2018年5月13日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書46章 9〜10節
    マタイによる福音書 1章 18〜25節
●説教 「選択の時」
 


    ヨセフの物語
 
 本日は母の日です。先ほど歌いました讃美歌510番は、毎年母の日に歌っている讃美歌です。この讃美歌を歌うと、わたしが神学生時代に通っていた三鷹教会で、あるご婦人がいつもこの歌を歌っていたことを思い出します。そしてその人は、その歌詞の通り、いつも自分の息子が教会につながるように祈っていました。この510番の歌詞は、「お母さんありがとう」という歌詞ではありません。我が子の救いのために、涙を流して祈る母の心境を歌った歌です。もっと広く言えば、これは私たちすべてのキリスト信徒に対して、家族のために、そして隣人の救いのために、世界の人々の救いのために祈れという歌です。
 さて、今日はそのように母の日ですが、聖書箇所はイエスさまの母マリア様ではなく、地上における父となったヨセフのお話しです。この箇所はクリスマスを前にしてアドベントの時に読まれたりする箇所です。イエスさまがお生まれになる前、体内に宿られたことを天使が告げるという出来事について、ルカによる福音書はマリアへの受胎告知を書いています。それに対してこちらのマタイによる福音書は、ヨセフへの天使の告知を書いています。
 これを比べますと、圧倒的にルカによる福音書のマリアへの受胎告知が有名です。西洋の有名な画家が描いた絵でも、マリアへの受胎告知を描いた絵は、レオナルド・ダ・ビンチ、フラ・アンジェリコ、ボッティチェリ、エル・グレコなど、そうそうたる画家が描いていますが、ヨセフへの天使のお告げは、本当に少ないです。教会学校やキリスト教幼稚園でクリスマスの時になされる聖誕劇でも、マリアへの受胎告知の場面は必ずありますが、ヨセフへのお告げの場面があるものは見たことがありません。ですから、そういう意味ではヨセフへのお告げの出来事というのはたいへん地味であるわけです。
 なぜそういうことになるのかと考えますと、やはり聖母マリアにはかなわないということと、ヨセフがいなくてもイエスさまは生まれることができるということもあるのかな、などと考えたりします。たしかに、母マリアが聖霊によってイエスさまを身ごもったのですから、ヨセフは絶対に必要かと言えばそうは言えないのではないかと、私たちは思います。アブラハムの子孫でありダビデの子孫であるという神の約束の系図の上でヨセフが必要だったとしても、ダビデの子孫はそれこそ数えるのもたいへんなほどいたことでしょうから、必ずしもヨセフではなくても良かったような気もします。
 しかし、この後ヨセフは目立ちませんが、活躍しているんです。マリアを守りながらベツレヘムまで旅をする、そこで出産の時を迎えたマリアのために、泊まれる宿を捜して歩く、またヘロデ王がキリストを殺そうとすることから守るためにマリアと幼子を連れてエジプトへ避難させる‥‥といった具合です。これらは言うまでもなく、マリアだけではどうにもならないことでした。ヨセフはいわば、縁の下の力持ちのような役割を果たすのです。
 幼子イエスさまとマリアを守るために、どんな人が必要なのか。屈強な体格の強い人なのか? 頭の良い人か? 口のうまい、世渡りの上手な人なのか?‥‥それはこの後を読んでいけば分かるのですが、主の言葉に耳を傾け、従う信仰を持った人であるのです。そしてヨセフはそういう人だった。それがそのまま、なぜ神さまは、イエスさまの地上の父としてヨセフをお選びになったのか、ということの答えになっていると言うことができます。
 
    ヨセフの困惑
 
 ヨセフは、マリアの婚約者でした。ところが18節を見ると、そのマリアが「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」と書かれています。
 私は今まで、「聖霊によって」という言葉は説明の言葉であって、ヨセフが知ったのはマリアが「身ごもった」という事実だけだと思っていました。というのは、20節を読むと、夢の中に現れた天使によって初めてマリアの妊娠が聖霊によるものであることを知ったように書かれていると思ったからです。しかし先週、ある教会員とこのことで立ち話をしていたら、マリアがヨセフに「聖霊によって身ごもった」ということを言ったんじゃないか、というんです。たしかに、言われてみればそうですね。婚約中だったんですから。
 ただ、当時の婚約中は、現代のような恋人同士の婚約中というのとはちょっと違うところがあります。婚約というのは多くの場合、本人同士で決めるのではなく、親同士で決めることでした。それはむかしの日本と同じです。結婚というのは、本人同士の問題ではなく、家同士の問題だった。もちろん、本人同士が好き合ってという場合もあったようですが、そのときもお互いの親が認めなければ結婚できなかった。そして婚約中も、今のように自由にデートして歩くということではなかったようです。
 それにしても、ヨセフは、自分のあずかり知らない所でマリアが身ごもったことを知ったわけですし、なぜマリアが身ごもったのかということを本人から、あるいはマリアの親から聞いたに違いないでしょう。マリアの親というとこれは聖書に全く出てこないのでまた余分な話になるのでやめておきますが、いずれにしろ、たしかにヨセフはマリアが「聖霊によって身ごもった」ことを聞いたのだろうと思いました。
 そう聞かされて、ヨセフはどうだったか。聖霊は神の霊ですから、神さまによって身ごもったということになります。「そんなことがあるわけない」と思うのが普通でしょう。自分のあずかり知らないことです。だれか他の男と関係を持ったんじゃないかと、ふつう考えるでしょう。聖霊によって身ごもったと聞かされて、ヨセフはどうしたのか?
 聖書には、19節ですが、「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」と書かれています。「正しい人」というのは、ここではほぼ神を信じる人という意味です。「表ざたにする」というのは、公の場に訴えるということです。つまり、姦通罪で訴える。ユダヤでは、婚約は結婚したのと同様であると見なされていましたから、婚約中でありながら他の男と関係したということは姦通罪となり、それは石打の死刑となります。ヨハネによる福音書の8章の出来事がそれを表しています。しかしヨセフは、正しい人、神を信じる人であったので、公にせず、婚約解消することとしたという。
 この結論に至るまでに、ヨセフは相当悩んだと思います。20節に「このように考えていると」とありますが、この「考える」というギリシャ語の動詞には、「思い巡らす」「思案する」という意味があります。ですから、相当悩んだのです。当然でしょう。神を信じる人は、信じない人が悩まないようなことで悩むんです。神を信じない人は、聖霊によって身ごもったなどということは信じない。だから怒って裁判に訴える。そして石打の死刑にしてもらうでしょう。しかしヨセフは正しい人だった。神を信じる人だった。だから悩んだ。聖霊によって身ごもったとして、自分はこのまま結婚して良いのか? 恐れ多いことではないか?‥‥あるいはマリアの言ったことは本当なのか?
 
