2018年5月27日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 エレミヤ書31章 35節
    マタイによる福音書2章1〜12節
●説教 「世紀の天体ショー」
 


    博士の来訪
 
 ただいま、讃美歌2編の52番を歌いました。そして、本日お読みいただいている聖書箇所も、クリスマスの時に、クリスマス礼拝かイブ礼拝かで毎年読まれる聖書箇所です。そうしますと、もう何度も耳にタコができるほど読んだ。完全に覚えていますよ。‥‥ということになるかも知れませんが、それでもなお読むとあたらしい恵みが与えられるというのが聖書のふしぎなところです。神の言葉である証拠だと思います。そういうわけで、今日も新しい気持ちでこの箇所を読みたいと思います。
 さて、この箇所ですが、「占星術の学者」という人たちが登場します。「占星術の学者」という言葉についても、私はかねてから、誤解を招く非常にまずい日本語訳であるということを申し上げてきました。その理由は何度も申し上げてきているので、今日はもう申し上げません。とにかく前の聖書の訳では「博士」となっていました。また、今新しい聖書の翻訳がなされていて、あと1〜2年で新しい日本語訳の聖書が日本聖書協会から出るようですが、そのパイロット版出ておりまして、それを見ますともとの「博士」に戻っています。そういうわけで、私はこの「占星術の学者」という言葉を「博士」と読み替えてお話しいたします。そしてこの博士という人々は、どこかの国の王様のお抱えの賢者または知者であるらしいということだけ申し上げておきます。
 さて、そうするとこの博士の物語では、おもに2つの疑問点が浮かんできます。
 @博士たちは「東の方」から来たと行ったが、それはどこの国なのか?
 Aなぜ「ユダヤ人の王」を拝みに来たのか?
 Bユダヤ人の王を示す星とは何のことか?
 
    博士の求めたもの
 
 まず博士はどこの国から来たかということですが、「東の方」とだけ書かれていて、どこの国とは書かれていません。当時東の方とはアラビアを指したという説がありますし、また博士の元の言葉がマゴスという言葉になっていることから、今のイランのあたりにあったパルチア王国という説もありますが、もっと東かも知れないのです。だからはっきりしたことは分からない、ということになります。ただし、ユダヤ人ではないことだけは分かります。聖書の民ユダヤ人ではない。異邦人であり、異教徒です。
 次に、なぜ「ユダヤ人の王」を捜しに来たのか。博士たちの言葉を見ると、「拝みに来たのです」と言っています。拝みに来た、礼拝に来たという。そして幼子イエスさまに会った時に、ひれ伏して拝んでいます。ですから、これは普通のこの世の王様の子に会いに来たというわけではなさそうです。拝むというのですから、それは神さまとして拝むということになります。そういう王として生まれた方を拝みにきたということになります。これは旧約聖書の予言していた、メシア、すなわちキリストを捜しに来たということだと言えます。
 そして、彼らはその王の誕生の星を見て来たという。さらにその星は、ベツレヘムのイエスさまのおられるところで止まったと書かれています。不思議な星です。今日の説教題は、「世紀の天体ショー」と、ちょっと大げさな題名をつけましたが、たしかに神さまには何でもおできになるんですから、遠い遠いところにある天体を神さまの全能の力で動かしたと考えることもできます。しかし、考えてみると、9節で、幼子イエスさまのいる場所の上に止まったというのはやはり変です。なぜなら、皆さん夜空の星を見上げて、その真下にある家というのはどこなのか、分かるでしょうか?自分の家が真下のようにも見えるし、東京タワーにでも行けば、東京タワーがその星の真下にあるようにも見える。いったいどの場所がその星の真下なのか、などということははっきり分かるはずもありません。
 じゃあ、聖書はいい加減なことを書いているのか?‥‥そうではないと思います。この博士たちには、星を通して神さまが彼らの心に示されたということです。彼らは星を研究していた。だからその星を用いて、神さまが彼らの心に働きかけて、導かれたと考えればよいのです。そう考えると、何か特別な彗星が現れたとか、金星と木星が接近したとかいう必要はありません。はっきり言えば、不思議な星が現れたから彼らはキリストを求めて旅を始めたというよりも、まず彼らは神の救いを求めていた人たちであったと私は思います。その救いを求める心があった。そして神さまは、彼らが星を見る人たちであったので、その星を用いて彼らをキリストとして生まれたイエスさまのところに導かれたということです。
 こういうことは良くあることです。例えば、音楽を通してキリストの信仰に導かれたという人がいます。あるいは、読書を通してキリストの信仰へ導かれたという人がいます。そういうことと同じです。
 彼ら博士たちは、異教徒でありました。聖書を知らない民でした。しかし、真の神を求める心、救いを求める心があった。そして求め続けた。それが心の中にあった。そして神さまは、彼らの研究対象であった星を用いて、彼らをキリストのところへ導かれた。そういうことを描いていると考えることができます。そして彼らは、ベツレヘムでお生まれになったキリスト・イエスさまに会うことができたのです。
 いっぽう、エルサレムにいた人々は、旧約聖書の民ユダヤ人であり、聖書を知っており、キリストが生まれるという予言も知っていた人たちでした。しかし彼らはベツレヘムにお生まれになったイエスさまの所に行かなかった。なぜでしょうか?‥‥それは、求めるという心がなかったからです。
 そのように、真の神にお会いするには、そしてキリストにお会いするには、異教徒であるとか、何人であるとか、聖書を知っているとか知らないとか、そんなことは何の関係もないことが分かります。必要なのは、ただ救いを求める心である、ということです。
 
