2018年4月29日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ルツ記1:16〜17
    マタイによる福音書1:2〜6
●説教 「捨て身の信仰」
 

    4人の女性
 
 マタイによる福音書の連続講解説教に入りまして、今日は第2回目です。旧約聖書が終わり、新約聖書が始まるその冒頭のマタイによる福音書は、イエスさまの系図で始まっています。このことの意味は、そのむかし主なる神がアブラハム、そしてダビデに約束されたことが、イエスさまによって果たされました、ということを述べているのだと申し上げました。
 そして今日はその実際の系図の中身に入っているわけですが、その途中の変なところで区切りました。他の先生方のマタイによる福音書の説教を拝見すると、たいてい1章1節から17節まで系図を1回で終わらせるものが多いように思います。しかし私は、それを3回に分けてお話しすることにいたしました。それはこのカタカナの羅列で無味乾燥に思われる箇所に、多くの恵みが秘められているからです。
 マタイによる福音書のこのイエスさまの系図には、5人の女性が登場します。最後のマリアさまを除くと、4人の女性が登場し、それが今日読んでいただいたところに出てきます。3節のタマル、5節のラハブルツ、6節のウリヤの妻です。それ以外はこの系図は男性の名前ばかり並んでいます。それは、家が男子によって相続されたからです。にもかかわらず、あえてそこに4人の女性が割り込むように記されている。それには、やはり何か特別な理由があると考えるべきでしょう。そこでまず、この4人の女性について簡単におさらいしてみましょう。いずれも旧約聖書の物語の中に登場いたします。
 最初にタマルです。この人は、イスラエルという名前を神さまからいただいたヤコブの12人の息子のうちのひとりであるユダの息子の妻でした。次のラハブは、エリコという町の遊女でした。イスラエルから見て外国人、つまり異邦人です。ルツは、イスラエルの東側の隣国であるモアブ人の女性、つまりこの人も異邦人でした。また「ウリヤの妻」と書かれていますが、名前はバト・シェバといいます。バト・シェバという名前ではなく「ウリヤの妻」と書いているわけですが、そこに聖書が言いたいことがあるわけで、ダビデ王がウリヤという他人の妻によって次の王となったソロモンを生んだということです。
 そのように、ざっと表面的な紹介をしただけでも、なにかいわくがありそうな感じがすると思います。異邦人といい、遊女といい、不倫といい、いずれもイスラエルにとっては好ましくない、けがれという言葉が使われる、あるいはマイナスの人たちです。ですから、この系図がなにかイエスさまの権威付けをするものではないことだけはたしかだということが、このことからもお分かりと思います。
 それで、この系図の最後にイエスさまが生まれられるわけですが、そういうことから、イエスさまがそういう人間の汚れやマイナスを引き受けてお生まれになられたのだということがよく言われます。もちろん、そういうこともあるでしょう。しかしそれだけだと、なにもわざわざ4人の女性の名前を出す必要もないわけで、たとえばマイナスということでしたら、はるかにマイナスな人たちがこの系図の中には何人もいます。例えば、真の神である主を捨てて偶像礼拝をした9節のアハズ王とか、10節のマナセ王などは非常に大きな罪を犯したということが旧約聖書に書かれています。
 そうすると、ここでイエスさまの系図の中に4人の女性をあえて登場させているのには、他に理由があるはずです。そこでこの4人を、ひとりひとりもう一度詳しく見てみることにいたします。
 
