2017年6月18日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 使徒言行録24章1〜21
    コヘレトの言葉3章11
●説教 「良心」
 
     パウロは一人?
 
 「こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています」とパウロは語っています。ローマ帝国のユダヤ総督フェリクスの前での法廷。パウロは一人、被告として立たされています。しかし本当にパウロは一人なのか。
 先週13日の読売新聞の文化欄に、カトリックの来住(きし)秀俊という神父のインタビュー記事が載っていました。来住神父はこのたび新潮選書から『キリスト教は役に立つか』という本を出版されたので、その紹介記事でした。
 その中で来住神父は、キリスト教は「人が神(=イエス)と語り合いながら、共に旅路を歩む宗教」としています。「いわばロードムービー」(道中記)のようなもので、悩み、喜び、疑問を神と語りながら人生を歩んでいき、徐々に「一対一」の関係を深めていくものだと述べています。来住神父は30歳で信者となったそうで、「なんでも話せる相手」であるイエスと語り合いを続け、「より幸福になった」と述べています。
 イエス・キリストと、一対一の関係を深めていくという考え方はまさにその通りだなと思いました。私たち一人一人に対して、イエスさまが近づいてきてくださり、そのイエスさまと語りながら人生を歩んでいく。
 この時のパウロ。それは誰も弁護するものがなく、一人で法廷に立っているのではない。パウロと共にキリストがおられ、そのキリストと語り合いながらいるということを思わされるのです。
 
     裁判の論点
 
【ユダヤ人大祭司側】
 パウロを告発している人々は、ユダヤ人の大祭司と民の長老たちです。つまりユダヤ人の指導者たちです。彼らがパウロを告発する理由は、パウロがユダヤ人の宗教の分派であり、それはまた世界中のユダヤ人の中に騒動を引き起こしているのであり、そしてエルサレムの神殿を穢したということです。
 パウロたちキリスト者はユダヤ教の分派であるということは、ユダヤ教から分かれた別の宗教であるという主張です。ユダヤ教は、ローマ帝国から公認された宗教です。これまではキリスト教はユダヤ教の中の教えと考えられてきました。しかしここで彼らは、キリスト教はユダヤ教の分派であると主張しています。つまり、キリスト教はもう別の宗教なのであり、それは公認されていない宗教であり、だから取り締まってくれということになります。
 さらに彼ら分派キリスト教は世界中のユダヤ人の間で騒動を起こしているという。騒動は暴動に発展するかも知れず、暴動はローマ帝国を治めるものにとって避けなければならない事態です。このまま「ナザレびとの分派」すなわちキリスト教を取り締まらないでいると、そういう暴動に発展するよと、いわば脅しのような言い方になっているのです。
 さらに彼らの主張は、このパウロはエルサレムの神聖な神殿を穢したのだと。つまりこれは、ユダヤ人の宗教上の問題であるから、ユダヤ人内部の問題であり、自分たちに裁判をさせてくれということです。
【パウロ】
 それに対して、被告人となっているパウロの弁明です。パウロの主張は、自分はなにも騒動を起こしていないこと、そしてユダヤ人の宗教つまり聖書に沿った教えを信じていること、そして神殿を穢したという訴えの事実はないことを述べています。
 まず「騒動」については、自分は誰も扇動していないことを言っています。誰もパウロが群衆を扇動したのを見た人はいないと。それから、「分派」については、これはユダヤ人の宗教、すなわち旧約聖書の宗教の教えをことごとく信じていると述べています。だから、なにか新しい宗教を作っているのではないと言うことです。だからローマの公認宗教の中にあると。そして「神殿を穢そうとした」という告発については、その事実はないということを述べています。
【総督】
 この両者の答弁を聞いて、総督フェリクスはどうするのか。ローマ帝国から見たら、ユダヤ人というのはまことにやっかいな民族でした。治めることがむずかしい。神とか信仰の問題になると、決して引かない。しばしば反乱を企てる‥‥。いっぽう、そのユダヤ人の中から新しく生まれてきたキリスト教も、今は少数派であるけれども、じわじわと世界に広がりつつある。そうなるとユダヤ人内部の問題として片付けるわけにも行かない。だからパウロをユダヤ人に引き渡すわけにも行かない。なによりも、パウロはローマ帝国の市民権を持っている。ローマ帝国の市民権を持っているものに対しては、人権が保障されていて、正式な規則に則って事を進めなければならない‥‥。こう考えると、総督フェリクスは「やっかいな問題に巻き込まれたものだ」と思ったことでしょう。
 
