2018年5月6日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書11章1〜2節
    マタイによる福音書1章7〜17節
●説教 「ついにたしかに目の前に」
 


    系図
 
 イエスさまの系図であります。先週は、系図の中に出てくる4人の女性を取り上げ、聖書の語るメッセージに耳を傾けました。その4人の女性の、逆境の中におかれてもあきらめない信仰があったことを学びました。そのように系図というものは一見退屈に見えますが、そこに登場するひとりひとりに人生のドラマがあることを思いますと、さまざまな恵みが見えてまいります。そうは申しましても、ここに出てくる名前のひとりひとりについて、ゆっくり取り上げている時間はありませんので、進めていきたいと思います。
 さて、イエスさまの系図と言いますと、このマタイによる福音書のほかにルカによる福音書の第3章にも記されています。そしてそちらをご覧になった方は、両方の系図がずいぶん違っていることにお気づきかと思います。違っているのは、ダビデ王の子からマリアの夫ヨセフの父までの間です。その間がまるで違っている。その間に並んでいる名前には、マタイとルカで同じ名前の人も出てきますが、それは同名の別人であるとも考えられますので、やはりダビデの子からヨセフの父の名前までが全く違っていると言って良いと思います。
 これはいったいどういうことかと不審に思われる。それで、いろいろな説が考えられているわけですが、まあこれはそんなに悩むことでもないと思います。と言いますのは、そもそも系図というものは必ずしも血のつながりを記録したものではないからです。たとえば、子どもが生まれなかった場合、養子を取るという方法があるわけです。前回、レビレート婚という習慣のことをお話ししましたが、それでも子どもが生まれないという場合はあるわけです。そうすると、子どもがたくさんいる人は、子どもの生まれない親戚の家に養子として行かせるということは、日本でも普通にあったことです。
 そう考えると、マリアの夫であるヨセフの父の名前は、このマタイによる福音書では「ヤコブ」となっているわけですが、ルカによる福音書のほうでは「エリ」となっている。これなども、どちらかが実の父の名前を挙げ、どちらかが相続上の家系の父の名前を挙げていると考えれば、何も難しいことはないわけです。そしてさかのぼっていくと、どちらの先祖をたどってもダビデ王で重なる。これも、私たちでも先祖をさかのぼっていくと、他人と同じ先祖に当たったりするのと同じです。ここにいる私たちも、系図をさかのぼっていくと、案外共通の先祖だったなどということが必ずあるに違いないと思います。いや、そもそももっともっとさかのぼれば、ここにいる私たち全員、そして全世界のすべて人の祖先はアダムとエバに行き着くわけですから、人類みな兄弟となります。だから実は系図などというものはたいしたことではない。
 ではたいしたことではない系図をなぜ新約聖書の冒頭に載せているかと言えば、それはこのマタイによる福音書の最初の説教で申し上げたように、その昔、神さまがアブラハムに約束されたこと、すなわちアブラハムの子孫を通して全世界の民を救うという約束、そしてダビデに約束された、ダビデの子孫に永遠の王座に就かせるという約束、その神の約束がイエス・キリストにおいて果たされましたという宣言なのであるということだからです。すなわち、この系図は神さまの約束の真実を証しするのもとして、大きな意味を持っています。
 
