2017年8月13日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 使徒言行録27:27〜44
    創世記41:39〜40
●説教 「真の船長」
 
     終戦記念日
 
 今年も終戦記念日がやって来ます。先日、産経新聞のインターネットサイトに、印象的な記事が載っていました。その記事の見出しは「『汝の隣人を愛しなさい』原爆投下正当化する発言に心がざわつき語り部に、それでも憎しみは生まれず‥‥広島の原爆証言者」となっていました。
 記事を読むと、それは広島市の山本明子さんという83歳の方が、母校の広島市立古田小学校の児童たちに被爆体験を語ったということについてでした。72年前、11歳だった山本さんは爆心地から約4キロの古田国民学校の校舎の2階の窓から白い閃光を見たそうです。その閃光の色は、赤、オレンジ、紫色へと変わり、キノコ雲が立ち上り、気がつけば熱戦の熱さのために自分の腕をさすっていたそうです。山本さんは、お父さんはすでに他界していて、お母さんと兄姉の5人家族だったそうです。原爆投下時、中学生だったお兄さんは爆心地から900メートルのところで建物疎開作業に動員されていたそうで、爆風で校舎が倒れ下敷きになったそうです。さいわい助け出されましたが、その後髪の毛が抜け、体に紫の斑点が現れ、原爆から22日後に亡くなったそうです。
 山本さんは、戦後、英語の教師になることを夢見てカトリックの女子校に進学し、心に他国への憎しみは生まれなかったそうです。被爆体験を語る活動を始めたのは10年ほど前からだそうで、知人の女性が「原爆が落ちたから他の多くの人が死なずにすんだ」と原爆投下を正当化する発言をした時、心がざわつき、「伝えるべき記憶がある」と思い、断り続けていた語り部を引き受けたのだそうです。
 講演では、子どもたちに、人を赦すこと、知識や考えることの重要性を説くそうです。そしてこう語っておられます。「たくさん、たくさん、つらいことはありました。それでも『汝の隣人を愛しなさい』です。」その聖書の教えこそ、世界平和の礎であると確信しているそうです。耳を傾けてくれた子どもたちにも、必ず思いは通じたと信じている、と書かれて記事は終わっていました。(産経WEST2017.8.8)
 人を赦すというのはとてもむずかしいことです。それは神の助けなくしてできません。しかしここにも御言葉が生きていることを知ることができ、感謝でありました。
 
     神の言葉を語るパウロ
 
 ローマに向かう船。途中のクレタ島で、パウロの警告を無視して船は出航しました。その結果、すさまじい暴風に遭遇し、船は海の上で木の葉のように揺れて漂流いたしました。船と言えば木造の帆船で、レーダーも羅針盤もない時代。死と隣り合わせの危険の中で、なすすべがありませんでした。人々は、船を軽くするために積み荷を捨て、続いて船具を捨て、嵐と不安のために食事を取ることもできず、絶望していました。
 そういう中でパウロが神の御使いを通して主のメッセージを聞いたのが前回の個所でした。パウロは「元気を出しなさい」と、力強く船に乗っている人々に語りかけました。パウロがそのように語ることができたのは、主の言葉を聞いたからです。パウロは、「皆さんのうち誰一人として命を失う者はない」「私たちは必ずどこかの島に打ち上げられるはず」と語りました。
 天使が現れてメッセージを語った、などということをふだん聞いたとしたら、人々は一笑に付して耳を傾けることはなかったでしょう。しかし今や、人間のできることは尽きてしまい、助かる望みは消えていた。その時初めて人々は、神の言葉に真剣に耳を傾けたに違いありません。
 
     実質リーダーとなるパウロ
 
 暴風が吹き荒れ始めてから14日目の夜。船員たちは、どこか陸地に近づいているように感じました。少しずつ水深が浅くなっていく。そのため、船が暗礁に乗り上げて壊れてしまうことが心配されます。それで船員たちは、錨を投げ込みました。そしてさらに船員たちは小舟を海におろし、自分たちだけ船を脱出しようとしました。
 パウロはそれを見つけたのです。それでパウロは囚人たちの護送隊長である百人隊長と兵士たちに、「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなた方は助からない」と告げました。船を操縦する船員たちが逃げてしまえば、船を操縦することができなくなるからです。それでパウロの言葉を聞いた百人隊長は、小舟の綱を断ち切って流してしまいました。
 このあたりを読んでいると、まるでパウロが船長にでもなったかのように見えます。ローマに護送される一囚人に過ぎないパウロが、冷静に状況を見て判断している。そして的確な指示を出し、ローマの百人隊長がそれに従っているのです。
 さらに、夜が明けるとパウロは人々に食事を取るよう勧めました。暴風が始まって以来、人々は14日間も食事をとることが出来なかった。それは海が荒れて船が揺れ、食事どころではなかったということもあるでしょうが、本当のところを言えば死の恐怖と隣り合わせで不安のために食事ものどを通らなかったということでしょう。しかしパウロは神の言葉を聞いていたので、助かることを確信していた。それで食事を取ることを進めることができたのです。
 そしてパウロは、まず自分自身が食事を取った。35節を見ると、パウロはパンを取り神に感謝の祈りをささげてからそれを裂いて食べ始めたとあります。いつものように食前の感謝の祈りを神さまに献げてから、何ごともないかのようにふつうに食事を取った。それは周りの人々にどれほどの慰めと励ましとなったことでしょう。ちなみに、内村鑑三は、食前に神に祈る習慣は、クリスチャンにとってもっともすばらしい習慣であると言いました。
 神を信じて食事を取る。人々はその姿に励まされて、食事を取りました。そして十分に食べてから、食料である穀物を海にしてて船を軽くしました。
 
