだ」と。
 自分が祈りに覚えいている人が何人いるでしょうか。それらの人々が救われるように祈るために、イエスさまは私たちをこの礼拝に召し集めてくださった。そう考えると、今日の召命の出来事は、決して伝道者となる人への召命に限らないと言えるでしょう。
 
    捨てる信仰
 
 さて、そのようにイエスさまが招いておられるということと、もう一つは招かれたこの漁師さんたちが、網や船をそこに置いて直ちにイエスさまに従って行ったことに注目したいと思います。
 ペトロとアンデレはイエスさまに招かれたとき、網を捨てて従ったと書かれている。また、ヤコブとヨハネは舟と父親をそこに残してイエスさまに従ったと書かれています。舟や網は漁師の商売道具です。それを置いて行ってしまったら、これからどうやって収入を得るのでしょうか?どうやって生活をしていくのか? ヤコブとヨハネはお父さんをそこに置いていきましたが、お父さんにしてみれば、息子たちが寮を手伝ってくれなくなったら困るんじゃないか?‥‥そういうさまざまな心配が思い浮かびます。
 しかしここでは、彼らはすぐにイエスさまに従っています。すべて神さまにお任せしているようです。イエスさまがお招きになったのだから、イエスさまが助けてくださる。そのようにしてイエスさまにお任せしています。
 
    主がお入り用なのです
 
 この最初の4人は、どういう人たちだったでしょうか? 分かることは、彼らは漁師たちだったということですが、それはふつうの職業でした。ふつうの庶民です。言い換えれば無名の人たちです。また、とくに立派な人というわけでもありませんでした。そのことは聖書を読んでいくと分かります。また、何か特別な才能があるという人でもありませんでした。全くふつうの人たちです。これも意外なことではないでしょうか。イエスさまが、これから世の中の人々に神の国の福音を宣べ伝えて行かれるという、この大事業を前に、イエスさまが声をかけた人たちというのは、全くふつうの人たちだったのです。
 私たちが何か大事業を始めようとするとしたら、どういう人材を求めるでしょうか。能力のある人、努力を惜しまない人、誠実な人‥‥等々、役に立つよい人材を集めようとするでしょう。しかし、イエスさまにはそのようなことは関心がないようです。イエスさまにとっては、ただ招きに応えて従ってくること。そこにだけ関心があるようです。それはまさに最初にも申し上げましたが、マタイによる福音書が、この4人が以前からイエスさまを知っていたかどうかなど関心がなく、またイエスさまの招きの言葉の前にどういう出来事があったかも関心がなく、さらにこの人たちがどんな人たちであるのかも問題ではなく、ただイエスさまの招きに応答することのみに焦点を合わせているんです。
 そして私たちにはその理由は分かりませんが、イエスさまにはこの人たちを招く理由があった。必要とされたのです。同じように、私たちが教会に招かれたのも、私たちには理由が分かりませんが、イエスさまには理由があった。すなわち、イエスさまはこの私たちを必要とされているということです。弱く、頼りなく、何か特別な人というわけでもないこの私たちを、です。この私のような者でも、イエスさまは必要となさり、ご用のために用いられるということです。
 
    人間をとる漁師にしよう
 
 そして、イエスさまはおっしゃいました。「人間をとる漁師にしよう」。ここで注意したいことは、イエスさまはこの人たちに対して、「人間をとる漁師になりなさい」と言われたのではないということです。「人間をとる漁師にしよう」。正確に訳すと、「わたしが、あなたがたを『人間をとる漁師』にする」と約束されたのです。
 この私が?‥‥そうです。いったいどうやって?‥‥それは分かりません。とにかく、イエスさまが、そうすると約束なさった。それですべてをイエスさまにお任せして従って行く。イエスさまがこの私を、こともあろうにこの私を必要とされている。それで何もかもイエスさまにお任せして従って行く。そういう喜びをこの4人に感じることができます。


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