2017年7月9日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 列王記上18章17〜18
    使徒言行録25章13〜27
●説教 「主は今生きて・・・」
 
     スペンサー・パットン投手
 
 皆さまの中には、プロ野球の横浜ベイスターズのファンの方も多いのではないかと推察いたします。クリスチャン新聞の6月18日号に、今年からアメリカのプロ野球大リーグから横浜ベイスターズに移籍したピッチャーのスペンサー・パットン選手に関する記事が載っていました。それは、SHINE Japan というキリスト教の団体が6月3日にトークショーを実施し、そこにパットン選手も招かれ、インタビューに答えたということでした。
 その中で、以下のようなやりとりが載っていました。
Q.「人生で何を大切にしているか?」
A.「家族(妻と子どもたち)。また、自分の人格。自分はブランドで、そのブランドを世の中に見せるわけだから、ネガティブなものではなく、いいものを見せたい。その二つよりもはるかに大切にしているのはイエス・キリストとの関係で、そのことを周りの人に伝えることを大切にしている。」
Q.「イエス・キリストと出会ったのはいつか?」
A.正確には2012年。クリスチャンの家庭で生まれ育ったが、2011年までは、イエス・キリストとの個人的な関係は持っていなかった。子どもの時に洗礼を受け、神さまを信じていたけれど、神さまに頼って生きてはいなかった。いろんなつらい出来事が私の人生に起こったことによって、神さまを求めるようになった。結局分かったことは、神さまがいつも私を探し求めているということ。それが分かった時、神さまを信じ従うようになった。」
 たいへん印象的でした。このインタビューの中で、パットン投手は「イエス・キリストとの個人的な関係」と語っています。「イエスさまとみんな」という関係ではなく、「イエスさまと私」という個人的な関係。「神さまがいつも私を探し求めているということ」このことが分かった時に神を信じて従うようになったと言っておられます。「神さまが全人類を」というよりも、「この私を」探し求めておられる。この私という一人を心に留めてくださる。‥‥そういう驚くべき事実があります。
 考えてみれば、使徒パウロもイエスさまとの個人的な出会いによって、キリスト教会を迫害する者から、イエス・キリストのしもべへと大転換をしたのでした。
 
     領主と総督の会話
 
 前回の所で、パウロは総督に対して、自分の裁判をローマ皇帝に上訴することを求め、それが認められました。ローマ帝国の首都ローマへの道が開かれたのです。
 しかしそのパウロの容疑である罪は何なのかというと、それが困ったことにはっきりしないのです。26節27節を見ますと、総督であるフェストゥスが、パウロの罪状がまだ決まっていないので、すなわち何の罪に当たるかがまだ決まっていないので、罪状書きを書くために法廷を開いたことが分かります。これは全く本末転倒だといわなければなりません。容疑である罪があり、それで逮捕拘留されるのがふつうであるはずですが、パウロの場合はまず逮捕拘留され、それから何の法律に触れるのか決めるというのですから。このことをとっても、この裁判がきわめて政治的な裁判であることが分かります。
 きょうはまず、新任の総督フェストゥスがアグリッパ王と面会したことから書かれています。フェストゥスという総督と、アグリッパという王様と、どう違うのかということですが、総督というのはローマ帝国の皇帝から現地に派遣された官僚です。いっぽう、国王は、地元出身の領主です。日本の江戸時代で言えば大名であると言えましょう。もっとも、この時代はユダヤはローマ帝国の直轄地になっていたようですから、もっぱら総督の管轄ということになります。いっぽうアグリッパは、新任の総督であるフェストゥスの就任を祝って表敬訪問したということでしょう。
 そしてアグリッパ王は、ベルニケという妻同伴でやって来ました。このベルニケという女性ですが、この人がまた男性遍歴を重ねた人なのです。
 彼女は「小クレオパトラ」と言われたそうです。最初、ローマ帝国の官僚と結婚しました。しかし13歳の時に、今度はおじのヘロデ・カルキスと結婚します。その後、兄のヘロデ・アグリッパ2世、それはこのアグリッパ王のことですが、この人の妻のようになるのです。兄弟でです。さらにその後は、キリキヤという国の王ポレモンと結婚しましたが、また別れて兄であるこのアグリッパの所に戻るのです。さらにのちに、あのローマ皇帝ネロの後の皇帝となったヴェスパシアヌスのそばめとなります。そのあとは、その子のティトゥスのそばめとなるという遍歴を重ねます。何と申しましょうかという感がありますが、当時の上流階級の人々の倫理道徳が、それほどまでに乱れていたということが分かります。いや、キリスト教が広まるまでそのようであったということでしょう。
 さて、総督フェストゥスがアグリッパ王に対してパウロのことを語ります。そして結局パウロを引きだして尋問することになるのですが、半ば退屈しのぎの見世物のようにされるわけです。そのフェストゥスがアグリッパに対してパウロのことを説明しているくだりですが、19節に注目したいと思います。こう語っています。‥‥「パウロと言い争っている問題は、彼ら自身の宗教に関することと、死んでしまったイエスとかいう者のことです。このイエスが生きていると、パウロは主張しているのです」。
 パウロがなぜユダヤ教指導者たちから訴えられているか。それについてフェストゥスは、ユダヤ教内の宗教問題であるという認識であることが分かります。しかし、ただ一つユダヤ教と違っているところがある。それは、死んだイエスが生きているとパウロは主張していると。すなわち、新興勢力であるキリスト教(まだこのときはキリスト教という独立した宗教とは考えられていませんでしたが)とユダヤ教の違いは、イエスが生きているかどうかということであると、フェストゥスは認識していることが分かります。
 
