2017年6月25日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ヨエル書3章4〜6
    使徒言行録24章22〜27
●説教 「来たるべき審判」
 
     高知中央教会
 
 先週月曜日と火曜日は、教団の伝道委員会の出張で、四国の高知市にある高知中央教会に伺いました。高知中央教会は現住陪餐会員数12名、礼拝出席者数14名の教会です。教会の創立は1991年で、その後20年以上、民家を借りたり、ビルの貸事務所を借りたりして歩んできました。しかし、2014年に高知市北部の巨大なイオンショッピングセンターの隣に72.3坪の土地を購入して新会堂を建築しました。それだけでも驚きですが、さらに昨年4月に隣接地約46坪を購入し、車11台が駐車可能となったそうです。
 少ない教会員でこれだけのことをなさった。もちろん、まだ借金を返し終わってないそうですが、牧師と教会員の伝道への熱い思いをひしひしと感じることができました。同じ高知県の若い牧師にたずねたところ、今高知で一番元気な教会はこの高知中央教会であると言っていました。あくまでも前向きに歩んでいる益先生のお話を聞いて、たいへん力を分けていただいた思いでした。
 
     パウロの裁判
 
 さて、聖書ですが、ユダヤ教徒によって訴えられ、ローマ帝国の総督の下で囚人となっているパウロ。フェリクス総督のもとで裁判が始まったわけですが、その裁判が延期となったことが記されています。
 22節で、総督フェリクスが「この道についてかなり詳しく知っていた」ということ書かれています。「この道」というのはキリスト教のことです。私は「この道」というのは好きな言い方です。宗教というよりも道。私たちはイエス・キリストの道、神の国への道を歩んでいる。そういうことを連想させてくれます。「伝道」という言葉も、道を伝えると書きます。
 さて、そのフェリクスが、ユダヤ人の告発とパウロの弁明を聞いて、裁判を延期した。フェリクスは、千人隊長リシアが来てから判決を下すといっていますが、実際には27節を見ると分かりますように、2年間も判決を出さずにいました。ですからこれはもう、千人隊長がいないからとかそういう事務的な理由でこの裁判を延期したのではない、ということが分かります。これはもうすでに、政治的な判断であるということです。
 それにしても、2年間、判決が出ないまま未決勾留囚として拘束されている。これは長いと思います。主の御心はどうなのか?主は何をしておられるのか‥‥?そんなことを考えざるを得ないような長さです。なぜ主は、この状況を何とかしてくださらないのか?‥‥私などはついそのように考えてしまいます。
 パウロはこの間なにをしていたのか? 23節からすると、鎖につながれているパウロの所に友人たちが訪ねてくる、これは教会の兄弟姉妹であると思いますが、そういう人たちとの交わりを妨げないようにされたのですから、パウロは人々を教え、またキリストの福音を語り、教会を守るために指示を出したりしていたと考えることができるでしょう。
 そのように、今与えられた状況、与えられた場所で、できることをする。それが主が与えられた役割であると考えることができます。
 
     フェリクスとドルシラ
 
 そしてフェリクスは、数日後に妻のドルシラを伴ってパウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話を聞いたとあります。
 このドルシラという女性は、使徒言行録12章に出てくるヘロデ王の娘です。イエスさま誕生の時の王であるヘロデ大王のひ孫に当たります。彼女は、14歳の時、エメサというシリアの小国の王と結婚しました。しかし16歳の時、この総督フェリクスがドルシラを見初めて、エメサの王から引き離して自分のものにしたのです。ドルシラ自身も、それを望んだのです。これはユダヤ人の律法から外れていることで、当時ひんしゅくを買ったようです。こうしてドルシラは、フェリクスの第3夫人となりました。
 そのフェリクスの妻ドルシラが、パウロの話を聞きたいと希望したらしいのです。
 
