2018年7月29日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 マタイによる福音書4章12〜17
    イザヤ書60章1〜2
●説教 「近づく天国」

 
    第一声
 
 「悔い改めよ。天の国は近づいた。」これがイエスさまの宣教の第一声でした。いよいよ、イエスさまが人々の前に出られ、天の国の福音を宣べ伝え始められたのです。
 「悔い改めよ。天の国は近づいた」。この言葉は、洗礼者ヨハネが宣べ伝えた言葉と同じです。そしてイエスさまは、そのヨハネが捕らえられたことによって宣べ伝え始められました。このことは、イエスさまがヨハネの始めたことを引き継がれたということを示しています。ヨハネは、領主であるヘロデの怒りに触れて捕らえられました。そうしてヨハネは牢獄へ閉じ込められた。そのヨハネに代わって、同じ言葉によって宣べ伝え始められた。それはヨハネの始めたことを引き継がれたということでもありますが、もっと言えば、ヨハネが預言をしたことが、イエスさまによって実現するということでもあります。
 
    なぜガリラヤか?
 
 さて、洗礼者ヨハネが領主によって捕らえられたあと、イエスさまは「ガリラヤに退かれた」と書かれています。退くというと、なにか逃げていったかのように感じられますが、実はそうではありません。ここで言う「退く」という言葉は、引っ込んだということではないんです。退いたというのは、ユダヤ人の都であるエルサレムから見て退いたということです。つまり、中央ではなく、地方から、辺境の地から働きを始められたということです。それがガリラヤ地方だったんです。
 それにしてもなぜイエスさまは、ガリラヤ地方から働きを始められたのでしょうか? 政治家の中に、選挙の時、必ず選挙運動の第一声を田舎の町から始めるという人がいます。そしてその人は選挙に強い人です。必ず当選する。すると、その人には田舎から選挙運動を始めるという理由、必勝の戦略があることになります。
 イエスさまにも、なにか理論や戦略があってガリラヤから始められたということなのでしょうか? しかしそうではありません。聖書はこう書いています。「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」と。聖書の預言が実現するためだった。預言は神の言葉です。すなわち、イエスさまは何か人間的な計算があってガリラヤから始められたというのではない。神の言葉に従った結果だというのです。神の言葉への圧倒的な信頼がそこにも見えます。
 ではなぜ神は、イエスさまがガリラヤにおいて神の国の福音を宣べ伝えるように導かれたのか。それは15〜16節に引用されたイザヤの預言の言葉に表れています。この言葉は、旧約聖書イザヤ書8:23〜9:1の言葉です。この言葉の背景には、ゼブルンとナフタリの地と呼ばれるガリラヤ地方の悲しい歴史があります。ゼブルンとかナフタリという名前は、かつてのイスラエルの12部族のうちの名前です。ゼブルンの部族とナフタリの部族がそこに住んだから、ガリラヤ地方がゼブルンとナフタリの地と呼ばれているんです。そこに悲しい歴史があった。
 それはこのイエスさまの時代よりも、さらに750年ほど昔にさかのぼるのですが、イスラエル王国が、アッシリア帝国という国に滅ぼされたという歴史があります。アッシリアは、当時南北に分かれていたイスラエル人の国家のうち北のイスラエル王国を滅ぼしました。国は蹂躙され、多くの人が虐殺されました。そして役に立ちそうな人々は、外国へと連れて行かれました。イスラエル人の北半分が散り散りにされたのです。代わりに、外国から異民族がこの地に代わりに来て、住むようになりました。すなわち、サマリアと同じようになったのです。15節で「異邦人のガリラヤ」と呼ばれているのはそのためです。16節の「暗闇に住む民」「死の陰の地に住む者」という言葉は、そのようなつらい悲しい歴史があるのです。
 しかし、そこに書かれているように、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」。その預言が、イエスさまによって成就した、本当にそうなったと言っているのです。絶望とあきらめと、まさに暗闇の中に住んでいるような人々が、大きな光を見た、光が射し込んだ、それはイエスさまによって本当となったと。イエスさまは、その暗闇の中から始められたというんです。死の陰の地に住む人々のところから始められたと言うのです。
 私たちがもし暗闇に住んでいるとしたら、そこにイエスさまによって光が射し込む。そういう約束でもあります。
 
