2018年7月15日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編97編1節
    マタイによる福音書 4章 5〜11節
●説教 「究極の二択」



 荒れ野の中で40日間の断食祈祷のあと、イエスさまが悪魔から受けられた誘惑。その誘惑は三つありましたが、きょうは第2、第3の誘惑についてです。
 
     第2の誘惑
 
 悪魔がイエスさまを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根に端に立たせたと書かれています。ここで言う聖なる都とはエルサレムのことです。悪魔は、イエスさまをエルサレムの神殿の屋根の端に立たせた。これが実際にそこに連れて行ったということなのか、それとも幻の中でのことなのか、それは定かではありません。
 悪魔はイエスさまをエルサレムの神殿の屋根の端に立たせて言いました。これも、前回の説教で申し上げたように、悪魔は天使を装うと聖書に書かれていますし、この聖書で日本語に訳されているように悪魔の言葉を訳すと、本当に悪魔だと分かってしまいますから、この前と同じように私なりに悪魔っぽくなく訳してみます。「あなたは神の子なのですから、ここから飛び降りたらどうでしょうか。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書かれていますから。」
 第1の誘惑をイエスさまが聖書の言葉によって退けたわけですが、この第2の誘惑では、今度は悪魔が聖書のことばを引用して誘っています。聖書にそう書いてあるんですから、と。悪魔が引用した聖句は、詩編91編11〜12節の言葉です。
 さて、なぜ悪魔はエルサレムの神殿の屋根に立たせたのかということです。エルサレムの神殿の庭から見ると、屋根の高さは14メートルほどあったそうです。逗子教会の礼拝堂の屋上よりももっと高い。しかし、単に高い場所から飛び降りてみなさいというのなら、例えば断崖絶壁のようなもっと高い場所は他にいくらでもあったはずです。それなのに、なぜエルサレムの神殿の屋根からなのか?
 そうすると、エルサレムの神殿というのは、当時のユダヤにおいて、ただ一つの神殿ですから、神さまを礼拝するために多くの人が集まって来るわけです。その神殿の屋根の端に立って飛び降りるとしたら、大勢の人々の注目を集めることになります。そして飛び降りて、そこに天使がさっと現れて、イエスさまが地面に打ち付けられないように抱えて助け、ふわりと着地すれば、そこにいた多くの人々は、あっ!と驚くことでしょう。そしてイエスさまのことを「間違いなくこの人は神の子だ」ということでしょう。人々は簡単にイエスさまを信じるようになる。
 同じようなことなら他にもいろいろ考えられます。先日、オウム真理教の教祖が死刑に処せられましたが、あの教祖は、空中浮遊という超能力ができるということが売りの一つとなって若者が入信していったと言われていますが、空中を飛んで見せたりするのも効果的かも知れません。そのように、人々を驚かす超常現象をやってのければ、人々は簡単にあなたを信じるようになる。いわばそのような誘いであると言えるでしょう。
 しかしこの悪魔の誘いには問題があります。それは、神さまが飛び降りろとおっしゃらないのに、勝手に屋根から飛び降りるという点です。神さまが天使を送って助けて下さるというのは、いかにも信仰深いことのように思えますが、肝心の神さまの御心を無視しています。
 これは信仰の落とし穴です。本当に信じていれば、神は自分の言うことを聞いてくれるというものです。神を信じてするならば、神は必ず助けて下さるというものです。たとえば、「わたしは神さま、あなたを信じていますから、わたしの始めるビジネスを成功させて下さい」というようなことです。そしてそれが成功しないとなると、「それは信仰が足らないせいだ」という。あるいは、受験生であれば、「神を信じて入試に臨めば、必ず合格する」というものです。そして合格しないと「それは信仰が足らないせいだ」という。
 どこかおかしいんです。どこがおかしいかと言えば、それは自分が主導権を握っている点です。自分が飛び降りてみせるから、神さま、天使を送って助けてくれという。神さまが飛び降りなさいと言わないのに、その神さまに向かって、自分の指示通りにしてくれという。それでは、自分が主人で神さまが僕になってしまいます。それは信仰とは言えません。信仰とは、神さまが主人でありその神さまに信頼して従うことです。
 そもそも悪魔が引用した詩篇91編は、お読みになれば分かるように、神を主人として信頼する詩です。悪魔はその中の一節を都合良く抜き出しているだけです。聖書を自分勝手に都合よく使ってはならないのです。
 