     正義と節制と来たるべき裁き
 
 しかしパウロが「正義や節制や来たるべき裁きについて」話すと、フェリクスは恐ろしくなり、パウロを獄屋に帰したという。いったいなぜフェリクスは恐ろしくなったのでしょうか?
 まず「正義」ですが、これは神さまの正義、正しさです。これはしばしば人間の正義と異なります。人間は、人それぞれ自分の正義に基づいて行動していると言えるでしょう。自分が正しいと思うことをするのであって、自分がまちがっていると思うことに基づいて行動するという人はあまりいないでしょう。人から見て悪いと思えることも、本人はそれを心の中で正当化しているはずです。例えば、けんかになってもそれぞれが正しさを主張するのです。そのように人はそれぞれ自分の正しさ、正義に基づいて行動いたします。
 しかし神さまの正義は、それとは異なっています。ですから、ここで言う正義とは、神さまの正しさ、神さまの基準ということになります。
 また次の「節制」ですが、これはひとことで言うと「誘惑に惑わされない」ということになります。神さまの正しさに基づいて、自分をコントロールするということです。
 そして最後の「来たるべき裁き」ですが、これは世の終わりの時の最後の審判のことです。24章15節に「正しい者も正しくない者もやがて復活する」という言葉が出てきていましたが、復活して、よみがえって、神の裁きを受ける。それが世の終わりの時です。
 パウロの話がこのようなことに及んだ時、フェリクスは恐ろしくなったという。自分は神の裁きを受けて滅びるのではないかと思ったのでしょう。すなわち、自分の罪を自覚する手前まで来ていると言えます。
 フェリクスは恐ろしくなった。しかしいっぽう、パウロは先ほどの24:15で「希望」であると言っています。そのように、復活した後の最後の審判が、パウロにとっては希望と言われ、フェリクスにとっては恐怖と受け止められる。この違いです。
 パウロにとって最後の審判が希望であるというのは、パウロが正しく生きてきたからでしょうか? パウロが神に対して罪を犯さず、正しく生きてきたからでしょうか?‥‥そうではありません。パウロは自分が罪人の最たる者であると言っています。パウロも罪を犯し、あやまちを犯して歩んできたのです。ではなぜパウロにとっては、最後の審判が希望となるのでしょうか?
 それは、パウロがイエスさまを信じているからです。自分のような罪人でも救ってくださるイエスさま。神の裁きをそのイエスさまが自分の代わりに十字架で受けてくださったと信じているからです。自分は赦されたと信じているからです。だから、最後の審判は無罪と判決がくだり、永遠の神の国に移されるという希望となるのです。
 一方、フェリクスは来たるべき裁き(最後の審判)の話を聞いて恐れた。それは、パウロの話を聞いていて、自分が正しくないということが何となく分かり始めたからでしょう。かといってイエスさまを信じるところまで行かない。あるいは、行けない。だから罪人の赦しを体験できない。
 復活と来たるべき裁きということを前に、この二人が真逆であるということ、その違いは、イエス・キリストを信じる、もう少し言えば、イエス・キリストにお頼みするかどうかの違いであると言えます。それで復活が喜びか、恐怖かの違いになっています。
 
     死より確かなもの
 
 教団の伝道推進室の伝道用トラクトに、東京神学大学元学長の近藤勝彦先生の証しが載っています。近藤先生は、中学生の時にお父さんが48歳で亡くなったそうです。そのこともあって、死を恐れる気持ちをもって青少年期を過ごしたそうです。初めて教会を訪ねたのは高校生の時だったそうです。いつも心の底に「死よりも確かなものはないか」という問いを抱えていたそうです。そして洗礼を受けた。さらに信仰の真理をもっと深く知りたいという願いとともに、神学のすばらしさに触れた。そうして献身して東京神学大学に入学したそうです。
 さて、青少年期に持ち続けた「死よりも確かなものはないか」という問いはどうなったのか。それについては、「いつの間にか答えが与えられたように思う」と書いておられます。「死よりも確かなものが神さまにはあって、その確かさに信仰は触れていると感じています」と。死よりも確かなものが、神さまにはある。そして、(ガラテヤ書3:27)「キリストを着ている」という言葉は、キリストの義を身にまとっているということであると述べられ、もはや裸でいるのではなく、神の御前に立つことのできる「死に装束」をまとっていると書いておられます。
 私たちには、神の正義の裁きに耐えられる正義はありません。そういう意味では私たちは裸です。しかし、イエス・キリストの義を身にまとうことができる。それはキリストの愛です。このキリストの愛に包まれて、初めて平安を得ることができる。このわたしの所にも、イエスさまは来てくださっているのです。


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