2017年9月3日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記 41章37〜40
    使徒言行録28章1〜10
●説教 「逆転する評価」
 
     振起日
 
 本日は9月の第一主日ですが、教会はこの日を「振起日」と呼んでいました。今でもそうしているところがあります。振起日とは、秋を迎えて気持ちを新たにし、奮い立たせて信仰生活を送ろうという日です。週報の「今週の祈りの課題」に掲げましたのも、そのことを覚えてのことです。
 
     これまでの航海
 
 パウロの制止も聞かずにクレタ島の港を出港した船は、案の定、激しい嵐に見舞われました。来る日も来る日も暴風が続き、船を軽くするために積み荷を捨て船具を捨てましたが助かる見込みはなくなりました。人々は2週間も食事ものどを通らず過ごしました。そのとき、パウロのところに神の御使いが現れ、パウロがローマ皇帝の前に立つこと、そして船に乗っている人をパウロに任せたことを告げました。それでパウロは一緒に船に乗っている人たちに、「元気を出しなさい」と告げたのでした。ローマの百人隊長を始め、船に乗っている人たちはパウロの言葉に希望を見出し、パウロは囚人でありながら船の船長のような存在となりました。
 そして船は陸地に近づきました。しかし座礁したので、皆泳いで陸にたどり着きました。こうして船に乗っていた276人の人々は、御使いの言葉どおり、全員助かったのでした。
 こうして着いた陸地は、マルタ島でした。陸地に上がってみて分かったのです。これもまた神の奇跡でした。嵐の間、船はどこを漂流しているのか全く分からなかったのです。陸地に着いてみて、それが北アフリカであったかもしれない。あるいは押し流されて、小アジアかユダヤのほうであったかもしれない。それが着いてみたら、まるで航海が順調に行ったかの如く、イタリアの近くまで来ていたというのですから、嵐の中でも神の導きがあったことが、ここでも分かります。
 嵐の中でパウロは神の言葉を聞いた、そしてその通り全員助かった、しかもイタリアの近くまで来ていた。そういう奇跡を体験したのです。
 さてここで思いますのは、パウロはもちろんキリスト信徒であり、また伝道者です。にもかかわらず、生きるか死ぬかの激しい嵐に遭遇しました。つまり、主イエス・キリストを信じているのにひどい試練に出会ったということになります。これはいったいどうしたことかと思う人もいるのではないでしょうか。
 ここで考えてみたいのは、神の存在は、平穏で何も起きない日々の中で過ごしているのと、嵐に遭遇したけれども奇跡的に助かったのとでは、どちらがはっきりするだろうかということです。神さまへの信仰もそうです。毎日平凡な日々が過ぎていくのと、試練に遭遇しハラハラドキドキするのと、どちらの方が神に頼るかということです。もちろん平穏な日々も、神さまが守っていてくださるのに違いありません。しかし私たちは不信仰なので、毎日平穏で何も起きないと、神への感謝を忘れて祈ることも真剣にならなくなる傾向があるのです。しかし試練に遭遇し、必死に祈るようになる。そして神の奇跡を見ることができる。それですから、私たちの人生の困難、試練もまた恵みであるということができるのです。
 パウロと共に船に乗っていた人々も、嵐を通してパウロの信じる真の神の存在を知ったことでしょう。
 
     マルタ島
 
 さて、難破した船に乗っていた人々が着いたのはマルタ島でした。イタリア半島の南にあるシチリア島の南にあります。小さな島です。現在はマルタ共和国という人口約41万人の小さな国になっています。そういう島に到着していた。
 しかもそこに書かれているように、マルタ島の住民はたいへん親切で、手厚くもてなしてくれたのです。飲み水も食料もあり、泊まるところもあった島。もしこれが、漂流して到着した先が、水もなく食べ物もなく、何もないところであったとしたら、あるいは漂流民を全く敵視する人々のところだったとしたら、とんでもないことになっていたでしょう。実際に北アフリカ沿岸では、海岸からいきなり砂漠という所もいくらでもあるわけですから、このマルタ島のようなところに漂着したということは、まさに神の奇跡であり、この漂流自体が神の導きの中にあったと言うことができるでしょう。
 すなわち、嵐の中の命がけの漂流が、まさに神の御手の中にあったのです。
 
