2017年7月16日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書9章1
    使徒言行録26章1〜18
●説教 「闇から光に」
 
     ギデオン協会全国大会 in 横浜
 
 先日、7月7日(金)から横浜ローズホテルでギデオン協会の全国大会が開かれました。その初日の牧師招待愛餐会に出席してまいりました。本日、この礼拝の最後の所でギデオン協会のかたからご挨拶をいただきますが、ギデオン協会は学校やホテルに聖書を寄贈し、また学校の校門などで聖書を配布している国際団体です。
 その牧師招待愛餐会のとき、ある教会の牧師が証しをされました。それは、その先生が中学生か高校生の時だったか忘れましたが、学校の校門でギデオン協会の人が聖書を配っていたのを受け取ったそうです。それが人生で初めて手にした聖書だったそうです。その後、学生の時に、教室に入るとなぜか知らないけれども、ビリーグラハム(アメリカの大衆伝道者)の大会のチラシが机の上に置いてあったそうです。その先生は、その最初にもらった聖書と、ビリー・グラハムの大会のチラシを持参し、それを手にしておっしゃいました。「この二つがわたしをイエス・キリストのもとに導きました。もしあの時ギデオン協会の方が聖書を配っていなければ、そしてこのチラシが教室に置いてなかったら、わたしは信仰に至ることができなかった」と。
 チラシ1枚。多くの場合は捨てられる運命にあるのかもしれません。しかし彼にとっては、その1枚のチラシがイエス・キリストのもとへと導いたのです。
 
     パウロの弁明
 
 引き続き、法廷に立たされるパウロの場面です。この法廷は、法廷と言うよりも見世物のような場となってしまっており、ローマ帝国の総督フェストゥスと、領主アグリッパとその妹であり妻でもあるというベルニケ、そしてカイサリアのおもな人々の列席の前にパウロは立たされています。そしてアグリッパ王がパウロに発言を促したので、パウロは弁明を語り始めます。
 しかし内容は、弁明と言うよりも説教というべきものとなりました。それは、このあとの28節で、パウロの話を聞いていたアグリッパ王が「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか」と言っていることからも分かります。パウロの話を聞いていたアグリッパは、自分がその話に引き込まれ、イエス・キリストを本当に信じる手前まで行ってしまったようなのです。
 すなわちパウロは、自分が無罪を勝ち取って助かることよりも、この場にいる人たちが一人でもイエス・キリストを信じるようになるように、そういう思いで語ったと言えましょう。パウロにとっては、ここもまたキリストを伝道する場であったのです。そのことは、パウロが語り始めた言葉からも分かります。パウロは、アグリッパ王に対して感謝をし、丁重に語りかけています。それはなにか媚びを売っているのではありません。ここに列席のアグリッパ王、総督フェストゥス、そしてカイサリアの町の上流階級の人々の何とかイエス・キリストのことを伝えようという気持ちの表れです。
 ここで語っているパウロの弁論の要点は以下の4点であると言えましょう。すなわち、
 @かつて自分は忠実なユダヤ教徒であったこと。
 Aしかもキリスト教徒を敵視していたこと。
 Bそんな自分にキリストが現れたこと。
 Cその結果自分は変わったこと。
 それらの事実だけを述べていることが分かります。パウロはなにか自分の考えや思想を押しつけようというのではない。自分に起こった事実だけを述べているのです。
 
     希望
 
 さて、そのパウロの弁論の中で、6節で「望み」、7節で「望んでいます」、そして「希望」という言葉が使われています。これらはいずれも動詞か名詞かの違いであって、同じ言葉です。パウロは6節で「今、私がここに立って裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に望みをかけているからです」と語っています。そしてその希望とは、「神が私たちの先祖にお与えになった約束」であり、それはすなわちメシア、救い主が来るということに他なりません。
 そしてメシアについて、ユダヤ教徒は「メシアはまだ来ていない」という。しかしキリスト信徒は、「メシアは来た。イエスさまがその方だ」と言っている。その違いにすぎないということです。そしてキリスト信徒が、「メシアは来た。イエスさまがその方だ」と言っているのは、十字架につけられて死んだイエスさまが復活されたということにその根拠があります。
 そしてパウロは、そのユダヤ教徒のほうだった。メシアはまだ来ていないのであり、十字架で死んだイエスがよみがえったというキリスト教徒はデタラメを宣伝していると考えていました。ところがそのパウロは、キリスト・イエスさまとの出会いによって、キリスト信徒となったのでした。
 パウロは、生きておられるキリストと出会ってしまったのです。そのように、出会いというのは自分にとって動かしがたい事実ですから、どうにもしようがありません。その事実を語るのが証しであります。
 
