2017年10月1日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 申命記31章7〜8
       使徒言行録 28章17〜31
●説教 「幕は下りず」
 
     モーセからヨシュアへ(申命記31:7〜8)
 
 きょうの旧約聖書は、申命記31:7〜8を読んでいただきました。申命記という書物は、40年間にわたってイスラエルの民の指導者であったモーセが、自分の死を前に、イスラエルの民に向かって語った説教が記されています。神がその昔アブラハムに対して、あなたの子孫にこの土地を与えるといわれた約束の地。奴隷の国エジプトを神の奇跡によって脱出し、その約束の地に向かって40年間、荒れ野の中を旅してきた。しかし、そのイスラエルの民の指導者であったモーセは、約束の地に入ることができずに死ぬことが神さまから伝えられます。場所は、ヨルダン川の手前。ヨルダン川の向こう側には、夢にまで見た約束の地が広がっています。しかしモーセはヨルダン川を渡っていくことはできない。それは何か、ちょっと切ない物語のようにも聞こえます。
 しかし聖書は、そのようなモーセ個人のドラマを描こうとしているのではありません。モーセは約束の地に渡っていくことはできないが、後継者にバトンタッチいたします。それがヨシュアです。すなわち、モーセは渡っていくことができなくても、イスラエルという民自体は渡っていくことができるわけです。そしてモーセは、エジプトからこの約束の地の手前までイスラエルの民が来るために用いられた。野球で言えば、中継ぎピッチャーの役割です。中継ぎピッチャーは、自分が勝つことではなく、チームが勝てば良いのです。それと同じように、モーセは役割を終えて退場しますが、イスラエルの民はなおも前進しヨルダン川を渡っていく。そのようにして、物語は続いていきます。
 きょうの新約聖書の聖書個所の使徒パウロにも同じようなことが言えます。
 
     ローマでの伝道
 
 わたしたちはこの礼拝で、長く使徒言行録を続けて読んできましたが、今日は最終回です。エルサレムで、ユダヤ教徒の告発によって逮捕されたパウロ。パウロは自分の裁判をローマ皇帝に上訴したために、ローマに護送されることとなりました。その乗った船がひどい嵐に巻き込まれました。しかし主のお守りによって助かり、ついにローマまで護送されました。パウロは囚人ではありましたが、ローマの市民権を持っていたため、牢獄ではなく自分の借りた家に住むことが許された。もちろん番兵が一人ついていたわけですが。
 その結果、自ら外出することはできないが、外から人が訪ねてくることはできました。それで人を招いて、イエス・キリストの福音を語ることができました。それで最後の31節はこう書かれています。「全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」。
 パウロは自由を奪われた囚人のままである。しかし、キリスト宣べ伝える、という点においてはなんの妨げにもなっていない。それでパウロは引き続きイエス・キリストのことを人々に教え続けたと。そのように、使徒言行録はパウロが引き続き伝道している場面で終わっています。
 そうすると、私たちは気になります。「その後のパウロはどうなったの?」と。
 ついついそう思ってしまいますが、しかしここで私たちは思い出さなければなりません。使徒言行録とは何かということを。使徒言行録は、むかしの聖書では「使徒行伝」と言いましたが、使徒行伝は「聖霊行伝」であるということを。使徒行伝の真の主人公は人間ではなく聖霊であるということを思い起こさなくてはなりません。すなわち、使徒言行録の最初の1章8節でイエスさまが言われた言葉、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」という言葉がどうなったかということを書いているものです。そして、使徒言行録は、マルコによる福音書の16章15節に書かれているイエスさまの大宣教命令、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」というみことばに、弟子たちがいかに従って行ったかということを書いているのです。
 そしてそのイエスさまの言葉どおり、使徒たちはイエス・キリストの証人として、キリストの福音=喜ばしい知らせを伝え続けたということを書くのです。
 