    タマル
 
 まずタマル。タマルのできごとは創世記38章に記されています。タマルは、イスラエルという名前を神さまからいただいたヤコブの子であるユダの長男エルの妻でした。ところが、二人に子どもが生まれないうちに夫のエルが死ぬんです。そして夫の弟であるオナンと再婚する。これはイスラエルでは決まりなんです。子どもが生まれないうちに夫が死んだ場合、夫の兄弟と再婚して子を産むのがきまり。モーセの律法、すなわち神の掟にそう書かれているんです。一般にこれをレビレート婚と言います。なぜそういう再婚をするかというと、死んだ夫の家系を守るためなのです。ところが再婚したオナンも子どもが生まれないうちに死ぬ。だから、本当ならば、さらにオナンの弟と再婚させなければならない。ところが夫の父、つまりタマルの義父であるユダは、このタマルという女は不吉な、呪われた女であると感じる。それで、もうタマルに自分の息子を与えない。ですからそのままですと、タマルは子どもが生まれないまま、また元夫の家系は絶えてしまうことになります。ここでタマルは、引き下がらないんですね。子どもを産みたい、すなわち律法に従って家系を絶やさないという執念を見せる。
 そこでタマルは一計を案じた。それは、変装して遊女の格好をして、義父のユダが自分の嫁とは知らずに関係するようにしたのです。そうしてタマルは身ごもる。そのあと、タマルが身ごもったことを知ったユダは、タマルが不倫したと思って怒り、死刑にしようとする。不倫は死刑だからです。ところがそこでタマルがあの遊女は自分であったということを明かすのです。それでユダは、タマルの夫であった自分の息子が死んだのに次の相手を与えなかった自分が悪かったことに気がつくというエピソードです。そうして生まれたのが、3節に書かれているペレツとゼラという双子の兄弟でした。つまり、タマルは自分が姦通罪で死刑になるかも知れない危険を冒して、家系を守ったということができます。言い換えれば、命がけで律法を守らせた。そしてこのイエスさまにつながる系図を守ったのだと言えます。
 
    ラハブ
 
 続いてラハブです。この人のことはヨシュア記2章に書かれています。
 イスラエルの民が奴隷状態にされていたエジプトの国を、モーセを指導者として脱出し、荒れ野の旅を続けました。そしてそのモーセが死んで、指導者がヨシュアにバトンタッチされました。そしていよいよイスラエルが約束の地に入っていこうという時のことです。イスラエルの最初の攻略の対象となる町はエリコでした。そしてエリコを責める前に、イスラエルの指導者ヨシュアは、斥候を送ってエリコの町を調べさせるわけです。その斥候二人をかくまったのが、エリコの町の遊女であったラハブです。そうしてラハブは、このイスラエルの斥候二人を逃がす。自分の国をこれからイスラエルが攻めるというのに、ラハブはそのイスラエルの味方をする。その理由は、イスラエルの神こそが真の神であることを知ったからでした。
 かくまった二人に対してラハブは、「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。」(ヨシュア記2:11)と言っています。
 そうしてイスラエルの味方をした。仮にこの後の戦争でエリコが勝てば、ラハブは裏切り者だということが発覚し死刑となったでしょう。しかしラハブは真の神を仰ぐイスラエルに賭けたのです。そうしてイスラエルが勝利し、ラハブは自分と両親と兄弟たちを救ったのでした。そのように、命がけで真の神に未来を託したのがラハブです。
 
    ルツ
 
 続いてルツです。この人については、ルツ記をまだ読んだことのない方には是非ご一読をおすすめします。あるとき、イスラエルに飢饉が発生し、ナオミ夫妻は二人の息子を連れて隣国のモアブに避難いたしました。そしてそのモアブの国で、二人の息子はそれぞれ現地のモアブ人の女性と結婚しました。その女性のひとりがルツです。
 そして、その後ナオミの夫が死に、ナオミの二人の息子も、子どもが生まれないうちに死にました。こうして、ナオミと二人の嫁さんだけが後に残されたのです。ナオミは祖国のイスラエルに戻ることとしました。そして、残された二人のお嫁さんに、それぞれ自分の実家に帰るようにさとしました。ひとりは帰っていったんですが、ルツは姑のナオミに着いてイスラエルに行くというのです。戻れと言っても戻らない。あくまでも付いていくという。ルツにとって、ナオミがどんなによいお姑さんだったかということなのですが、それだけではない。ルツはナオミにこう言っています。
「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神、あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。」(ルツ記1:16〜17)
 つまり、真の神さまである種を信じる国に一緒に行きたいというのです。お金目当てではありません。その証拠に、ナオミは一文無しであり、この後一緒にナオミの郷里であるイスラエルのベツレヘムもどったあと、ルツは落ち穂拾いをしてナオミを養ったからです。落ち穂拾いといえば、ミレーの絵が有名ですが、これは、麦を刈り取った後麦畑に落ちている穂を拾い集めて、食べるんですね。モーセの律法では、畑の麦を刈り取った時に落ちた穂は、畑の持ち主は拾ってはならないことになっていました。それは貧しい人たちのために残しておかないとならなかった。ルツはそれを拾って食料にしたのです。そんなに二人は貧しかった。そしてこれが主の導きなのですが、ルツはその畑の所有者と結婚することになった。それがボアズです。
 
