2017年9月10日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ゼファニヤ書3章16〜17
    使徒言行録28章11〜16
●説教 「終わりと始まり」
 
     マザー・テレサ没後20年
 
 先週5日は、マザー・テレサが亡くなってから20年の日でした。マザー・テレサは、10代で献身してカトリック教会のシスターとなり、インドに渡りました。大都市カルカッタ(現コルカタ)の町には住む家もなく路上生活をする人がいました。そして路上で誰にも看取られなく死んでいく人々が大勢いました。貧しい人々の中でも最も貧しい人たちでした。そのような時に、女学校の校長となったテレサは神の声を聞くのです。「ここを出て、貧しい人のために働きなさい」と。それは聖霊なる神さまの声でした。彼女は直接聞いたのです。そしてシスター・テレサは、無一物となって一人で路上に出て、活動を始めたのです。
 先週の読売新聞にもマザー・テレサの特集記事が載っていて、その中に記されたマザー・テレサの言葉の一つに目が留まりました。「大切なのは、どれだけ多くのことをしたかではない。それをするのに、どれだけの愛を込めたかだ。」
 心に染みる言葉です。私たちは大きなことをできないかもしれない。しかし小さなことしかできなくても愛を込めることはできる。主の助けによって。励まされる思いがします。
 
     ローマに着く
 
 さて、マルタ島に漂着して3か月が過ぎました。その間、主がパウロたちキリスト信徒を用いて島民たちの病気を癒やし、島民たちの尊敬を集めるに至りました。そういうこともあって、一緒の船に乗っていた人たちも不自由なく冬を越すことができました。
 そして航海の危険な冬が終わり、難破した船に乗っていた人たちは、マルタ島で冬を越してたアレキサンドリアの船に乗って出航することとなりました。その船は「ディオスクロイを船印」とする船であったと書かれています。ディオスクロイというのはギリシャ神話の神々の名前で、ゼウスの息子である双子の兄弟カストルとポルクスのことだそうです。スパルタ地方で船員の守護神とされていたそうです。その神の像が、船の舳先の所に取りつけられていたのです。
 昔は航海というのは、時には命がけでした。パウロらの乗った船が暴風で漂流したことからも分かります。それで、航海の安全を守ってくれる神々を船の舳先に着けたのです。現在の日本でも、漁師町では信心深い人が多いものです。その偶像の神が刻まれた船に乗って、キリストの福音を宣べ伝えるためにローマに向かうパウロ。たいへん興味深い構図です。
 しかしパウロを護送する百人隊長は、航海の安全を守ったのは、ギリシャ神話の偶像の神々ではなく、パウロたちの信じる真の神、主であることを、ここに至るまでに思い知ったのでした。それがマルタ島に漂着するまでの嵐の中の航海だったのです。
 さて、今度の船はマルタ島を出航して、すぐ北のシチリア島のシラクサに寄り、さらにイタリア半島のレギオンに入り、最後にプテオリに入港しました。ここで、百人隊長の部隊に率いられたパウロたちは船を下り、以下陸路ローマに向かいます。そのとき最初のプテオリで「兄弟たち」すなわち、キリスト信徒たちを見つけてそこに請われるままに七日間滞在したと書かれています。
 請われるままにと言っても、パウロは囚人です。勝手な行動は赦されないはずです。必ず番兵が着いていました。なのに七日間もその町に滞在したというのは、これは百人隊長がそれを許可したことを示しています。異例の取り計らいだったと言えるでしょう。すなわち、パウロたち囚人の護送責任者であるローマ兵の百人隊長は、あの嵐の中の船が救われた経験を通して、そしてマルタ島でのできごとを通してパウロの信じる真の神を知った。そしてパウロと共に生きて働いておられる主を知った。そのために、百人隊長はパウロを尊敬し、特別な自由を与えたと言えると思います。
 また、このプテオリの町でキリスト信徒たちに会うことができたのは、パウロに同行していたルカとアリスタルコが奔走したのだと考えられます。そしてこの町に住む信徒たちを見つけ出したのだと。そのように、パウロを助けるために同行した信徒たちの隠れた働きも覚えることができます。
 そして、アピイフォルムとトレス・タベルネまで来ると、今度はローマの教会の信徒たちが迎えに来てくれたという。囚人としてローマ皇帝の前で開かれる裁判を受けるために護送されているパウロ。しかし、行く先々で、そのようにキリスト信徒に出会い、また迎えに来てくれる。教会というもののありがたさ、不思議さを思います。私たちも、どこかに旅をする。そうするとそこに教会がある。外国に旅行する。そこにも教会がある。そして日曜日の礼拝に出席し、共に礼拝にあずかる。そこに共にいるのは、兄弟姉妹です。
 パウロは彼らを見て「神に感謝し、勇気づけられた」とあります。この時代、まだキリスト教がヨーロッパに伝えられて間もない時代です。日本にはキリスト信徒が少ないと言いますが、この時代のイタリアはもっともっと少ないクリスチャンしかいなかった。そういう中で、パウロは自分が何か犯罪を犯して裁判を受けるというのではありません。言ってみれば、このパウロの負っている裁判は、ローマ帝国がキリスト教を認めるかどうかということに直結する裁判です。
 そういうときに、パウロがローマまで護送されてくるのを待ちきれないかのようにして、出迎えに来てくれるクリスチャン兄弟姉妹たちがいる。パウロは、彼らを見て神に感謝したとある。「彼らに感謝」ではなく、「神に感謝した」と書かれています。このような人々を備え手いて下さったのが神様であることを認め、神様の配慮に感謝したのです。
 16節を見ると、ローマに到着したパウロは牢屋に入れられたのではなく、自分で借りた家に住むことを許されています。もちろん囚人ですから、番兵がつけられ、パウロの手か足には鎖がつながれていましたが。
 
