2017年7月23日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編14:2
    使徒言行録26:19〜32
●説教 「ドアに立つ人」
 
     日野原重明さん
 
 皆さんご存知のように先週18日、日野原重明さんが逝去されました。105歳でした。ご本人は当教団の教会の信徒でした。お父様はメソジスト教会の牧師でした。日野原さんは医師として聖路加国際病院を中心に働かれたほか、各方面で活躍されたことはご存知の通りです。
 それらのお働きとは別に、1970年、過激派である赤軍派が起こした「よど号」ハイジャック事件に遭遇されました。当時、私は子どもでしたが、テレビに釘付けになったことを覚えています。日野原さんは、たまたま「よど号」に乗っていたのです。若い過激派のメンバーが飛行機の乗っ取りを宣言し、北朝鮮の平壌に行くと言いました。爆発物を体に巻き、日本刀を手にしていたそうです。たいへんなことになったと思ったそうです。そのとき脳裏に、聖書マタイによる福音書8:26の「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」という御言葉だったそうです。そしてもう一つ、尊敬していたウィリアム・オスラー医師の言葉「医師はどんなときでも平静の心を持つべきだ」であったそうです。
 乗っ取り犯は、朝鮮海峡上を飛んでいるとき、乗客へのサービスのつもりだったのでしょうか、「機内に持ち込んでいる赤軍機関誌と、その他の本の名を放送するから、何を読みたいか手を挙げよ」と言って金日成や親鸞の伝記、伊東静雄の詩集、次いでドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』などを挙げたそうです。しかし、乗客の誰も手を挙げませんでした。日野原さん一人だけが、『カラマーゾフの兄弟』を借りたいと手を挙げたら、その文庫本5冊を膝に置いてくれたそうです。本を開くと冒頭の言葉が目に飛び込んできました。「1粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ1つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」(ヨハネによる福音書12章24節)。日野原さんは、「機内へ強行突入があれば、私は死ぬかもしれないが、その死は何かの意味を持つのではないか……。先の2つの言葉と、文庫本を膝の上にして、私の気持ちは少し楽になったのです」と生前のインタビューで述べておられます。(PRESIDENT online)
 今出てきた2つの聖書の言葉は、いずれもイエスさまの御言葉です。御言葉の力というものをあらためて思わされました。同時に、自分の死はどのような意味を持つのだろうかと考えさせられました。そして、主にあって死ぬならば、それはムダにならない、主が必ず用いてくださるに違いないと。
 
     パウロ
 
 地中海沿岸のカイサリアの町で、囚人として監禁されているパウロ。ローマ帝国の総督によって引きだされ、アグリッパ王夫妻とカイサリアの名士たちの前で弁明の機会を与えられました。そしてパウロが語り始めた弁明は、弁明と言うよりはキリストの証しであり説教となりました。かつては熱心なユダヤ教徒であり、キリスト教徒を迫害さえしていた自分が、天から現れたいケルイエス・キリストに出会ってしまった。その事実を述べたのでした。
 そしてきょうの個所に続きます。19節「天から示されたことに背かず」とパウロは語ります。すなわち、今自分がイエス・キリストの福音を宣べ伝えているのは、自分の意志でしているのではなく、神の意志であるということです。そして22節で述べていることは、聖書に書かれていること以外、自分は何も語っていないということです。すなわち、自分は何か作り話やおかしな教えを宣べ伝えているのではない。聖書にしたがって、天から、すなわち神から示されたとおりのことを宣べ伝えているのである。それが、メシア、すなわちイエス・キリストの復活の知らせであり、福音であるということです。
 言い換えれば、全聖書は、そのことを指し示しているのであるということです。
 
     フェストゥスの反応
 
 ここまで聞いて、ユダヤ総督のフェストゥスは大声でいいました。「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」何を頭がおかしくなったと思ったかは、パウロがイエスさまの復活を語ったからです。十字架で死んだイエスがよみがえった。そんなことは信じられないし、頭がおかしいのであると。
 それに対してパウロが反論しています。25節です。そこでパウロは「真実で理にかなったことを話しているのです」と述べています。この「真実で理にかなった」という言葉ですが、「真実」とはギリシャ語で「アレセイア」という言葉で、「本当のこと」「ありのまま」というような意味です。また「理にかなった」は、「正気」とか「まじめ」というような意味です。すなわち、パウロは自分は「本当のことをまじめにそのまま語っている」と言っているのです。
 それは確かにその通りで、パウロはかつてはキリスト教徒を迫害していたわけです。「イエスはよみがえって生きている」と言うキリスト教徒を許すことができなかったのです。ところがそのパウロ自身が、まばゆい光の中に現れたイエスに出会い、語りかけられ、新しい使命まで与えられてしまったのですから、これはパウロが何か考えてイエスさまを信じるようになったわけでもなく、勉強しすぎてそう考えるに至ったわけでもなく、紛れもない事実であるわけですから、そうとしか言い様がないものです。
 
