2018年4月15日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 マタイによる福音書1章1節
    創世記12章1〜3節
●説教 「神の約束の真実」


    マタイによる福音書
 
 本日からマタイによる福音書の連続講解説教に入ります。私はこの4月で逗子に来て8年目を迎えました。ついこのあいだ富山から逗子に来たと思っていましたが、もう8年。早いものです。主日礼拝でも、いつかマタイ福音書の連続講解説教をしなければと思いつつ、こちらも8年目にしてようやく入ることができました。
 なぜマタイ福音書を取り上げなければならないかというと、この福音書は新約聖書の最初に置かれているからです。「だったらなぜ最初から取り上げなかったのか」と言われそうですが、これも自分ではよく分かりません。神さまの導きであると思っております。時が過ぎていくのは早いものだと思うこの頃ですが、その意味でも、このマタイ福音書から一期一会の思いでご一緒にみことばを聞き取ってまいりたいと思います。
 
    系図の真相
 
 さて、今申し上げたように、このマタイ福音書は新約聖書の最初のページを飾る書物です。最初に本を手にした人は、やはり最初から読み始めるでしょう。初めての本を途中から読み始める人はあまりいないでしょう。そうすると、はじめて聖書を手にした人は旧約聖書の創世記から読み始めることになるわけですが、最初に手にする聖書というのは、旧約聖書の付いていない新約だけの聖書という人も多いと思います。ギデオン協会の聖書のように、誰か人からもらった聖書というのは、新約聖書だけというものが多いのではないかと思います。
 そうして新約聖書を手にして、本文の最初のページをめくると、今日読んだところになるわけです。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」。そしてカタカナの人の名前がずらっと並んでいる。いきなりあくびが出そうになるわけです。つまらない。だいたい他人の家の系図なんて、どうでもよい話しです。そういうことで第一印象がまことに悪いんですね。
 何で冒頭から系図が載っているのか。だいたい系図を述べ始めるなんていうのは、うちは由緒ある家系なんだということを誇るとか、あるいは上に立つ者が自分の権威付けをするとか、そういうことで語られたりすることが多いと思うんですが、ここでイエスさまの系図から書き始めているということも、そういうことなんでしょうか?
 たしかに、アブラハムにしてもダビデにしても、旧約聖書の中の超有名人ですからそんな感じがするかも知れませんが、実はまったく違うんです。このマタイによる福音書の1章1節、新約聖書の最初の一行が系図で始まっているのは、アブラハム、そしてダビデに神さまが約束されたことが果たされたということをまず第一に言いたいからなんです。つまり新約聖書は、「主なる神は約束を果たされました!」という宣言で始まっているということです!
 アブラハムに約束したとおり、そしてダビデに約束したとおり、神はアブラハムの子孫、そしてダビデの子孫にイエス・キリストという救い主を生まれさせたと宣言している。これが新約聖書の第1ページです。そう考えると、これはまさに新約聖書の巻頭を飾るにふさわしいと言える、いやこれ以外にないと言わなければなりません。
 
    アブラハムへの約束
 
 そのことをご説明しなければならないでしょう。まずアブラハムです。アブラハムは神の約束をいただいた人です。しかもわたしたちにつながる約束を、です。
 先ほど、創世記12章1節〜3節を読んでいただきました。ここは、アブラハムという人が初めて主なる神さまの声を聞いた時のことが書かれています。このときはまだアブラハムという名前ではなく、アブラムという名前で出てきます。アブラムは主の声を聞いたんです。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」。このときアブラムは75歳。そのアブラムに対し、主は住み慣れた故郷を出て行け、そしてわたしが示す地に行けとおっしゃったんです。行き先をおっしゃらないまま。無茶と言えば無茶な話しです。
 そして続けておっしゃったことが、2節と3節に書かれています。それが神の約束でした。その約束は3つありました。
 @大いなる国民とする。このときアブラムとサライ夫妻には子どもが生まれていませんでした。もうあきらめていました。しかし主はそのようにおっしゃった。大いなる国民にするということは、少なくとも子どもが生まれるということです。そしてそれが増えるということです。
 Aあなたを祝福する(祝福の源となるために)。アブラムが祝福される。しかしそれは「祝福の源」として祝福される。源というのは水源地とも言えましょう。水源地は、そこから水が湧き出て流れ出て、そして川となって下流の田んぼや畑を潤す。つまり、アブラハムが祝福されるその祝福が、他の人々を祝福する源となるということです。
 B地上の氏族はすべて祝福に入る。「地上の氏族はすべて」というのは、世界中の人々が、ということです。「あなたによって」というのはアブラハムの子孫によってということです。「祝福に入る」というのは、救われるということです。すなわち、やがてアブラハムの子孫によって、世界の人々が救われることになる。
 アブラハムは、この神さまの約束を聞いて、見知らぬ土地へと旅立っていったんです。それは何か自分が、神さまのご用のために用いられるということ、世界の人々が救われるために用いられるということ、そのために旅立っていったんです。自分が生きている間に、この神さまの約束は成就するのではないかも知れない。しかしやがて自分の子孫を通して、世界の民が救われることになる。それを信じて一族を連れて出発した。
 このことについて、新約聖書のヘブライ人への手紙11章10節でこう書かれています。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」
 ただ主なる神さまを信じて出発した。それでアブラハムは、信仰の父と呼ばれます。
 