     なぜ、ローマに行きたかったか?
 
 パウロは、ついに行くことを願っていたローマに着いたのです。このときは紀元60年頃と思われます。イエスさまの十字架と復活、およびペンテコステが紀元30年ですから、それから30年。すでにローマには教会が存在していました。いや、もう少し前から存在していました。パウロが第3回世界伝道旅行中、コリントに滞在している時に、パウロはローマの教会に宛てて手紙を書いています。それが「ローマの信徒への手紙」です。その1:10〜12にこのように書かれています。‥‥「わたしは祈る時にはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。」
 また、15:24には、イスパニア(スペイン)に伝道に行く途中にローマに寄りたいということを書いています。イスパニアはローマ帝国の西の外れです。すなわちパウロはローマ帝国内の隅々までイエス・キリストのことを宣べ伝えたいと思っていたのです。
 なぜローマに行きたかったのか?‥‥まず、ローマは大ローマ帝国の首都です。当時すでに人口100万人を数えていたと言われます。世界最大の都市と言ってよいでしょう。それゆえそこには、世界のあらゆる国、地方から人々が集まってきていました。そこでキリストの福音を宣べ伝えるならば、あらゆる国、あらゆる地方の人々がイエス・キリストのことを聞くことになります。そういう効果がある。
 例えば、私の最初の任地であった輪島教会。輪島の町は人口流出地でした。それで輪島教会で洗礼を受けてクリスチャンになっても、やがて町を出て行く。いわゆる苗床教会です。洗礼を授けても授けても、教会は大きくならない。クリスチャンを都会に送り出しているのです。しかし時には、逆もある。つまり輪島出身の人で、進学や就職で都会に出て行って、そこで教会に導かれてクリスチャンとなる。そしてまた輪島に戻ってきて、輪島教会につながり教会を支える人となるというケースもまれにあります。
 そのように、ローマでキリストの福音に触れてキリスト信徒となり、また自分の出身地に戻ってさらに広まっていくということが期待できる。‥‥パウロもそのように考えたことでしょう。
 