     マルタ島に上陸
 
 夜が明け、陸地が見えました。それがどこであるかは分からない。しかしとにかく陸地が見えたのです。そして砂浜のある入江が見えた。それでそこに船を乗り入れようとしましたが、船は暗礁に乗り上げてしまい、さらに荒波のために船は浸水し始めました。あとは乗船客は岸まで自力で泳ぎ着く外はありません。
 船にはパウロの他にも囚人が乗っていました。それら囚人は、おそらく足を鎖でつながれていました。囚人が泳いで岸にたどり着くには、その鎖を外さなければなりません。しかしそのために囚人が逃げていってしまえば、その責任を取らされるのは兵士たちということになります。それで兵士たちは囚人を殺すことにしました。しかしそのとき、百人隊長はパウロを助けたいと思いました。百人隊長はここまでパウロを見てきて、このパウロには神さまがついていることを信じるに至ったのだと思います。それで兵士たちの行動をとどめ、パウロを信じて囚人たちも含めて皆で岸まで泳ぐこととしたのでした。そして、乗客乗員合計276名すべてが助かったのでした。主がパウロにおっしゃったとおりでした。
 しかも、人々が上陸した島はマルタ島であったのです。すなわち、目的地であるローマのあるイタリアのすぐ近くに流されていたのです。この点でも神のお守りといわなければなりません。
 
     小数のキリスト者の力
 
 さて、これらの出来事を読みまして、私たちは非常に励まされるところがあると思います。日本のキリスト信徒の数は、長い間人口比約1%であると言われています。もちろんこの1%という数字は洗礼を受けている人の割合ですから、他の宗教と数え方が違うわけですが、それにしても1%という数字は非常に少ない数には違いありません。
 さて、パウロの乗っていた船には何人のキリスト信徒がいたでしょうか?‥‥パウロと、ルカとアリスタルコの3人であると思われます。そして船には全部で276人乗っていました。そうするとこの船のキリスト信徒の割合も約1%ということになります。1%と言うと100分の1であり、非常に少ない数です。しかもパウロは護送中の鎖でつながれた一囚人に過ぎず、逃亡の恐れがあると見えれば殺されてしまうという、たいへん弱い立場に置かれています。他の二人のキリスト信徒、ルカとアリスタルコ。ルカは持病を抱えているパウロの主治医ということで同行を赦してもらい、アリスタルコはおそらくパウロの奴隷として登録し、同行を許可されたと考えられます。もちろんアリスタルコはパウロの奴隷などではありません。しかしアリスタルコは、ローマに護送される伝道者パウロのために、そして主のために自分のできることをしたいという思いから、進んでパウロの奴隷となった。こういう3人です。
 そういう1%です。あまりにも無力な1%です。しかしそのわずか1%の存在が、大きな力を発揮しました。囚人に過ぎないパウロが、真の船長のように尊敬と信頼を集め、何をなすべきかを示し、人々を指導するに至りました。そうして人々は全員助かったのです。もしパウロたちがいなければ、この船に乗っている二百数十名の人々は助からなかったのです。こうしてみると、たった1%であるけれども、その1%が神を信じる人であるという時に、非常に大きな力を及ぼすことが分かります。
 なぜそのように大きな働きをすることができたのか? それは、パウロが神の言葉を聞いたからです。それゆえ、私たちがこのように毎週礼拝をし、また日々聖書を読んでいるということにも大きな意味があることが分かります。それは自分自身の魂を養うことにとどまらず、この世界に生きている人々を救いに導く者として用いられることを教えています。
 パウロ以外の二人、ルカとアリスタルコは何をしていたのか? おそらく祈っていたに違いありません。祈りは全く目立たない行為です。しかしこの二人の祈りがあって、パウロが神の言葉を聞くことができ、そして用いられたのです。
 
     讃美歌520番「静けき川の岸辺にも」
 
 このあと歌います讃美歌520番「静けき川の岸辺にも」の歌詞を作ったのはホレイショ・スパフォードという19世紀の米国の人です。彼は法医学の教授としてシカゴに住んでいた時、シカゴの町の大火によって家財のほとんどを失い、その後1873年には妻と4人の娘が乗った船が大西洋で英国の船と衝突して沈没し、4人の娘を一挙に失いました。奥さんは奇跡的に救助されました。彼はすぐに別の船に乗って、現場に行きました。海は荒れていました。その場所で、彼が涙ながらに詩を作りました。それがこの520番の歌詞です。神への信頼に満ちた詩であります。
 たとえ大空は巻き去られ、地は崩れ、この世の人々が恐れ慌て騒ぐとも、神の民は平安である。私たちに神の言葉が与えられていることの大きな意味を思い、感謝いたします。


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