     イエスが生きている
 
 私たちの信じる救い主イエス・キリストが今も生きておられる。このことこそが、ユダヤ教だけではなく、他のあらゆる宗教との決定的な違いであると思います。
 2000年前、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んでくださった。そしてそれを墓場に持って行ってくださった。そして神がそのイエスさまをよみがえらせた。復活です。これが私たちの救いのしるしです。この罪人である私たちが救われるしるしです。そして天の神の国に昇って行かれた。天に行ってしまわれたのなら、生きていないのと同じではないかと思われますが、私たちの所に聖霊を送られました。その聖霊と共に、イエスさまは私たちの間で生きておられるのです。
 そもそもパウロが、イエスさまが生きておられることの証人です。かつてはキリスト教徒を激しく迫害していた。十字架で死んだイエスがよみがえったと言って人々を惑わしているキリスト信徒を許してはおけなかったのです。ところがそのようなパウロのところに、イエスさまが天から現れられ声をかけられた。驚くべきことでした。こうしてパウロは、逆にイエス・キリストが生きておられることの証人となったのでした。
 
 今度は、クリスチャン新聞・福音版の5月号を紹介いたします。そこに、NHKの朝の情報番組「あさイチ」で「スーパー主婦」として登場する井田典子さんのことが載っていました。井田さんは広島県の浄土真宗の家に生まれたそうです。カトリック系の幼稚園、大学に通ったものの、「キリスト教は学問の一つだと思っていた」そうです。そして「自分の人生は自分で切り開くものだし、学校生活も仕事も結婚も、いっしょうけんめい努力すればそれなりに報われる」と思っていたそうです。やがて結婚し子供が生まれますが、ご長男が中学3年生で不登校になったそうです。髪を染め、耳にピアスを開けて、別人のようになってしまった。「何でも自分でできると思っていたおこがましさに、やっと気づいた」そうです。
 そういう時に、所属していた友の会(羽仁もと子さん創設)の代表として近隣の教会を訪問する中で、ある教会で神さまとの出会いを経験したそうです。「それまではキリスト教を理屈で考えていましたが、神さまに聞くこと、祈ることができることを知りました。息子のことも自分で何とかしようではなく、どうしたら良いんでしょうかと神さまに聞くことができるようになり、ようやく重たい肩の荷を下ろすことができるようになりました。」と。そして2011年のイースターに洗礼を受けたそうです。
 
     生けるキリストと共に
 
 イエスさまが生きておられる以上、そこには出会いがあります。最初にご紹介したパットン選手が「イエス・キリストとの個人的な関係」と言っているように、一対一の出会いがある。その出会いとは、パウロのような劇的なものではないかも知れません。いつのまにか、と言うような自分でも気がつかない出会いかも知れません。それは人によって違います。神さまがその人その人にふさわしい出会い方に導かれるからです。
 しかしそこに、「確かにイエス・キリストは生きておられる」と告白せざるを得ないことに気がつくようにしてくださる。私も、そのようにしていけるイエス・キリストによって導かれたのでした。
 スペンサー・パットン投手は、ご紹介したクリスチャン新聞で次のように述べています。
Q.「クリスチャンであることが、野球のプレーにどう影響を与えているのか?」
A.「クリスチャンの選手として大切にしていることは、清く生きなければいけないということ。クラブハウスでも試合中でも、私の振る舞いは他の人と違っていなければならないという意識を持っている。野球の試合中も、フラストレーションがたまってイライラすることもあるが、本当に自分らしく、キリストを信じる者らしく生きることを大切にしている。‥‥野球以外でもどう生きるかが大切だと意識している。神さまの前で格好つける必要な全くなく、キリストという方が十字架のうえで私たちのために必要なことを全部してくださっているから、神さまの前ではありのままの自分で生きるようにしている。野球選手として失敗すれば大きな影響があるが、神さまの関係においては、失敗しても神さまは赦してくださり、神さまとの関係は永遠に損なわれないのです。」
 私たちと個人的な関係に入ってくださるイエスさまは、私たちが失敗しても赦してくださる。神さまとの関係は永遠に損なわれない。その神の愛の中を生きることが出来ます。
 
     あなたに何を?
 
 本日の説教題は「主は今生きて‥‥」といたしました。「‥‥」の所は言葉が見つからなかったわけではありません。書き間違いでもありません。「‥‥」の所は、「主は今生きておられ、このようなことをなさいました」と、わたしたち一人一人がそこに主がしてくださっていることを入れたい、という思いからです。
 例えば、「主は今生きておられ、先週も私を危険から守ってくださいました」とか、「主は今生きておられ、みことばをくださいました」という具合です。あるいは信仰の言葉でもよいでしょう。つまり、「主は今生きておられますから、今週も希望をもって歩むことができます」という感じです。
 生けるキリストが、今週は私たちにどのように接してくださるのか。期待を持って歩んでいきたいと思います。


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