 このパウロに関する裁判を、こんにちの日本の裁判と同じように考えてはなりません。こんにちの民主主義国の裁判では、法律に照らしてなにが事実でなにがまちがっているかを確定して判決を出します。しかしこのパウロの裁判は、すでに政治問題化しているということです。最初はパウロがエルサレムの神殿の神聖な領域に、ギリシャ人という異教徒を連れ込んだと誤解したユダヤ人が騒いだことから始まりました。しかし今や、それが事実かどうかということはどうでもよくなっている。キリスト教という新しい教えが、ローマ帝国にとって有害なものであるのかどうかということに、焦点が移ってきているのです。
 
     良心
 
 さて、このパウロの弁明の中で注目したい言葉があります。それは16節で「良心」という言葉をパウロが使っていることです。パウロは、自分が正しいことをしてきたかどうかということよりも、良心を保つように努めているということを言っている。
 正しさというものは、必ず衝突いたします。自分にとっての正しさが、相手にとって正しいとは限りません。そして戦争というものは、必ずお互いの正義が違うところに起こります。正義と正義がぶつかって戦争になります。それに対して、「良心」というのは心のあり方を示す言葉であると言えます。心の姿勢です。
 メソジスト教会の創始者であるジョン・ウェスレーは、この世のすべての人に、クリスチャンであってもなくてもすべての人に「良心」が与えられていると言います。それは神が与えてくださっているものであり、それを「先行の恩寵」とか「先行する恩寵」と呼びます。人がキリストを信じる前に、神がすでにそのような恩寵、良心を先に与えていてくださっていると。
 例えば、ローマの信徒への手紙2:14〜15にこのように書かれています。「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」‥‥神を知らない人であっても、神の求める律法が心に記されている。これが良心です。
 そしてウェスレーによれば、良心とは善と悪を見分ける心であり、自らの罪をかすかに覚えさせるものです。例えば盗むという罪。人のものを盗む人は、なにも悪いことをしたとは思わないで盗むのかも知れません。しかし全くなにも悪く思わないで盗むのかと言えば、心の奥底のどこかに、罪責感のようなものが生じるのです。あるいは、道に倒れている人がいたとする。しかし面倒くさいから、知らん顔をして通り過ぎたとします。すると、あとになって「あの倒れている人はどうなったんだろう」と少し心配になる。良心の呵責のようなものが生まれるのです。
 そのように、神を信じない人であっても、良心というものが与えられていて、それがどこかで働くのです。そしてウェスレーによれば、その良心が人間に神を求めさせるのです。したがって、伝道とは、その人間の奥底にある良心を呼び覚ますことであるという言い方もできるでしょう。なにか全く新しいことを教え込むというのではない。もともとその人の中に眠っている良心、すなわち神を求める心を呼び起こすのです。「あなたを造られた方に対する恩を忘れて良いのか?」‥‥そういうことに気づいてほしいのです。
 
     神と共にある知識
 
 さらにこの「良心」(シュネイデーシス)ですが、これは「共に知る」という言葉から来ている言葉です。共に知る。自分と誰かと共に知る。誰と共に知るということなのか?‥‥これは「神と共に知る」という意味であると言えるでしょう。その神がささやくように教えてくださる。
 パウロは、自分が正しいという言葉を使うのではなく、良心という言葉を使っている。それは、もしかしたら自分は正しいことばかりでなかったかも知れないが、良心を保つように努めてきたことは事実であると。そしてその良心というものは、自分の中にだけあるのではなく、今パウロを責め立てている人々の中にも、そして裁判長として席に座っている総督フェリクスの中にもあることを信じていると言えるでしょう。パウロはそこに訴えようとしているのでしょう。神を信じて。
 
     主と共に立つ
 
 人間の目には、パウロは一人でこれらの人々と対決しているように見える。しかし実は、パウロは一人ではありません。聖霊なる神さまと共におられるイエスさまが、パウロと共にいて下さっている。主と共に法廷に立っているのです。そして一見敵と見えるこの人々にも、神は良心を与えてくださっている。そのことを信じる。
 私たちも、殺伐とした世の中を生きています。どこに愛があるのか、どこに良心があるのかと思いたくなるようなこともある。しかし、まず私たちは一人ではないことを思い起こさなければなりません。イエスさまと共に歩んでいるのです。そしてまた、すべての人に神が良心というものを与えてくださっている。わたしに与えられているのと同様にです。それはかすかなものです。しかしそこには絶望がありません。


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