     人殺しか、神か
 
 さて、地の人たちが、海を泳いで来たこの人々のためにたき火をたいてくれた。パウロはそのたき火に枯れ枝をくべました。するとそこからマムシが一匹出てきて、パウロの手にかみついたという。新共同訳聖書では、パウロの手にマムシが絡みついたとなっていますが、口語訳聖書では「かみついた」となっています。島民の反応から考えても、ここはマムシが「かみついた」と訳すのが良いでしょう。
 パウロはマムシにかまれたのです。マムシにかまれたらどうなるのか? 島の人々は、「この人はきっと人殺しに違いない」と言い合ったと書かれています。パウロは人殺しであり、それゆえ「正義の女神」がマムシによって罰を与えたのであると判断したようです。ところがしばらくパウロを見ていても、パウロが何の害も受けない。それで島民たちは考えを変え、今度はパウロは「神様だ」ということになったという。
 もちろん、パウロがマムシにかまれても害を受けなかったのは、主のお守りであるのですが、島民たちはパウロが神であると思った。さっきはパウロが殺人犯であると言い、今度は神様であるという。島民の評価は正反対に変わりました。たいへん分かりやすいと言えば分かりやすいのですが、要するに御利益信仰、偶像礼拝の信仰がよく表れていると言えます。自分たちから見て良いことが起きればそれは神様のおかげであり、悪いことが起きればそれは神様の罰であるという。あるいは、こちらの神様、あちらの神様と、この世の御利益がありそうな方にコロコロ変わる。定まらないのですね。これではほんとうの神様が分かりません。
 それに対して、この航海を通して、この嵐の中にさえ神のお守りと恵みと導きがあったことを見てまいりましたが、嵐が起こったから神様を信じるのをやめたというのでは、神の奇跡を体験することができません。この航海で示されたように、絶望的な嵐の中で神が御使いを遣わして神の言葉を語られ、嵐を乗りこえて陸地に着くことができたという奇跡を体験する。それはパウロたちが主を信じ続けたからです。
 ここに御利益次第で神様をとっかえひっかえする偶像礼拝の信仰と、真の神を信じる信仰の違いがあります。私たちはほんとうの信仰の世界に立っている。何があっても主にすがり、主を信頼し続ける者でありたいと思います。
 
     幼き子どもの信仰が
 
 最近、あることのために富山で、幼児教育を通してキリスト教伝道のために生涯をささげた、カナダメソジスト教会の婦人宣教師、マーガレット・エリザベツ・アームストロング先生のことをあらためて調べているのですが、その中に面白いことが書かれていました。富山県とについてアームストロング先生は、おそらく日本でもっとも仏教が熱心な県であろうと書いています。仏教も浄土真宗ですね。特にアームストロング先生が来日した明治の終わり頃は、まだまだキリスト教に対する偏見が根強く、アーム先生もずいぶん妨害や迫害に遭ったようです。そういう中で幼稚園を設立して少しずつ伝道を進めていきました。
 そしてこれは1914年(大正3年)の記録ですが、ヨシコさんという園児がいたそうです。そしてヨシコさんは、熱心な幼児クリスチャンでした。そしてある時、ヨシコさんのおじいさんがこう言ったそうです。「ヨシコ。お前はイエスさまを信じているから、仏様は拝まないだろう。そうすると、おじいちゃんとヨシコは同じ天国に行けないんだね」と。するとヨシコさんは即座に答えたそうです。「それじゃ、おじいちゃんもイエスさまを信じたらいいじゃない?」「ああ、それはできないよ。ヨシコ」おじいちゃんは孫の単刀直入な返事におろおろして叫びました。すると、「じゃあ、おじいちゃん、しかたがないわね」と孫のヨシコさんは答えたそうです。するとそのヨシコさんの母親が間もなく洗礼を受けたそうです。
 何があっても揺るがない信仰。幼い幼稚園児に教えられた思いです。
 
     真の主人公である神
 
 さて、島の人々はパウロが神様だと言ったとありますが、パウロが主人公なのでしょうか?パウロが島の長官の父親のために祈って手を置いて癒やしたこと、また島の他の病人たちを癒やしたことが記されています。そして島の人々はパウロたちに深く敬意を表したことが書かれています。
 するとパウロが主人公であるかのような印象を受けますが、しかしもちろんこれらの癒やしは聖霊の働きによるものです。パウロは島の長官の父親のために祈って手を置いたとあります。主に祈って癒やしていただいたのです。すなわち、これらの出来事の真の主人公は神であり、主イエスであることを覚えなくてはなりません。
 10節に、島民が「わたしたちに深く敬意を表し」たことが書かれていますが、「わたしたち」とありますから、これはパウロだけではなく、パウロに主治医として同行しているルカ、そしてパウロを支えるためにあえてパウロの奴隷として登録して同行しているアリスタルコの三人に対して島民が敬意を表したということになるでしょう。パウロは祈って聖霊の賜物によって病人を癒やし、ルカは医者として病人を診察し、アリスタルコも自分のできる奉仕をいっしょうけんめいしたに違いないのです。そのように三人のキリスト信徒がそれぞれ奉仕をした結果、島民がキリスト信徒に敬意を表したということになります。
 そしてそのことが、難破した船に乗っていた276人がこのマルタ島で冬の間三ヶ月間過ごすことができた理由であると言えます。
 そして神が船をマルタ島に漂着させた理由の一つは、パウロとルカとアリスタルコの三人を通して、キリストの福音の種を蒔かせた、伝道させたということにあったと言えるでしょう。こんにち、マルタの国民のほぼ全員がキリスト教徒であるそうです。
 このようにしてみますと、どうなることかと思ったこのたびの航海も、神の御手の中にあったと言うことができます。そして神のなさることに一つのむだもないことを知ることができます。


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