     囚人であることを感じさせない
 
 パウロは、ローマのその家に、ローマ在住のおもだったユダヤ人たちを招きました。これにはローマの教会の信徒たちが働きかけたのでしょう。パウロは今までの世界伝道でそうであったように、まずその町のユダヤ人にイエス・キリストのことを語ることから始めます。それは、ユダヤ人は旧約聖書の民であり、それゆえメシア=救い主を神が送ってくださるのを待っていた人たちだったからです。その待っていたメシアが来ましたよ、それがイエスさまですよ、と宣べ伝えることから始めます。
 さて、こうしてみると、パウロはたしかに未決の囚人として拘束され、鎖でつながれているのですが、普通にイエス・キリストのことを宣べ伝えていることが分かります。たしかに家から外に自由に歩き回ることはできない。基本的には家にいて、番兵と鎖でつながれている。しかしその家に人々が来て、パウロの語ることに耳を傾けている。たしかに拘束されて不自由な身分でありながら、自由にキリストのことを宣べ伝えることができています。すなわち、イエスさまの福音を語るということにおいては、何の支障もないと言えるのです。
 そのように、どのような視点から物事を見るかによって、全然違って見えます。私たちの今の境遇もそうです。例えば、自由な時間がない、あるいはお金がない、または、だんだん体が動かなくなって何もできなくなった‥‥というように考えます。しかし、神さまの視点から見るとどうでしょうか。イエスさまを信じることができる、祈ることができる、イエスさまのことを誰かに伝えるチャンスもある‥‥。そのように見ると、全く束縛がないことが分かります。
 「クリスチャン新聞・福音版」の8月号に、栃木県矢板市の教会の田中敏信という牧師の証しが載っていました。盲人の牧師です。田中先生は中学生の時に網膜剥離となり、やがて失明すると医者に言われたそうです。それで盲学校に進み、マッサージ師、鍼灸師の資格を取ったそうです。盲学校卒業後、福祉の資格を取りたいと思って京都の大学の通信制で学んだそうです。そして夏のスクーリングのために大学に行った時に、ひとりのクリスチャンの学友と出会ったそうです。すると彼は、田中先生を教会の夕礼拝に誘ったそうです。礼拝の後、田中先生は彼に尋ねたそうです。「手や足が全然動かない人も勉強しているが、勉強して何になるのだろうか?」と。他の障害者の話題をしたが、ほんとうは自分のことが聞きたかったそうです。するとクリスチャンの彼はこう答えたそうです。「人にはそれぞれ役目がある。人間には手や足やいろんな部分があって、手は足に向かって、お前はいらないとは言えない」。(これはパウロの書いたコリントの信徒への手紙の中にあることですね。)それを聞いて田中さんはびっくりしたそうです。そして心の片隅の温かいものが残ったそうです。
 そして郷里の広島に戻ると、さっそく地元の教会に通い始めたそうです。納得がいかないことがあると牧師に質問をぶつけた。そうして3か月後に洗礼を受けた。それでも目が見えないことに納得したわけではなかったそうです。信仰を持ってからも祈りの中で神さまに悲しみをぶつけたそうです。「神さま、どうしてわたしの目は見えないのですか。」「あんまりじゃないですか。あの犬だって、ネコだって見えるのですよ。しかも真っ暗でも。なぜ私だけ、見えなくされたのですか‥‥」。泣きながら祈るうちに、いつの間にか眠ってしまった。目が覚めると夜中だった。すると一つの聖書の言葉が心に浮かんだそうです。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み‥‥人の目から涙を全くぬぐい取ってくださる」(ヨハネ黙示録21:3〜4)。「川の両側にはいのちの木があって、12種の実を結び、その実は毎月実り、その木の葉は諸国民を癒やす」(同22:2)。それで田中さんは、「すごい、天国に行ったら見えるようになるんだ。決めた、あの木の葉を食べさせてもらおう‥‥」と笑いがこみ上げてきたそうです。やがて田中さんは、牧師になりました。
 パウロは裁判を待つ囚人として鎖につながれている。それは不当に自由を奪われた者のように見える。しかし神さまの目で見ると、そうではない。全く自由に神を信じ、そして用いられていることが分かります。主を信じた時に、私たちには大きな可能性が開けてくるのです。


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