2018年7月1日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ヨナ書3章4〜5節
    マタイによる福音書3章13〜17節
●説教 「第一声」
 



     イエス現る
 
 荒れ野の中、ヨルダン川で人々に洗礼を授けていた洗礼者ヨハネ。彼は「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語っていました。その洗礼者ヨハネのところに、イエスさまが現れます。そしてヨハネから洗礼を受けた。それが今日の聖書箇所です。
 このマタイによる福音書では、イエスさまのことは生まれた当時のことが書かれていました。しかしその後は、いきなりこの成人なさって、洗礼者ヨハネから洗礼を受ける場面へと飛んでいます。私たちは、イエスさまはどうやってお育ちになったのか? 少年時代はどんな子どもだったのか? 成人されてからこの箇所までの間は、いったいどこで何をしておられたのか?‥‥というようなことを知りたいと思います。
 しかしマタイによる福音書は、そのようなことを何も書いていません。そして一気に今日の聖書まで飛ぶわけです。これは私たちには少し意外に思われるのですが、このことから少なくとも福音書はイエスさまの伝記を書こうとしているのではないことが分かります。聖書は何か偉人伝のようなことを書こうとしているのではない。聖書が書こうとしているのは、イエスさまというお方がどういう方なのか、とくに私たちの救いとどういう関係があるのか、そういうことを書こうとしているのだということです。
 イエスさまが神の国を宣べ伝えられた。その働きを書こうとしています。そして今日の箇所は、そのイエスさまが世の中に現れて神の国の福音を宣べ伝え始められる前に、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたということ。まずそのことを書いています。
 さて、そのようにイエスさまがヨハネから洗礼を受けられるというのが今日の聖書箇所なんですが、イエスさまが洗礼を受けられたということについて、大きな疑問が浮かんでまいります。それは何かと申しますと、「なぜイエスさまが洗礼をお受けになったのか?」という疑問です。なぜそういう疑問が出てくるかというと、洗礼者ヨハネが授けていた洗礼というのは、前回の聖書箇所の3章11節でヨハネ自身が述べていますように、「悔い改めに導く」ための洗礼です。もともと洗礼というのは、旧約聖書の律法に書かれているように、穢れを清める、すなわちみそぎです。ヨハネの洗礼はそこに、罪を悔い改めるという意味が加わっているものです。すなわち、穢れを清めると共に罪を悔い改めるしるしがこの洗礼であることになります。
 そうしますと、イエスさまが洗礼を受けるというのは不思議な感じがするわけです。なぜなら、イエスさまは神の子であるはずだからです。神の子が穢れているはずもないし、神の子が罪を犯しているはずもありません。聖書で言う罪というのは、神に背いていることを言うわけですから、神の子が神に背いているということはありえそうもない。なぜなら、神の子であるということは、すなわち神であるということでもあるからです。神が神に背くというのはありえない。
 そうすると、そのイエスさまが洗礼を受ける必要などないはずです。そしてそのことは、ヨハネ自身が14節でイエスさまに対して語っています。ヨハネは洗礼を受けに来たイエスさまに対して言いました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私のところへ来られたのですか?」
 これはヨハネの言っていることが道理でしょう。
 
     第一声
 
 さてここで、新約聖書におけるイエスさまの第一声が書き留められています。全聖書における、最初のイエスさまの言葉がいよいよ語られるんです。それが15節です。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」
 いかがでしょうか。なにか名言のようなことを期待していた方には、ちょっとがっかりさせられるような印象を受けるかも知れません。拍子抜けするような印象を持たれる方もいるかも知れません。人間の印象ではそう思えるかも知れませんが、実はこの第一声にイエスさまの働きのすべてが込められていると言って良いほどの内容がある言葉なのです。
 ただこの聖書の日本語のように、「今は、止めないでほしい」と訳すと、「今回だけは止めないでほしい」と、なにかわがままをおっしゃっているようにも聞こえるので、もうちょっと詳しく申し上げます。この冒頭の言葉は文語訳聖書ではこう訳しています。「今は許せ」。いかがでしょう。こう訳すと、「今、君にはわたしが洗礼を受ける意味が分からないかも知れないし、説明することも難しいのだが、それについては勘弁してくれ」という意味がなんとなく伝わってくるように思います。つまり、イエスさまの洗礼にはちゃんと意味があるということです。
 続けて「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とおっしゃっていますが、この「正しいこと」というのは何なのか? 何が正しいことなのか? 何をもって正しいとおっしゃるのか?‥‥これもまたさまざまな疑問が浮かんできます。正しいこととは何か? 何か律法に従って正しいということなのか? あるいは、倫理道徳的に正しいということなのか? それとも常識的に正しいということなのか?‥‥
 旧約聖書のヘブライ語の使い方から申しますと、この正しいというのは、神の救いの行為のこと、あるいは神のみわざと関係のある言葉です。すなわち、この正しいという言葉は、神が人間を救うことを指します。人間の基準ではなく、神さまの基準から言って正しいことです。そうすると、イエスさまがヨハネから洗礼を受けるということは、神が私たち人間を救うために必要でふさわしいことであるとおっしゃっていることになります。
 言い換えれば、イエスさまは私たちを救うために歩み始められるということになります。
 