    預言の成就
 
 ここまでマタイによる福音書を読んできて、常に旧約聖書が引用されていることにお気づきではないでしょうか。
 マタイによる福音書の冒頭、1章1節からそれは始まっています。その昔、主なる神がアブラハムに約束されたことが、イエスさまによって成就したということを記すことから、この福音書は始まりました。そして続く、イエスさまの地上の父となったヨセフに対する天使の告知。ここでもインマヌエルという預言が、イエスさまの誕生によって成就するためであったと書かれていました。さらには、イエスさまが誕生したとき、東の国から博士たちがやってきましたが、そのとき救い主が生まれる場所として、エルサレムの祭司長や聖書学者たちが「ベツレヘム」であると答えたのも旧約聖書の預言の引用でした。続いて、ヘロデ王の手を逃れてイエスさまを抱いたヨセフとマリアをエジプトに避難させたことも、ヘロデがベツレヘムとその付近の2歳以下の幼児を虐殺するということも、旧約聖書の予言であったと書かれていました。さらに、エジプトから帰ってきたイエスさまの家族がガリラヤのナザレに住んだことも、洗礼者ヨハネが現れたことも旧約聖書の預言であったこと、またイエスさまが荒れ野で悪魔の誘惑を受けられたときにも聖書の言葉をイエスさまは引用なさいました。そしてきょうの箇所です。
 そのように、ここまでマタイによる福音書を読んできて、この短い間に、旧約聖書の預言や言葉が逐一引用されています。この福音書を書いたマタイは、このようにして、旧約聖書に記された御言葉が真実であることをかなり強調して書いていることが分かります。神の約束は真実であったと。予言はたしかにイエスさまによって成就したと。そういうことを、静かにではありますが、何か興奮気味に、しかしきちんと書いているという印象です。その中には幼児が虐殺されるという悲惨なこともありましたが、イエスさまはそういうことも含めて、人間の罪の中に、暗闇の中に飛び込んで来られ、神の救いを宣言される。その事実が浮かび上がってまいります。
 
    第一声
 
 さて、そうしてまたイエスさまの宣教の第一声に戻ります。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」
 政治家の選挙運動の街頭演説の第一声は、マスコミも注目いたします。そして第一声には、自分がいちばん言いたいことを言うでしょう。そんなことを考えると、このイエスさまの第一声はどうか。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」
 今、試しに同じ言葉をもって人々に語りかけていったらどうでしょう? どういう反応が予想されるでしょうか?‥‥おそらく、「この人は何を馬鹿なことを言っているのか?」「なぜ悔い改めないといけないのか?」「何か、おかしなことを言う人だ」と思うのではないでしょうか。そして多くの人は耳を傾けることはないでしょう。そう思うのは、かつての自分がそうだったからです。悔い改めるべきなのは、自分ではなく、周りの人たちなのであり、この社会の人々である。そう思うのではないでしょうか。自分は悔い改める必要などない。あの人こそ悔い改めるべきだ‥‥そんなふうに思うのではないでしょうか。
 しかしこのイエスさまの言葉は、詳しく訳すと「あなたがたは悔い改めなさい」ということになります。その「あなたがたは」というのは、このわたしたちひとりひとりを指しておられるわけです。つまり、まずこの言葉を聞いたあなたが悔い改めなさい、ということになります。そうすると他人事ではない話になります。
 