     アグリッパ王の反応
 
 もう一人のアグリッパ王の反応はどうだったでしょうか?
 彼は「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか」と言っています。この言葉は、むしろアグリッパ王がかなりパウロの言葉に動揺して、引き込まれそうになっていることの裏返しの言葉であると言えましょう。つまり「あやうくキリストを信じるところであった」というような感じに聞こえます。
 パウロの話を聞いていて、神の光に照らされる思いがしたのでしょう。そして自分の闇が明るみに出されるようで、恐れを感じたのではないかと思います。アグリッパ王は、この席にベルニケと共に列席しているわけですが、前にも申し上げたように、ドルシラは自分の妹であるのに妻のようにしている。そしてこのドルシラは、ローマ帝国の政府高官や帝国内の小国の王と結婚離婚を繰り返し、このときは兄のアグリッパと同棲している。そしてやがてローマ皇帝のウェスパシアヌスのそばめとなります。「小クレオパトラ」と言われた女性です。そういう自分の妹と同棲している。そのような自分の闇が、神の光の下に明るみに出されるような気がしたのではないでしょうか。人は神を信じた時に、自分の罪が見えてきます。
 しかも、パウロの話を聞くと、かつてキリスト教徒を激しく迫害したパウロが、そういう赦されざる罪を犯したパウロを、天から現れたイエス・キリストは赦したという。ということは、この自分の罪も赦されるのか?‥‥そんなことを思ったのかも知れません。これらは私の想像ですが。いずれにしろ、アグリッパは、なにかこの進行の話に引き込まれるような感じがしたのではないでしょうか。それが「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか」という言葉に表れているように思われます。
 
     入り口に立ちながら入れない人々
 
 このように見てまいりますと、ここにイエス・キリストの福音を聞きながら、キリスト信仰の入り口に立ちながら、その入り口の中に入らない人の姿が見えてきます。
 一人は総督のフェストゥスであり、もう一人はアグリッパ王です。フェストゥスは、パウロの語るイエス・キリストのよみがえりというのはありえないと言い、アグリッパは信仰の手前まで来ながら、自分の立場と倫理的な問題でUターンしてしまっています。そしてこれは、こんにちもキリスト信仰に踏み出せない現実の問題であるということができます。
 まず、フェストゥスがパウロに対して「お前は頭がおかしい」と言っているように、死人の復活などありえない、非現実的、非科学的である、だから信じられないということを考えてみましょう。なるほど、十字架につけられて死んで墓に葬られたはずのイエスさまが、よみがえって、さらに天に昇られ、今も生きておられる。それはありえないような話しです。
 しかし、それをありえない、非科学的であるという現代日本人が、最先端のハイテク工場を造るという時に神主さんを呼んできて地鎮祭や起工式をおこなってお祓いをする。海開きとなれば、やはり神主さんを呼んできてお祓いをする。またテレビといいインターネットといい、必ずと言っていいほど占いコーナーがあります。それらは非科学的ではないのか?
 また復活がありえない、非科学的であるというけれども、その科学の話を聞いていると、本当に不思議でありえないようなことに満ちているように思われます。たとえば、この宇宙がどうやってできたのか。現代科学では、宇宙は今から百数十億年前に突然発生したと言います。宇宙は最初、限りなく小さく、野球のボールよりも、ビー玉よりも小さく、一つの点から始まった。それがビッグバンという大爆発によって始まり、宇宙は急激に膨張して大きくなり、今も果てしなく膨張を続けているのだと説明されます。そして、銀河系も太陽系も地球も、何もなかったところから、物質が集まってできていったと言います。‥‥そのようなことを私たちは科学者から聞いて知っていますが、考えてみればほとんど信じられないようなことです。
 ではなぜ、なにもなかったところからそのようにして宇宙ができたのか? 誰が答えることができるでしょうか。それは科学の話しですが、フェストゥスが聞いたら、やはり同じように「学問のしすぎで頭がおかしくなったのだ」と言うことでしょう。
 なぜ宇宙が存在するのか? なぜ太陽が存在し、地球が存在するのか? そしてなぜ私たちが存在するのか? なぜ私たちは生きているのか? 偶然存在し、偶然死んでいくのか?
 私は、それらの問いに対しては、神さま抜きで答えることはできないと思います。聖書は、神が宇宙をお造りになり、存在することを欲し、すべてのものをお造りになり、いのちを与えられたと記します。であるならば、命を与えられた神は、死んだ者をよみがえらせることもおできになるはずです。23節でパウロは、「つまり私は、メシアが苦しみを受け、また死者の中から最初に復活して‥‥」と語っていますが、「最初に復活して」という言葉のとおり、イエスさまのよみがえりは、あとに続く復活があるということです。永遠の命を指し示しているのです。
 パウロはフェストゥスに対して「真実で理にかなったことを話しているのです」と言いましたが、神の存在は理にかなったことに違いないと思います。
 
     決断の問題
 
 次にアグリッパ王です。アグリッパは、キリスト信仰の入り口まで来たと思われます。しかしその扉を開いて入ることをしなかった。理由は定かではありませんが、やはりユダヤ人の王という立場があったことでしょう。父アグリッパ1世は、教会を迫害し使徒ヤコブを殺害した人でもあります。またもう一つ、先ほど述べましたように、アグリッパ自身の倫理的問題があったでしょう。他にも理由はあると思いますが、それらがネックとなってアグリッパ王は、信仰の世界に踏み出すことはできなかったと想像することができます。
 清くならないと救われないのか、という問題がそこにも見えてきます。
 このことについては、使徒言行録が一貫して述べていることです。すなわち、まず信じるということが先です。なぜならば、罪人である自分がこのままイエス・キリストを信じることによって救われるということだからです。それが福音です。良い知らせです。清くない、罪人であり、救われる値打ちもなく、良いことをしてきたわけでもない。にもかかわらず、そんな自分が救われる。
 このことが揺らいだ時は、十字架にかかられたイエスさまを思い出したいのです。十字架で苦しみを受けられたイエスさまを。主の十字架は何のためであったのか。この救われるはずのない私を救うためではなかったのか、と。思い起こしたいのです。
 まず、このキリスト・イエスさまを信じる。そこから道が開けていきます。


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