    ウリヤの妻=バト・シェバ
 
 最後にウリヤの妻、バト・シェバです。彼女はサムエル記下11章〜12章にまず出てきます。
 ある日イスラエルのダビデ王が、王宮の屋上から街を眺めていると、ある家で沐浴をしている女性が目にとまりました。ダビデはその女性を召し入れてしまうんです。それがバト・シェバでした。しかも人妻で、ウリヤの妻でした。しかもバト・シェバは妊娠する。そこでダビデ王は、ウリヤを戦死させるように仕向けるのです。ウリヤは忠実な部下でした。なのにわざと戦死させる。これが主の怒りを招きました。そのことはここでは省略いたします。とにかく、のちにダビデ王とバト・シェバの間にソロモンが生まれます。
 さて、そのダビデが年老いてベッドの上に寝たきりとなります。そうすると、ダビデ王の王子の一人であるアドニヤが重臣たちの支持を取り付け、王位に就くことを宣言する。そして家臣たちを招いて祝宴を始める。そのとき、バト・シェバは、我が子ソロモンを王にするためにダビデ王に渾身の訴えをするのです。
「わが主君、王よ、あなたの神、主にかけてあなたはこのはしためにお誓いになりました。『あなたの子ソロモンがわたしの跡を継いで王となり、わたしの王座に就く』と」(列王記下1:16)
 ダビデ王がかつてソロモンを次の王にすると主なる神に誓った。それを実行してくださいと迫ったのです。つまり王位継承の内紛が起こったのです。もしバト・シェバのこの捨て身の訴えが失敗してアドニヤが王位を固めてしまえば、バト・シェバもソロモンも殺されることは歴史の常です。しかしこのバト・シェバの訴えは功を奏し、ダビデがソロモンを指名したので一気に逆襲に転じ、ソロモン王の即位式を敢行し、ソロモンが王位に就くこととなります。
 すなわち、バト・シェバは、ダビデ王がソロモンを次の王にすると主に誓ったその言葉を果たさせるために命がけで行動したのです。
 
    4人に共通すること
 
 さて、このように4人を見てきますと、それはなにか不幸な女性たちというイメージでは終わらないものがあるのにお気づきかと思います。たしかに彼女たちは逆境に置かれました。ものすごい危機に直面しました。
 しかし彼女たちはそこであきらめなかった。主なる神さまの言葉に立ったんです。捨て身の賭けに出たのです。そしてそこに主の助けが働いた。すなわち、彼女たちの捨て身の信仰によってこの系図は続いたということです。彼女たちの捨て身の信仰がなかったら、この系図は続かなかった。イエスさまに至らなかったのです。彼女たちの、あきらめない信仰、捨て身の選択があった。そうしてイエスさまが来ることができた。そういうことです。
 
    あきらめない捨て身の信仰
 
 私たちの信仰も、信仰に生きた人によってバトンタッチされて来ていることを覚えたいと思います。そして、危機や逆境こそ、主の奇跡を見るチャンスであることを覚えたいと思います。
 みことばは、あきらめずに祈り求め続けることの大切さを教えています。
「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために弟子たちにたとえを話された。」 (ルカ18:1)
「求めなさい。そうすれば、与えられる。」(マタイ7:7)
 神のみことばに立った時、あきらめてはなりません。あきらめずに、祈り求めるのです。そして危機を迎えたならば、そのときこそ主の奇跡を見るチャンスが訪れたと、感謝したいと思います。


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