     悔い改める
 
 さて、「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉について、もう少し考えてみます。この言葉は正確に訳すと、「悔い改めなさい。なぜなら、天の国は近づいたからだ」となります。つまり「天の国が近づいたから、悔い改めなさい」と、悔い改める理由が述べられているんです。
 まず「悔い改めよ」という言葉から見てみますが、悔い改めというと、どんなイメージを持たれるでしょうか。おそらく多くの人は、「反省する」とか「反省してもう一度がんばる」というような意味に受け取るのではないでしょうか。それは決して間違った意味ではありませんが、それだけですとそこには神さまがありませんし、また「がんばる」というのではありません。
 「悔い改める」というギリシャ語には、「心を変える」「考えを変える」、「回心する」、「立ち帰る」という意味があります。そして聖書で悔い改めるといった場合は、神さまに立ち帰るという意味になります。
 いずれにしても、「悔い改めよ」と言われた場合、それは今のままではダメだと気がつくという点では共通しています。今のままの自分ではダメだと気がつく。しかし「別に今のままの自分でよい」と思っている人は耳を傾けないでしょう。ですから、「悔い改めよ」という言葉は、まことに人々の受けが悪いかも知れない。もっと人々に耳障りのよい言葉はなかったのか、受けのよい言葉はなかったのか、などと思ったりします。しかし主イエスさまがこのように言われたということは、人々が聞こうが聞くまいが、真実を語るという意思を感じます。そして今気がつかなくても、悔い改める必要があることに気がつくように願っておられるということが伝わってきます。
 
    天の国は近づいた
 
 そして、なぜ悔い改めなさいと言うかというと、それは「天の国が近づいたからだ」と理由が語られます。天の国は、神の国とも言います。ルカによる福音書では神の国と言われていました。マタイによる福音書ではおもに天の国と言われています。天の国が近づいた。
 これは洗礼者ヨハネが語ったときも申し上げましたが、不思議な言い方です。私たちのほうから天の国に近づくというのではありません。ふつうは、私たちが精進努力して、天の国、神さまのほうへ近づいていくと考えるでしょう。しかしここでは、天の国のほうから私たちのほうへ近づいてきたというのです。
 さて、天の国が近づいたというとき、その「近づいた」というのは、距離的に近づいたということにもとれますし、時間的に近づいたという意味にもとれます。距離的に近づいたというのは、台風が近づいたというようなことです。そのように天の国が私たちの近くまでやってきたという意味です。また、時間的に近づいたというのは、秋が近づいたとか、誕生日が近づいたというように、天の国が現れる時が近づいたという意味です。そのように、二つの意味にとれます。
 ただ、天の国が私たちのところにやって来た、距離が近づいたという意味にもとれるのは変だと思われるかも知れません。台風が近づいたとか、あの人が近づいてきたというのなら分かるが、天の国が近づいたというのは変ではないかと思われるでしょう。
 ここで「天の国」という言葉ですが、詳しく日本語に訳すと「天の王国」という言葉です。王国。それは、王様がいるから王国です。王様が支配している国だから王国と呼ばれるわけです。そうすると天の王国の王は誰なのか? これは聖書を読み進めていくと、やがて答えが明らかになりますが、先に答えを言ってしまうと、それはイエスさまのことなのです。もちろん神さまと言ってもよい。そうすると、「天の国が近づいたから」というのは、イエスさまが王として支配される王国が近づいたという意味になります。もっと言えば、イエスさまが近づいたことによって天の国も近づいてきたということです。イエスさまと共に、天の国のほうから私たちの所に近づいてきてくださった。すぐここまで。今私たちが、イエスさまのことばを聞いているのならば、天の国は今ここに来ている。
 だから悔い改めなさい、と言われるのです。それは信じることによって王国に入る世界です。その世界が、今イエスさまと共に来ている。だからそれを信じて、入りなさい。そういう招きの言葉です。私たちは、どこか他を捜さなくてはならないのではない。イエスさまと共に、天の国、神の国のほうから私たちに近づいてきてくださっている。だから、心の向きを変えて、信じなさいと招いておられます。


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