    系図に見る歴史
 
 さて、この系図を見ておりますと、人間の歴史というものを感じずにはおれません。アブラハムは、だいたい紀元前二千年、今から四千年前の人です。ダビデは紀元前約千年、バビロン捕囚はだいたい紀元前六百年ぐらいから何回かに分けて行われる。そうするとそこに歴史というものが見えてきます。
 すると、歴史というものはどこに向かっているのか?ということを考えたくなります。歴史というのは、おもに人間の営みです。そうすると、歴史というものは、偶然発生した人間がやがて進歩していって文明を築き、結婚とか家の制度や国の政治制度ができて発展していく。そして縄張り争いが戦争となって繰り返されていく。私たちはこの人間の歴史の中で、生まれ、生き、そして死んでいきます。系図というものを見ると、まさにさまざまな人が生まれて死んでいくという繰り返しが書かれているわけです。そして私たちもその中のひとりなんです。
 それでは、人間の歴史というものは、どこに向かっているのか?‥‥そういうことを考えざるを得ません。「いや、歴史がどこに向かっているということなどない。歴史の行き先なんかだれにも分からない。ただそうやって人間が生きてきて、そして死んでいった、その繰り返しがあるだけだ。」そういう答えもあるでしょう。すなわち、歴史というのは単にそういう時間的経過をたまたまたどったというだけで、積極的な意味などないということです。たいへんむなしいことです。
 しかしこの系図の語っていることは、そうではありません。この系図は、歴史に意味があると言っているのです!
 この系図の最初の人であるアブラハム。彼は、創世記12章で、アブラハムの子孫によって世界の民を救うという神さまの約束をいただきました。そうして見ず知らずの土地に向かって旅立っていきました。そしてダビデも、先ほど申し上げましたように、永遠の国の約束を神さまからいただきました。ダビデ、そしてその子ソロモンと、イスラエル王国は絶頂期を迎えました。繁栄したんです。しかしその後、イスラエルの国は徐々に傾いていきました。理由は、歴代の王さまの罪が神さまの裁きを招いたからだと、旧約聖書に書かれています。
 ダビデ以降の歴代のイスラエル、そしてレハブアムからはユダ王国の王の名前が11節まで並んでいます。そこには良い王さまと悪い王さまが混在して出てきます。悪い王さまでは、ソロモン王も最初は良かったんですが途中から悪くなりました。その次のレハブアムも悪くて、彼の時にイスラエル民族の国は二つに分裂してしまいました。それからは、その二つに分裂した王国のうち南のユダ王国の王の名前が続いています。その中では、ヨラム、それからマナセなどは悪い王として有名です。
 いっぽう、良い王さまでは、ヨシャファトやヒゼキヤ、ヨシヤといった人たちの名前が挙げられます。
 良い王とか悪い王というのは、聖書では、良い王は「主の目にかなう正しいことを行った」と書かれている人で、これは国の中の異教徒の偶像礼拝を一掃した人です。つまり主を信じる人です。いっぽう悪い王というのは、「主の目に悪とされることを行った」と書かれている人です。それは、主を信じないで、異教徒の偶像礼拝を推進した人たちです。そのように、聖書では、悪い王とか良い王というのは、主を信じて従うのかどうか、主を信じてすがるのかどうかということを見ているのです。信仰の観点から見ているんです。
 しかしイスラエルの王国は、次第に傾いていく。それは全体として主を信じなくなっていく人々に対する神の裁きとして描かれます。そしてついにバビロン捕囚となる。バビロニア帝国の侵略を受け、国はめちゃくちゃに破壊され、人々は虐殺され、おもだった人々はバビロンへと連れて行かれる。国が滅びたんです。つまり、主なる神さまを信じない罪によって挫折したんです。
 そのままもうイスラエルは消滅してもおかしくなかった。つまりアブラハムとダビデに主が約束なさったことが、ここで立ち消えになってもおかしくなかったのです。
 ところが終わらなかった。そこに神さまの奇跡が入り込んでいるわけです。バビロニア帝国は、ペルシャ帝国へと政権交代する。そして、バビロンに補囚となっていたイスラエル人が国に戻ることを赦される。祖国に帰還できたんです。その後は、やがてアレキサンダー大王の帝国の支配となり、次にはその後のギリシャ人の王朝の支配となり、一次独立を果たしたものの、今度はローマ帝国によって占領され支配されている。それがマタイによる福音書が書いている時です。
 そうするとやはり、いったいそこにどういう意味があるのか?と不審に思われます。単に弱肉強食の歴史が繰り返されているだけではないか?と。人間の罪と愚かさと、貪欲と、戦争と、その中で生きて死んでいくだけではないかと。先ほど、主を信じる良い王もいたと言いました。しかしそういう主を信じる人がいたということは、無意味なのではないかと思われる。それは、そういう人がいたというだけの過去の話であると思われます。
 しかし、この系図が語っていることはそうではありません。最後にイエスさまが生まれている。そこが肝心なところです。すなわち、イエスさまに至ったところに意味があると言っているのです。
 
    14代
 
 17節には、アブラハムからダビデまで14代、ダビデからバビロン捕囚まで14代、そこからキリストまで14代と書かれています。14代、14代と書かれている。この14代というのは、何か旧約聖書で予言された数字ではありません。しかし14代、14代と強調されていることには、そこには神さまのご計画があったということを強調しているんです。この繰り返される人間の罪の歴史の中で、神さまはご計画をもっておられるということです。
 先週、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産に登録されそうだというニュースがありました。「潜伏キリシタン」というより「隠れキリシタン」というほうがなじみが深いと思いますが、江戸時代、徳川幕府のキリスト教に対する激しい弾圧・迫害の中を密かに生き延びたキリスト教徒がいました。それが隠れキリシタンです。隠れキリシタンが、外国の教会と断絶しながら二百数十年もの間、迫害にもかかわらず信仰を保ったということ自体が奇跡以外の何ものでもないわけですが、そこにはある預言が彼らの支えとなったそうです。
 外国人の宣教師がみな処刑された後、バスチャンという日本人の伝道師が残されました。そのバスチャンも見つかって、激しい拷問のあと首を切られて死にました。しかしバスチャンが死刑になる前に、4つの予言を残したといわれています。その中に、七代経ったら神父が黒船に乗ってやってきて、自由に礼拝できるという預言があったそうです。その予言を、長崎の隠れキリシタンたちは、代々伝えていったそうです。隠れキリシタンたちは、この予言を大切にし、信じながら、きびしい徳川の時代を待ちました。この長い長い時代を待つのは、どんなにつらいことだっただったでしょうか。しかし彼らは神を信じ、予言を信じて待ちました。そしてその予言通りに、7世代を経たとき、アメリカのペリーが黒船に乗って日本にやってきたのです。そしてその後、長崎にフランス人の神父が来て、教会(大浦天主堂)を建てた。長崎は、浦上の村人たちは、そのバスチャンの預言を代々受け継いで7代目。まさに主の預言通りの時を迎えたのです。
 イスラエルの歴史は、私たちの人生の歴史を見ているようであるかも知れません。アブラハムが私たちの生まれた時であるとすると、ダビデは全盛期であり好調な時を迎えるということになるでしょう。しかしそれがやがてバビロン捕囚という試練を迎える。挫折します。自分の無力さを知るに至ります。しかしそこで終わらない。そこにイエス・キリストが訪れる。
 
    神のご計画
 
 もう一度、16節を見てみましょう。「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。」
 この系図、この歴史は、イエス・キリストに行き着いたというところに意味があると私たちに語りかけています。それが目的であった、それが神のご計画であったと語りかけています。歴史は、この方に向かっているのであると。
 私たちも、それぞれが人生の紆余曲折を経て、今ここで主を礼拝しています。私たちが教会で主を礼拝している。主イエスに出会っている。ここに私たちの生きている意味があるということです。キリストと出会うということこそが意味あることであり、ここに至るための神のご計画が私たちにもあったということです!
 ここから、主と共に歩む、イエス・キリストと共に歩む新しい道がある。その道を歩み始めるように、聖書は私たちを招いています。


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