     生けるキリストに捕らえられ
 
 それでパウロはその事実を証しいたします。イエスさまとパウロの出会いが書かれているのは、この使徒言行録で3回目です。最初は9章で、キリスト信徒を迫害していたパウロが実際天来の光の中に現れたキリストと出会った場面。次が22章で、パウロがエルサレムの神殿でユダヤ教徒によって騒動に巻き込まれ、ローマ帝国の千人隊長に身柄を確保される。そのさなかで人々に向かって語った場面です。そして3度目が今日です。
 それぞれ見比べてみると、ちょっとずつ違いがあります。これはどれが正しくてどれが間違っているということではありません。それぞれ、キリストとの出会いの一部始終を語っているのではない。それぞれの場面で、ポイントの出来事だけが記されていると考えるべきです。
 そうしてみると、きょうの個所では14節に書かれているイエスさまの言葉は、今まで明らかにされていなかった言葉です。すなわち「トゲの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」という言葉です。「とげの付いた棒」というのは何かというと、これはたとえば畑を耕す鋤を引く牛の後ろ足のところに取りつける棒だそうで、牛が反抗して後ろ足で主人をけろうとすると、このとげの付いた棒に当たって痛い目に遭う。それで牛は主人をけらなくなるというものだそうです。私が子どもの頃、まだ牛が田んぼを耕していました。わたしの家の裏が田んぼで、農家の方が牛に鋤を引かせて田んぼを耕しているのをじっと見ていたことを思い出します。自分もあれをやってみたいなあ、などと思っていました。
 それはともかく、つまりこの「とげの付いた棒」というのは、牛に対して逆らってもムダであり、自分が痛い思いをするだけだぞ、ということを教育するためのものであると言えます。そうすると、天からの光の中に現れたイエスさまが、「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」とパウロに声をかけられた言葉に続いて、「とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」とおっしゃったのは、「逆らってもムダだ」とおっしゃっているようにも聞こえます。
 それまでキリスト信徒を激しく迫害し、ひどい目に遭わせてきた。そのパウロに対して、「お前が迫害しているイエスがわたしだ。もう逆らってもムダだ」とおっしゃっているのではないかと思います。半分脅迫のようですが、イエスさまはここでパウロを罰するためではなく、逆にパウロを救い、パウロをキリストの伝道者として用いるためにこのようなことをおっしゃっているのですから、驚くべきキリストの愛であると言わなければならないでしょう。それまでキリスト信徒を激しく迫害していた者を、赦し、さらにそのものを使ってキリストを宣べ伝えさせる。こんなことをなさるのは、イエスさま以外にはおられないでしょう。
 とにもかくにも、イエスがよみがえったなどというのはキリスト教徒がでっち上げたウソであると思っていた、そのイエスさまが自分の前に現れ、声をかけられ、赦し、使命を与えられたのですから、これはもう信じる他はなかったのです。他に選択肢はありませんでした。まさに、「とげの付いた棒をけると、ひどい目に」遭いかねないのです。
 私たちも、本当はキリストを信じる以外に選択肢はないのではないでしょうか。そのために主は、わたしたち一人一人を導き、キリストのもとへと招いておられる。それになかなか気がつかないだけです。
 
     闇から光へ
 
 そのイエスさまはパウロにおっしゃいました。18節です。「それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。」
 考えてみれば、パウロ自身が闇の中にいたと言えます。ユダヤ教の厳格な派であるファリサイ派に属し、熱心に神を信じていた。しかし熱心になってもなっても満たされない。平安がないのです。
 私の最初の任地である輪島教会で牧会をしていた時、あるときかつて輪島教会で役員をしていたが、前任者の時に教会を離れた人が戻ってきた、ということがありました。その方は教会を離れる時、「教会には聖霊がない」と言って、違うキリスト教的宗教団体に行ってしまった人でした。しかしその方が十数年ぶりに、心も体もボロボロになって戻ってきました。聞けば、その団体ではがんばってもがんばっても平安がなかったということでした。
 パウロもまじめにユダヤ教を信仰していたのです。熱心に信仰していたのです。でも平安がなかった。それで、さらに異端者であり分派と見られていた新しく出てきたキリストを信じる者たちを迫害した。それでも平安がない。それで激しく迫害していた。でも平安がない。それは救われていない姿です。
 しかし、今のパウロはどうか? 今法廷に立っているパウロはどうか? ここに、神にすべてをゆだねて、平安なパウロの姿があります。不当逮捕されても怒り狂うわけでもない。総督の都合で法廷が開かれず、2年間も監禁され放置されても絶望するわけではない。パウロの弁論を見ても、自らの無実を訴える言動はほとんどなく、ただキリストを証しするのみ。
 パウロの手紙を見てみると、パウロの心境が良く分かります。例えば、フィリピの信徒へ手紙。これはこのカイサリアの獄中で書かれたという説もありますが、このあとローマに護送されてから書いたという説が有力らしいですが、いずれにしてもこの逮捕監禁の流れの中で書かれた手紙です。そしてその手紙は、前にもこの礼拝で学びましたように「喜びの手紙」と呼ばれています。その手紙の中で、パウロに対してねたみ、中傷する人がいても「とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」(1:18)と書いている。さらに、「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」(1:20)とも書いています。そして「では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい」(3:1)と述べ、「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」(4:11)と述べている。
 何という平安!何というキリストへの信頼!ここに救われた姿があります。ファリサイ派だった頃の殺気だった姿はどこにもない。まさに、キリストによって闇から光へ移されたのだと言えるでしょう。
 わたしたちも、キリストによって闇から光へ移され、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかることができる。主イエスの恵みを分け与えていただける。感謝であります。


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