     使徒たちのその後
 
 実際は、使徒たちはその後どうなったのか。たしかに気になるところです。
 パウロについて言えば、パウロはこのあと死刑になったという説もあります。または、いったん釈放されて、念願のローマ帝国の西の果てのスペインまで伝道しに行き、再びローマに戻ってきたところをまた捕まり、死刑になったという説もあります。いずれにしても、皇帝ネロのもとで処刑されたようです。
 ペトロはどうなったのか。ペトロもやがてローマの都に出てきて、やはり皇帝ネロによって捕らえられ、67年頃、十字架に逆さに張り付けにされて殉教したと言われています。アンデレは、のちにギリシャでX型の十字架に張り付けにされて殉教したと言われます。マタイは、シリア、マケドニア、ペルシャに伝道し、アフリカのエチオピアで殉教したと伝えられています。トマスは、遠くインドまで行って伝道し、そこで捕らえられて殉教したと言われています。‥‥そのように使徒たちの多くは、世界に出かけて行ってイエスさまのことを宣べ伝え、殉教いたしました。
 この使徒言行録を書いたルカは、少なくともパウロやペトロがキリストのために命を落としたことを知っていたでしょう。しかしそのことを書いていません。あえて書いていないのです。なぜなら、ルカが使徒言行録を書いた目的は、使徒たちの伝記を書くことではなかったからです。先ほど述べたように、イエス・キリストの福音が宣べ伝えられ続けたことを書くことが目的だからです。
 使徒たちは殉教し、天に召されていきました。しかし彼らの伝道によって誕生した教会は続くのです。そしてバトンタッチされて、世の終わりまで福音を宣べ伝え続けるのです。それゆえ、パウロが福音を宣べ伝え続けるところで終わっているのです。そしてそれは、今日まで続いています。使徒言行録は、今日までずっと続いている。私たちが使徒言行録の新しいページに連なっているのです。
 
     いつものように
 
 ローマでパウロがまず招いて語った相手は、ローマに住んでいるユダヤ人たちでした。これもこれまでのパウロの伝道の旅と同じです。なぜ、まずユダヤ人からか。それも今まで何度もお話ししたとおりに、ユダヤ人は旧約聖書を信じていて、つまり神さまが送られるはずの救世主、メシアが来るのを待っていた人たちだからです。待っている人たちに、「メシアは来ましたよ。イエスさまがそれです」と語るのは、ものごとの順序というものでしょう。
 それに対するユダヤ人の反応も、やはりいつもの通りでした。つまり、パウロの言うとおり、イエスさまがメシアであると信じる人と信じない人に分かれました。そして信じない人のほうが多かった。それで最後にパウロは警告の言葉を語る。‥‥
 これは今までパウロが伝道したどこの町でも繰り返されたことです。それでもパウロは同じことを語り続ける。もう効率が悪いから、ユダヤ人に語ることはやめたらどうかということではない。語り続ける。そこに意味があると思います。
 
     希望
 
 さて、パウロがローマ在住のユダヤ人たちに語っている言葉の中、20節に「イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです」とあります。パウロは、希望を語ったために囚われの身となっていると。
 この希望というのは何を指しているのでしょうか?‥‥この希望とは、イエス・キリストにかかっています。私たちの希望はイエス・キリストである。その希望を語っていると。
 キリスト信徒は、希望によって生きているということになります。希望というと、何かそれははかない願望、単なる空想のように思う人がいるかもしれません。しかし聖書でいう希望はそういうものではありません。聖書でいう希望とは、たしかにこの世に来られ、そして十字架にかかられて死なれたけれども、たしかに復活し、生きておられる方です。そのイエス・キリストによって確固として約束された確かな希望です。そのイエスさまに、私たちの未来があると言っているのです。
 先週は、広島県の呉平安教会に奉仕いたしました。その教会を牧会しているのは、週報にも書きましたとおり、小林克哉牧師です。そのときいただいた、呉平安教会の教会創立110周年記念証し集に、小林牧師の証しが書かれていました。小林牧師が初めて教会に行ったのは、週報にも書きましたとおり、高校生のお兄さんに連れられてのことでした。そのとき小林先生は中学3年生だったそうです。そして間もなく高校受験に臨みます。ところが高校受験に落ちてしまったそうです。小学生の時から塾に通って備えてきたのに、高校に落ちてしまった。それで「この先どうすれば良いのか」と、すべてを失ったように感じ、闇の中に置かれたそうです。そのような中、ある日の夕方、部屋で静かに目を閉じていた。日が暮れ、自分が真っ暗な暗闇の中に放り出されたように感じたそうです。そのとき、真っ暗なはずの世界に小さな光が見えた。小林少年はその光に近づいていったそうです。するとその光はイエス・キリストだったそうです。イエス・キリストだけは、確かにおられる。何があっても自分を見捨てない。小林少年は、「わたしは生涯あなたに従っていきます」と祈ったそうです。そしてその年の夏に洗礼を受けたそうです。そしてその後高校に進学し、卒業するとすぐに東京神学大学に入り、卒業して呉平安教会に遣わされた。「何が滅んでも滅びないもの、何が捨てても決して見捨てない方を伝えるためにです」と書いておられました。
 何が滅んでも滅びない、ほかの誰もが見捨ててもその方だけは決して私たちを見捨てない。それがイエスさまです。そこに希望があります。
 私たちの真の希望である方。使徒たちはその方、イエス・キリストを宣べ伝え続けました。私たちの教会も、この方を宣べ伝え続けていきます。


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