2018年7月8日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 列王記上17章13〜14節
    マタイによる福音書4章1〜4節
●説教 「悪魔の誘惑」
 



     神の子が受ける誘惑とは?
 
 洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたイエスさま。そのイエスさまは、いよいよ人々の前に出られて、神の国の福音を宣べ伝え始められるかと思ったら、そうではなく、悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれたと書かれています。
 この「霊」というのは聖霊です。神の霊です。すなわち、神は、イエスさまが世に出られる前に、荒れ野へと導かれた。それは悪魔から誘惑を受けるためであったというのです。
 これは、ある意味、驚くべきことだと感じられるのではないでしょうか。なぜなら、「誘惑」というものは、私たち弱い人間が受けるものであって、イエスさまのような方が、もっと言えば神の子が誘惑を受けるなどということがあるはずがないと思われるからです。たとえば、私たち人間にとっては誘惑とは、お酒の誘惑に負けるとか、異性の誘惑に負けるとか、そういうような使い方をすることが多いと思います。もちろん、ここでイエスさまが受けられた誘惑というものが、そういうことではないことは分かります。
 するとここで、「誘惑」という言葉の意味について考えてみなければならないでしょう。誘惑という言葉の意味ですが、広辞苑によりますと次のように説明されています。「人を迷わせて、悪い道にさそいこむこと。相手の心を引きつけて、自分の思いどおりにすること。」
 もちろん、イエスさまが悪の道に誘い込まれるはずもありませんが、悪魔が言葉巧みに語りかけて、自分の思い通りにさせようとする。そういうことを悪魔が仕掛けてくるということはありそうなことです。ここで言うならば、悪の道に誘い込むというよりも、神さまに従うことから外れさせるように誘い込もうとするということになるでしょう。
 そのような誘惑というものがなんであるのか、これは神のみことばに真剣に従おうとした人であるならば、お分かりのことと思います。悪魔というものは、ふだんはのんびり構えているものです。しかし、ひとたび私たちが神の言葉に真剣に従って行こうとすると、起ち上がってきます。そして、私たちの信仰をくじこうとする。そういう経験をいたします。
 
     断食と空腹
 
 イエスさまが導かれた場所は、荒れ野です。荒れ野というのは、砂漠のようなところで、雨もほとんど降らないから草も木もあまり生えていません。人も住んでいません。何もない場所です。そのままでは生きて行くことのできない場所です。
 イエスさまはそこで40日間の断食をなさったと書かれています。断食というのは、もちろん食べ物を食べないということですが、それは何か健康法として断食をなさったのではありません。聖書で断食といったら、それは心を集中して神さまに祈ることを言います。40日間も断食なさったというのは、それほどの祈りであったことを意味しています。何を祈られたかは書かれていないので分かりません。おそらくここでは、世の中に出る前に、神の御心を求めて祈られたのだと思います。
 そうして40日間の断食をされた。40日間の断食というのは人間の限界だそうです。ある信仰雑誌に、モーセやイエスさまに習って、実際に40日間の断食をした人が書いていました。それはもう体力の限界に近いそうです。そしてもっともたいへんだったのは、40日間断食すると、栄養がその間はとられないので、脳にダメージが来るのだそうです。それでその人は、断食が終わってからも、しばらくはまっすぐ歩くことができなかった、というのです。それほど危険なものであることが分かったというのです。 つまりほとんど人間の体力の限界に近いのが、40日間の断食です。イエスさまは、荒涼とした荒れ野で、一人になってその断食をなさったのです。
 するとイエスさまは、空腹を覚えられたと書かれています。お腹が空いた。それは人間であることの証拠です。空腹を感じるというのは、人間が生物であることのしるしです。生き物は食べなければ死んでしまいます。それで私たち人間は、食べていくために日々労苦を重ねているわけです。空腹を覚えられた。それはまさに私たちと全く同じ人間であるのであり、食べるために労苦することを知っておられると言うことができます。40日間食べなかったわけですから、それはもう極限の状態です。
 