    亀谷凌雲先生
 
 以前にもご紹介しましたが、富山新庄教会を開拓伝道して建てた亀谷凌雲(かめがいりょううん)先生のことをあらためてご紹介したいと思います。
 亀谷先生は、1888年(明治21年)に富山市の寺の長男として生まれました。富山県を含めた北陸は、浄土真宗王国と呼ばれます。その真宗大谷派の寺の長男、つまり跡取りとして生まれました。子どもの頃から跡取りとして育てられ、また亀谷先生自身も浄土真宗中興の祖である蓮如上人のようになりたいと願っていて、毎日朝夕の仏前での勤行は一度も欠かしたことはないほどだったそうです。
 寺の住職であるお父さんも熱心な人で、寺の住職として留まっているというよりも、全国あちこちに南無阿弥陀仏を布教して回るような人だったそうです。そういうこともあって、檀家は少なく、家計は貧しく、お母さんが働いて生計を助けるような状態だったそうです。亀谷先生は、少年の頃から考えることが好きで、天の極みはいずこにあるかとか、自分はなんのために存在しなければならないのだろうか、ということを考えるような子であったそうです。それで哲学を学びたいと思った。しかし寺は貧しかった。ところが、篤志家の援助を得ることができて、亀谷先生は金沢の旧制第四高等学校(現在の金沢大学)に進学できたそうです。
 四校に入学すると、そこには自分よりも頭の良い学生がいることに対し劣等感を持つようになります。また、人よりも品性の面ではマシだと思っていたのだけれども、悪い習慣をやめることができず、自分の意志薄弱なことに絶望します。
 そして救いを求める。救いは、自分の宗教、浄土真宗のご本尊である阿弥陀仏に救いを求めます。しかしそのときの心境を先生はこのように本に書いておられます。
 「信仰といえば私には弥陀の救いを求めるのみであった。しかしその弥陀がよくわからないのである。理屈はよくわかる。その慈悲はありがたい。時には感激の涙にむせぶこともあった。しかしその実在がはっきりしない。」「もっとはっきりその実体にふれたくてならないのである。この目で見、この手でさわれるような実体に会いたいのである。」(亀谷凌雲、『仏教からキリストへ』、1986年、p.21)
 四校の倫理の講義は、のちに有名になる哲学者、西田幾多郎だったそうです。講義の中で西田先生が教えれたのが、「人生の奥義は最深要求に従うにある。人皆それぞれ幾多の欲求をもっているが、その中の最も深い要求、心の奥底から、本心から求めているものを熱求するのである」‥‥以来、亀谷先生は、救い主を明瞭に見たいという要求を強めることになりました。
 また、西田博士は、倫理の時間中に話が宗教におよんできた時、キリスト教について、新約聖書のガラテヤ書2章20節の「われキリストとともに十字架につけられたり、最早われ生くるにあらず、キリストわが内に在りて生くるなり」とのパウロのことばを引用し、これがキリスト教の真髄であるというようにお話しになったそうです。さすがは西田幾多郎といわなければなりません。亀谷先生は、このとき初めてキリスト教というものは宗教としてずいぶん深いものだと感じたのだそうです。