    天使のお告げ
 
 するとその答えが、神さまによって夢の中で与えられたというのです。夢の中で天使が現れてヨセフに語ったと書かれています。
 しかしなぜ夢の中で、なのか。おそらく、起きている時はあれこれと思い悩んでいて、余分なことで頭がいっぱいであったのではないか。しかし眠ってしまえば、余分なことは考えません。はじめて静まります。私たちが神の言葉を聞く時もそうです。毎日、心を静かにして聖書を読み、祈る時間というものが必要です。
 それにしても、夢というのはなんだかあやふやな感じがします。20世紀初頭のオランダの精神科医、フロイトの「夢判断」という本は有名ですが、夢というものがその人の潜在意識が反映されたものであるのだと、現代人は考えるでしょう。だから、夢の中に天使が出てくるというのもなんだか馬鹿馬鹿しいと考える。しかし、聖書にはヨセフの夢の中で主の天使が告げられたと書かれています。私は、それまでキリスト教徒は全く無関係に育った人で、夢の中にイエスさまが現れてキリスト信仰へ導かれた人を知っていますので、このようなことがあると思うのです。とにかく、神さまはこのとき、夢を通してお語りになったという。
 
    ヨセフの決断
 
 主の天使は告げました。20節「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」 主が、聖霊によって宿ったことを確認してくださった。そして、恐れずに妻マリアを迎え入れなさいと。そしてその子をイエスと名付けなさいと。
 イエス。ヘブライ語ではヨシュアです。その名は「主は救い」という意味です。ユダヤ人にはありふれた名前です。しかしここでは主の使いがそう名付けよとおっしゃったのですから、その名の通りの本当に主の救いがこの子を通して現れる。そういうことです。そしてその救いとは、「自分の民を罪から救う」ということであると続けて言われている。
 ここにすでに救い主キリスト・イエスさまの行く道が示されていると言えます。それは当時のユダヤ人の多くが求めていた、ローマ帝国からの独立を目指す指導者としての救い主ではない。この社会の変革を目指す革命家としての救い主でもない。「罪から救う」という救い主。すなわち、人間の本当の救いです。ひとりひとりの救い。そのために生まれてくるという。
 ヨセフは、このことを聞いて、ただならぬ厳粛な気持ちを抱いたに違いありません。何か人類の救いが、その子にかかっているというようなです。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と天の使いは言ったけれども、恐れずどころか非常に畏れ多いことです。しかし御使いは、恐れずマリアを妻として迎え入れなさいと命じた。御使いの告げる言葉は神さまの言葉です。それでヨセフは、眠りから覚めると命じられたとおりマリアを妻として迎え入れた。こうしてイエスさまがお生まれになったと記します。ヨセフは信じたんです。そして神さまにゆだねたんです。つまり、イエスさまがお生まれになるのには、マリアの信仰だけではなく、ヨセフの信仰も必要であったということです。
 ヨセフは大工でした。全くの一般庶民でした。しかしここで分かることは、イエスさまが来られるために神さまが必要としている人は、地位や名誉のある人ということではなく、お金持ちである人というわけでもなかったのです。神が必要としているのは、神を信じる人でした。信仰によって選択をする人だったんです。神は信じる人と共に働かれるからです。
 22節に、おとめマリアが聖霊によって身ごもり、男の子を産むという出来事は、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであったと書かれています。そして23節の言葉は、旧約聖書のイザヤ書7章14節の預言の言葉です。それがこのとき、イエスさまにおいて成就したという。「インマヌエル」。「神は我々と共におられる」という意味のヘブライ語です。この子によって、生まれてくるイエスさまによって、私たちが救われ、神が共におられるという世界が始まるという。神が、信じる人と共におられるんです。それはイエスさまによってもたらされる。
 それをヨセフが信じた。そうしてイエスさまがお生まれになったと聖書は書いています。神さまが、この私を救い、そして共におられる。夢みたいな話しでしょうか。ヨセフは夢の中で主の天使が語った言葉を信じました。そうして神のご計画が進んでいきました。
 私たちが読んでいる聖書。これも夢物語なんでしょうか? そう思う人もいるでしょう。しかしヨセフは信じました。そして受け入れいました。私たちの人生。これもあっという間です。私も気がつけば60歳。まさに夢のように過ぎていきます。しかしヨセフが信じたように、神の言葉を信じた時、それは現実となるのです。主が預言者を通して言われていたことが実現するんです。この私のような者にも、インマヌエル、神が共におられるということになる。それは信じることから始まる。今日の聖書はそのことを教えています。


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