     イエスさまの洗礼
 
 ではなぜそれが洗礼によって始まるのか、ということですが、本来イエスさまは神の子であるから当然罪もないし、むしろ洗礼をヨハネや私たちに授ける側であるはずです。そしてこのイエスさまがなぜ洗礼をお受けになったかということについて、罪人である私たち人間に寄り添うために洗礼をお受けになったのだという説をよく聞きます。神の子であるから、この世の中でただ一人罪もなく、洗礼を受ける必要はないイエスさまが、罪人である私たちと寄り添い、連帯するために、あえて罪を悔い改める洗礼を受けられたのだと。そのような説明をみなさんもお聞きになったことがあるかと思いまし、私もなんとなくそう思っていた時期がありました。
 しかし、よく考えてみますと、それはちょっと変だと思うんです。なぜなら、そうだとすると、それはイエスさまが罪人ではないのに罪人のふりをして洗礼を受けたということになるからです。言い換えれば、イエスさまは罪人を演じた、芝居をしたということになってしまいます。罪人ではないのに便宜的に罪人を演じるために洗礼を受けた‥‥それが罪人である私たちに寄り添うということなのでしょうか? 
 たとえば、私はぜんそくという持病を持っているわけで、最近は発作が起きないから楽なんですが、イエスさまがぜんそく患者に寄り添うというような表現が使われる場合、それはイエスさまがぜんそくでもないのにぜんそくのふりをするということなのか?‥‥もしそんなことだったとしたら、私は「やめてくれ」とイエスさまに向かって言うことでしょう。そんなことは何も期待していません。それは茶番以外の何ものでもありません。それは正しいことではありません。
 イエスさまは罪人ではないけれども、罪人を演じて洗礼を受けた。それで私たちが救われるのでしょうか?
 ここはもう少しイエスさまという方について、深く考えてみなければならないと思うんです。イエスさまはたしかに神の子です。しかし同時に人の子でもあります。イエスさまはマリアという人間から生まれた人の子です。聖霊によってマリアに身ごもりましたが、マリア様が人間であることは間違いありません。そして聖書は、人は皆罪人であると言います。すると、イエスさまが人間としてお生まれになったということは、人間の肉の体をまとわれたということになります。それが人の子ということの意味です。
 罪人という言葉ですが、この新約聖書で言う「罪」というものを、何か法律、聖書では律法と言われますが、その律法の条文を犯したというように思っていては、理解することができません。私たちは聖書がいう罪というものが何であるかを、少しずつ学んでいっているわけですが、それは律法のあの条文を破った、この条文を破ったというような表面的なものではありません。新約聖書がいう罪というのは人間の中に深く根付いている悪のことであり、それは人間が持っている本質的な傾向のことです。罪、悪に傾く傾向。それが罪です。と言い切ってしまうと、また何かちょっと違うような感じになるのですが、とにかくそれらのことはイエスさまを信じていくと次第に明らかになるようなところがあります。
 元に戻しますが、イエスさまが人の子としてお生まれになり、この地上を歩まれている。それは人の体をまとって生きているということです。そうすると、少なくとも、イエスさまは罪というものが何であるかを身をもって理解しておられるということだけは言えます。それは、神の子だけれども罪人のふりをして洗礼を受けた、というようなこととは全く違います。人の子としてお生まれになったイエスさまは、人の不幸の原因である罪というものが何であるかを身をもって知られた。そして、そこから人間が救われるために何が必要かを悟られた。そうしてイエスさまは十字架への道を歩み始められる。‥‥それがこのイエスさまの洗礼であります。
 イエスさまがこのときおっしゃった、「正しいことをすべて行う」という言葉の中に、すでに十字架におかかりになるということが含まれている。それゆえそれは「正しい」ことになる。そしてその十字架の正しさとは、この罪人である私たちが、救われるはずのない罪人である私たちが救われるということである。そういうことがこの一言において、すでに語られていると見えるのです。そのために歩み始められたということが言えると思います。
 
     聖霊
 
 こうしてイエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられると、天が開けて聖霊が鳩のようにイエスさまに降ってきた。そして、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたと記されています。
 洗礼を受けられ、聖霊が与えられた。それはまさに、神が罪人と共に歩まれて救いの道を歩ませられる。その先取りのような出来事です。
 さてここで聖霊が鳩のように降ってきたと書かれています。今日では聖霊のシンボルといえば鳩ということになっていますが、実は聖書で聖霊が鳩のようにと書かれているのはこのイエスさまの洗礼の時のことだけで、他にはありません。使徒言行録のペンテコステの時は、聖霊は「炎のような舌」で現れたと表現されています。もちろん、聖霊は神の霊であり、霊ですから姿形が見えるわけではありません。
 しかし、このイエスさまの洗礼の時に限っては「鳩」のように降ってきたという。鳩で思い出すのは、旧約聖書の創世記のノアの洪水の物語です。全地を覆った大洪水。雨が降り止んで、徐々に水が引いていき、ある日ノアが箱舟から鳩を放ったところ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていたと書かれています。それは地上で生命活動が再開したことのしるしでした。同時にそれは、神が怒りを収められ、神のゆるしと救いのしるし、希望のしるしとなったのでした。タバコの Peace のパッケージには、この鳩がオリーブの葉をくわえたものがデザインされていますが、それです。
 まさに、イエスさまが洗礼を受けて歩み始められたことによって、神はそこにゆるしと救いのしるしである鳩の姿をとって聖霊が降られた。それはまさに私たち罪人の救いと希望となっているということができます。神の子が人の子として私たちを救うために歩み始められたのです。十字架を目指して。この方と共に歩んで行かせていただきましょう。


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