     第3の誘惑
 
 第2の誘惑を退けたイエスさまに対して、最後に悪魔は第3の誘惑の言葉をかけてきます。悪魔は今度は世界の国々とその繁栄ぶりを見せて言いました。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えましょう」。
 世界をあなたに与えるというのです。究極の誘惑であると言えるでしょう。これ以上の魅力的な誘惑があるでしょうか。この世の中を、そしてこの日の人々を、自分の意のままに動かすことができるというのです。ただ一つの条件がある。それは、「ひれ伏してわたしを拝むなら」と。悪魔の前にひれ伏して拝むなら。
 世の救い主として来られたイエスさま。まず悪魔を拝み、そして世界を手に入れてから、世界の人々を意のままに動かして世界を救えば良いではないか‥‥。そんなふうに、私たちは考えたくならないでしょうか。そうすれば、十字架にかかるなどという道は回避できるのです。一見、簡単に世の中を救うことができるように思われる。
 ここに、神だけを拝むのか、それとも悪魔を拝むのかという、究極の二者択一が迫られているのです。イエスさまがどうお答えになるのか?‥‥まさにドキドキするような問いです。
 これは、私たちが直面する問題ではないと言えるでしょうか? 深く考えてみると、私たちもまた似たような誘惑を受けることがあるように思われます。
 もし私たちが、イエスさまが言われたのと全く同じ言葉を悪魔から聞かされたとしたら、喜んで悪魔を拝むのでしょうか? 世界を手に入れることができるんです。悪魔は神を信じない人にはこのようなことは言わないでしょう。「わたしはどうせ神も仏も信じないから、喜んで悪魔を拝みますよ」というような人には、悪魔は決してこのような誘いをかけてこないのです。なぜなら、悪魔の本分は、人間を神を信じることから遠ざけようとすることだからです。だから悪魔は、神を信じようとする人に対してだけ、このような誘いの言葉をかけてくる。実に魅力的な誘惑です。
 しかしここで忘れてはならないことは、悪魔は嘘つきであるということです。悪魔は世界を与えることなどできません。世界の国々は、悪魔のものではないのです。世界は神さまのものです。私たちが先ほど共に唱えました「主の祈り」。その最後は、「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。アーメン」となっていました。国と力と栄えは神さま、あなたのものです、と告白したのです。世界は神のものです。悪魔のものではありません。なのに、悪魔は自分がそれらを与えることができるかのように言っている。そのウソにだまされてはならないのです。
 そして何よりも、悪魔は私たちを愛していません。悪魔は「愛」を信じない存在だからです。しかし神は私たちを愛して下さっている。そのことを信じるのです。愛のないところに喜びも平安もありません。それゆえ私たちは、悪魔ではなく神を礼拝するんです。ただ神さまだけを礼拝するんです。
 
     信仰とは
 
 さて、ここで悪魔の三つの誘惑を振り返ってみましょう。そうすると、石をパンに変えて食べて空腹を満たし、高い所から飛び降りて神に助けてもらい、そして世の中を思い通りに動かす。言い換えれば、すべて自分の思い通りになるということです。悪魔はイエスさまに対して、「あなたは神の子なんだから、あなたの思い通りにするのが当然ではありませんか」と誘っていることになります。
 それに対してイエスさまは、自分の思い通りにするのではなく、父なる神を信頼して従って行くことをお示しになったのです。
 このことは私たちに対しても当てはまることだと言えるでしょう。信仰とは、何でも自分の思ったとおりになることであるという誘惑です。労することなく石をパンに変えて食べ、神さまがお命じにならないのに勝手に高い所から飛び降りて助けてもらい、まわりを自分の思い通りに動かす。‥‥信仰があればそうなるのだという誘惑です。家族も自分の言うことを素直に聞き、会社でも皆自分の思い通りに動く。取引先も自分の願い通りにしてくれる。すべては自分の思い描いたとおりに順調に運んでいく。‥‥信仰があればそのようになるのだと考える。
 しかしそれが信仰なのではない。信仰とは、神を自分の思い通りに働かせることではなく、父なる神を主人として信頼して、神の御心に耳を傾け従って行くことである。そのことを強く教えています。
 
     退け、サタン!
 
 イエスさまは、悪魔の誘惑に対して「退け、サタン」とおっしゃいました。悪魔に対する断固たる決別です。究極の二者択一に対して、迷うまでもなく、悪魔ではなく父なる神を拝み、信頼することを宣言なさったのです。
 そして十字架への道を歩まれることになります。それは困難な道でした。しかし神と共に歩む道でした。そしてそこに、神の奇跡が現れてくるのです。
 もし私たちに不平不満が満ちているとしたら、どこか私たちの信仰に問題があるんです。自分の思い通りにならないから不平不満がある。しかし、私たちの幸福がどこにあるのかということを考えてみなければなりません。私たちの幸福は、すべてわたしたちの思い通りになるところにあるのでしょうか? 聖書は「No!」と言っているんです。
 私たちの思い通りになるところに幸福があるのではなく、父なる神の御心がなるところに幸福がある。それゆえ私たちは、「御国を来たらせたまえ、御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と、日々主の祈りの中で祈り願っているんです。
 父なる神さまが、独り子なるイエスさまを私たちにくださるほどに、私たちを愛して下さっている。その神に信頼して、歩んでいく。そこに神の働きが現れてきます。


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