 やがて亀谷先生は東京大学哲学科に入学します。そこで、さらに浄土真宗の研究を続けます。しかしいっぽうで、どうしたら真の人格者になれるのか、真の良い品性の持ち主になれるか、という問いが消えることはなかったそうです。それで聖書を読むようになった。そうすると、浄土真宗と似た教えの多いことに驚いたそうです。それは、罪人のみを救いの対象にしている点、行によらず信仰によってのみ救われるということ、救いは救い主の約束に根拠していること、その信仰も賜物であること、来世への希望、御名の崇められ一心一向に進むこと、などなどです。さらに、ジョン・バンヤンの「天路歴程」を読み、感激の涙を流す。いっぽう自分は身の堕落、良心の呵責に悩む。
 その後、キリスト教を知りたくて、救世軍・山室軍平の説教を聞きに一年間通ったそうです。父は他界し、寺を継がなければならず、許嫁と結婚したのですが、生活のため東大卒業後は小樽の中学に単身赴任します。小樽に伝道に来たキリスト教会の有名な伝道者、金森通倫に教えを請うたのもこの頃です。
 しかし、どうしても寺を継がなくてはならなくなって、富山に戻り、中学の教員をしながら寺の住職となります。しかしなお、その求道心は止むことがありませんでした。そして、キリスト教が浄土真宗と同じく絶対他力の信仰であり、浄土真宗が弥陀の名号を唱える者を救うのと同じく、キリストもまた御名を唱える者を救うと言っていること、さらに浄土真宗が一筋に浄土の救いに向かっているのとおなじく、キリスト教もまた天国を希望として説いていることなどについての理解を深めるに至ったのでした。
 本に書いておられます。「聖書に読みひたると以上のように、弥陀において味わい得る恩恵をことごとくキリストにおいて手近に味わい得て、あまりにも弥陀の慈悲そのままを、しかも力強くキリストにより感得し得るので、ただただ感激を加うるのみとなってきたのである。」
 そしてついに、阿弥陀如来の真の姿はイエス・キリストであったという境地に至るのです。「かくも真実に苦悩の人間そのものの間にきたって、大小すべての救いを実践し、まっとうした方は、どこにあったろうか、あろうか。実に仏心の極致に徹底し、理想を事実に示し、如来の真実の姿を顕明したもうあのは、げにこのキリストであったことをだれが否定し得ようか。私はキリストに来たって、久しく求めに求めていた真実の如来に見えまつり得たのであった。」
 亀谷は先生、阿弥陀が実在するかどうかに悩んだのでありますが、イエス・キリストは紛れもなくこの地上を歩まれ、そして十字架にかかられた実在した方であった。その事実に出会った時、他力救済においては、浄土真宗と何ら変わるところのないキリスト信仰こそが、浄土真宗の成就であると見たのです。すなわち、亀谷にとって阿弥陀仏はイエス・キリストを指し示す、ベツレヘムの星となったのでした。
 こうして、亀谷先生はキリストを信じてクリスチャンとなり、住職を辞めて、キリストの伝道者への道を進んだのでした。
 
    求める心
 
 何よりも大切なのは求める心です。そしてイエスさまが「求めなさい。そうすれば与えられる」(マタイ7:7)と約束なさったとおり、神を求め、救いを求める者に対して、神さまは与えてくださるということです。博士たちは求め、そして救いに出会ったのです。そのとき彼らは、喜びに満たされたのです。


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