     悪魔の誘惑
 
 するとそこに「誘惑する者」がやってきたという。これは悪魔のことです。悪魔を指す言葉は聖書ではサタンとか、いくつか出てきますが、ここでは「ディアボロス」というギリシャ語が使われています。それは、「中傷する者」という意味です。悪く言うんです。神さまのことを悪く言い、人間のことを悪く言う。そうして、人間が父なる神さまに信頼することから引き離そうとする。神を信じないように誘う。それがここの「誘惑する者」です。悪魔というと、なにか黒い姿をして尻尾が生えていて槍を持っているような印象がありますが、それは人間が想像した姿であって、実際にはそうではありません。使徒パウロはコリントの信徒への第二の手紙11:14で、「サタンでさえ光の天使を装う」と書いています。天使を装ってくるというのです。だから、最初はそれが悪魔なのか天使なのかさえも分からない。いかにも親切そうに近づいてくるという。もちろん、姿は見えないけれども、言葉で語りかけてきています。
 この聖書の翻訳では、なにかいかにも悪魔と分かるように日本語に訳されていますが、実際はもっと丁寧に上手に言ったと思うんです。「あなたが神の子ならば、これらの石がパンになるようにお命じになったらいかがですか?」と。ここで驚くことは、悪魔はイエスさまが神の子であると知っている点です。霊界の存在だから、霊の世界のことは分かっているということでしょうか。
 それはともかく、悪魔の言ったことは、もっともなことに思われるのではないでしょうか。人の子であるイエスさまは、40日間の断食をして空腹となり、肉体的限界に直面している。その場所は荒れ野だから、なにもない。しかし石ならゴロゴロしています。そしてイエスさまは神の子であるから、石をパンに変えることぐらいできるでしょう。神の子にはそのような力がある。だったら目の前に転がっている石をパンに変えて食べれば良いじゃないですか‥‥。考えるまでもないように思われます。
 しかしそこには、微妙な問題があります。イエスさまをこの場所に導いた父なる神は、それを望んでおられるのか?ということです。父なる神はどのように考えておられるのか。石をパンに変えればよいという悪魔の誘いは、父なる神の判断を尋ねるまでもなく、神の子として自分の判断でせよということになろうかと思います。
 そしてもしここで、悪魔の言うとおり石をパンに変えて飢えをしのいだとします。すると万事がそのような調子でいくことになるでしょう。「あのとき石をパンに変えたのだから‥‥」と、またお腹が空けば石をパンに変えて食べる。喉が渇いたといって、木や石から水を湧き出させる。新しい服がほしいといって、枯れ葉か何かを服に変えて着る‥‥。それは果たして、私たちと同じ人間になられたということでしょうか? 私たち罪人と同じになられたということでしょうか?
 またご自分のために石をパンに変えられたのであれば、人々のためにも石をパンに変えることに当然なるでしょう。当時は生産性が低く、一般庶民はみな貧しい時代です。そうすると、人々の求めに応じて石をパンに変える。食糧問題の解決です。さらに、衣食住の問題の解決です。人々はもう食べることに心配しなくてもよい。イエスさまが石をパンに変えて下さるからです。‥‥
 すなわち、石をパンに変えるということは、そのように、民衆にパンを与える救い主として歩めということに他なりません。人々に、食べ物を提供し、着る物を提供し、住まいを提供する。どんな政治家よりも、確実にそれらの物を与えることができる。‥‥そうなったとして、それは人間が救われたということなのか? それは神が人間に求めることが達成されることになるのか? それは神を信じるということになるのか?
 
     人はパンだけで生きるものではない
 
 悪魔の提案に対して、イエスさまはお答えになりました。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
 そのように聖書に書いてある、と。「人はパンだけで生きるものではない」というこの言葉は、一般社会でも有名な言葉と言えるでしょう。それは、人間は食べるためだけに生きるのではない、というような意味で使われます。そのような使われ方は、実はちょっと違っているのですが。
 イエスさまは、「と書いてある」と言われました。それは旧約聖書に書いてあります。それは申命記8章3節です。‥‥"主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。"
 申命記のこの言葉は、どのようにして語られたのでしょうか。‥‥昔、イスラエルの人々がやはり荒涼とした荒野で40年間も暮らしたときのことです。食べるものもなく、水もないような荒野で生活したイスラエルの人々に向かって、モーセは、今まで主があなた方を飢え死にしないでもすむようにちゃんと守って下さったではないか、と思い出させるのです。食べるものがない荒野でマナという食べ物を降らせて下さったではないか。岩から水を出して下さり、着物はすり切れず、足ははれなかったではないか、と人々に神の恵みを思い出させているのです。その時モーセはこの言葉を語ったのです。
 「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」‥‥すなわち、神の言葉に従ったとき、神は私たちに必要なものはちゃんと与えて下さる。そのことを教えるためであった、と。まず神の言葉に従うことが第一であると。そうすれば、神は必要な助けを与えて下さる。マナという食べ物を不思議にも与え続けて下さったではないか。ぜいたくはできなかったかも知れないが、生きることができるようにして下さったではないか。そういう、神への深い信頼を求める言葉なのです。まず、神に信頼せよと。
 
     神への信頼
 
 すなわち、イエスさまは、40日間の断食という極限の状態で、石をパンに変えることをなさらず、父なる神にゆだねられた。信頼なさった。それは、この荒れ野に導かれたのが父なる神さまでしたから、自分で先走って石をパンに変えることをなさらず、その神さまにおゆだねになったのです。
 そのことは、すなわち、パン、食べ物、この世の物質的なものを人々に提供する救い主として歩まれるのではないということです。イエスさまは、人間の根本的なところから救う、私たちを根こそぎ救うといいますか、究極の救いのために歩んでいかれるのだということを示しています。それはつまり、私たちひとりひとりを全く救う道を歩まれることをここで選択なさったということでもあります。
 石をパンに変えることをなさらず、私たちを本当の意味で生かし、また必要なものをも与えることのできる神に信頼して生きる道を選ばれた。それは、イエスさまが私たちと共に神に信頼して歩んでいく道を歩まれるということです。そこに救いの道があります。


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