    ダビデへの約束
 
 次にダビデです。ダビデはイスラエルの第二代目の王です。そのダビデが、預言者であるナタンを通して主の言葉をいただいた。サムエル記下7章12節13節です。「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠る時、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。」
 主はダビデが死んだあとのことを約束されました。ダビデの子孫によって、主の家が建てられ王国がとこしえに続くと。「とこしえに」ということは「永遠に」ということです。永遠ということは、この地上の王国ではありません。信仰の王国、神の国です。
 さて、そこでまたマタイ福音書の1章1節に戻って読んでみましょう。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」。いかがでしょうか。これは単なる血のつながり、系図を示したということではないことがお分かりになったことと思います。主なる神さまがアブラハムに約束され、そしてダビデに約束されたその約束が、イエス・キリストによって果たされたということを力強く語っているということが、お分かりになったでしょうか。神さまの約束がついに果たされたと言っているんです。人類救済の約束が。私たちを救う約束、祝福する約束が、です。
 
    旧約の続き
 
 新約聖書の最初に置かれたマタイによる福音書。このことについて、わたしは忘れられない体験をいたしました。それは私の前任地のT教会でのことです。私がT教会の牧師として赴任して、すぐに再開発ともない教会建物の移転を要請されました。青天の霹靂でした。教会内は蜂の巣をつついたような騒ぎとなり、移転反対賛成の意見が飛び交いました。協議を重ねる中で、移転やむなしという空気が大勢となり、次の焦点は、ではどこに移転するのか?ということに移りました。市役所は、気を利かせて複数の移転候補地を用意してくれました。しかしそれが結果的に、教会内が真っ二つに分かれる原因となりました。2つの候補地のどちらに移転するかで教会内の意見が二つに分かれたのです。その対立は話し合えば話し合うほど、深刻になっていきました。
 私は困りました。これはもう人間の知恵では意見はまとまらない、と思いました。それで神さまの御心を聞こうと提案しました。どうやって神さまの御心を聞くか。私は「聖書全巻通読会」をおこなうことを提案し、実行されました。聖書全巻通読会というのは、旧約聖書の一番最初の創世記から、新約聖書の最後であるヨハネの黙示録の最後まで、教会員が交替で読み続けるというものです。丸四日間、礼拝堂で朝も昼も夜も夜中も、聖書がひとり3章ずつ交替で読み続けられるのです。これはこれで盛り上がりました。教会員の皆さんも、ふだん教会に来ない自分の家族、息子や孫も連れてきて礼拝堂の講壇の聖書を読む。伝道になるなあ、と思いました。
 さて、私は神の言葉を聞こうと、できるだけ起きて礼拝堂で読み続けられる聖書朗読を聞き続けました。そして、ちょうど旧約聖書が終わって新約聖書に入る時も礼拝堂で読み続けられる聖書朗読を聞いていました。旧約聖書の最後のマラキ書3章が読み終えられて、次の新約聖書のマタイによる福音書の1章に入る。ちょうど今日の聖書箇所ですね。それが読まれた時、ものすごい発見を体験したのです。発見を体験したというのは変な言い方ですが、そういう感じでした。それはどういうことかというと、「つながっている」ということが確信できたという経験です。旧約聖書と新約聖書は、見事につながっている。なんの違和感もなく。感動的につながっているんです。それはもう聖書学者の言うことなど、完全にどこかに吹き飛んでしまうほどにつながっていた。それが口ではうまく表現できないのですが、体験できたんです。感動しました。その感動というのは、涙が流れると言うよりも、笑いがこみ上げてくるような、祝福されたような感動でした。教会移転の問題で八方塞がりの状態にあったにも関わらずです。
 つながっているんです。旧約と新約は。旧約聖書を読むと、そこには繰り返される人間の罪の歴史が綴られています。まさに人間というものは救いようがないという思いを深くさせられます。しかしそれは他人事として思うのではなく、まさに自分の罪深さが重なって見える。つまり救いようがない自分が見えてくる。
 しかし今日のマタイによる福音書1章1節は、そこにイエスさまが来られたということです。そういう人間、そういうわたしたちを見捨てずに! 約束通りに来られたということです!
 
    約束
 
 約束を果たすというのは簡単なことではないということは、私たち自身もよく知っていることではないかと思います。「あのとき、ああ約束したではないか!」というようなことが起きる。「あのとき、神さまの前で約束したじゃないか!」とか「ちゃんと約束したよね?」と非難したくなるようなことが起こる。しかし、「あのときは、あのときだ」とか「事情が変わった」ということになる。時間が経てば事情も変わるということです。それが人間の約束というものの現実です。
 しかし神さまは、主は、確実に約束を果たされる方である。それが聖書の告げることです。今日の箇所の、アブラハムに対する約束、そしてダビデに対する約束。これは、何かアブラハムやダビデ個々人のための約束ではありません。人類すべてに関わる約束です。その証拠に、いずれの約束も、アブラハムが死んで、ダビデが死んで相当の時間が経っている。だから人間的に言えば、「アブラハムもとっくの昔に死んだし、ダビデもとっくの昔に死んだのだから、もう約束なんて守られなくても文句言う人いないでしょ」と思える。しかし、約束の当事者がいなくなっても神さまは約束したことを守られる。そういうことです。主は、絶対に約束を守られるということです。
 聖書では、約束とは、契約とほぼ同じ意味です。つまりアブラハムに対する神さまの約束、ダビデに対する約束は、神さまの契約なんです。約束というと、人間世界では時が経ち事情が変われば約束を守れなくなっても仕方がないということになるのかも知れません。しかし神さまの場合は契約です。しかも無期限の契約です。何があっても、どんなに事情が変わっても、何年経っても、神さまの約束は変わることがない。それは契約だからです。そしてアブラハムから約二千年、ダビデから約千年経って、その神さまの約束が果たされる時が来た。それがイエス・キリストですと聖書は語っているんです。これはものすごいことだと思います。言葉が真実であるということです。神さまにおいては。
 わたしたちは、そういう神さまを前にしているのです。そのイエスさまを信じている。耳を傾けてまいりたいと思います。


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