2017年6月11日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 エレミヤ書38章13
    使徒言行録23章12〜35
●説教 「馬上の囚人」
 
     馬上の囚人
 
 ローマ兵の軍団によって護送されるパウロの姿があります。馬の背に揺られるパウロ。なにを思うでしょうか。これまでキリストの福音を宣べ伝えるために、3回にわたって世界伝道の旅をしてきたパウロ。しかし、今や自由を奪われ鎖につながれて囚人となっている。神の御心はどこにあるのでしょうか。
 それはまた私たちの姿に重ね合わせることもできるでしょう。ある方にとっては自由に軽やかに行動した若き日が思い出されるかも知れません。しかし今やそうではない。思うようにならない体を抱えながら、また様々な病を抱えながらまさに鎖につながれるような思いをしておられるかも知れません。あるいはまた、若い方にとっても同様かも知れません。生きて行くために、まさに鎖につながれて馬上の囚人のような思いをしておられる方もいることでしょう。
 そう考えていきますと、むしろこのパウロの姿は、私たちの姿であるかもしれません。そのように重ね合わせて読むと、聖書に書かれていることが身近なものに感じられると思います。
     前回までのいきさつ
 
 なぜパウロが馬上の囚人となっているのか。簡単に振り返ってみますと、パウロはエルサレムの神殿の中で捕らえられました。それは、パウロが神殿の神聖な区域に異教徒を連れ込んだという誤解によるものでした。それでキリスト教徒を憎むユダヤ教徒が騒ぎ出し、騒動に発展しました。その騒動を聞きつけて、暴動に発展することを恐れたローマ軍の治安部隊が出動し、パウロを確保しました。
 ユダヤ教徒のパウロに対する告発は、事実無根でした。むしろパウロは、エルサレム教会の指導者であった主の兄弟ヤコブの指示に従って、ユダヤ教の律法を忠実に守っていることを見せるためにエルサレム神殿に行ったはずでした。それが全く逆の結果になってしまったわけです。ですから、本当は不本意であるはずです。そして、ローマ軍の兵営に留置されました。そしてローマ軍の千人隊長は、なぜユダヤ教徒がパウロを訴えるのかを知ろうとして、ユダヤ人の議会である最高法院を招集させました。しかしそこでのパウロの演説をめぐって議会は混乱し、収拾がつかなくなりました。
 
     きょうの個所
 
 そしてきょうの聖書個所です。パウロを殺害するという陰謀が起こったことが記されています。パウロをもっと詳しく調べるということを口実に、最高法院にもう一度パウロを連れて来させる。その途中に、パウロを襲って殺してしまおうというわけです。これはローマ軍との衝突も辞さない、まことに大胆な計画だと言わなければなりません。しかもこの計画を立案した人たちは40人以上にものぼり、パウロ殺害までは飲み食いしないという誓いを立てたというのです。
 誓い。これは神さまに誓いを立てることを言います。誓願といいます。たとえば旧約聖書の民数記30章3節に記されていますが、誓いを立てたならばそれを絶対に守らなくてはならないのです。そうすると、この40人以上の人々は、パウロを殺すまでは何も口にしないという。人間なにも食べなければ死んでしまいます。結局この40人以上の人々はどうなったのかなあ、などと余計な心配をしてしまいます。
 
     パウロの家族
 
 さて、この陰謀をパウロの姉妹の子が聞きつけたという。パウロの姉妹の子、すなわちパウロの甥っ子です。パウロに兄弟がいたということはここに初めて出てきました。そうすると、パウロのお姉さんか妹さんかは分かりませんが、おそらくパウロと共にエルサレムまで来ていたことになります。パウロは、現在のトルコの国に当たる小アジア南部のタルソスという町の出身です。そこから出てきていたのか、あるいは今回のパウロがエルサレムへと向かう旅にどこかで合流して同行してきたか。定かではありませんが、いずれにしろ、このパウロの甥っ子もキリスト信徒になっていたと考えて間違いないでしょう。
 そこにもドラマがあったと想像できます。パウロはもとは熱心なファリサイ派のユダヤ教徒でした。そしてイエス・キリストを神の子メシアと信じるキリスト信徒を憎み、激しく迫害しました。そのパウロの姉妹、そしてその子供もイエス・キリストを信じるに至っていると思われます。どのようにしてキリスト信徒になったのか。パウロは天から現れたキリストに出会うという劇的体験をしてキリスト信徒となりました。パウロの姉妹とその子はどうだったのか。パウロがキリスト信徒となった後、いったん故郷のタルソスに戻ったことがありましたが、そのときにパウロからイエス・キリストのことを聞いたのかもしれません。あれほどキリスト教徒を憎んでいたパウロが、今やそのイエス・キリストを信じて宣べ伝えている。パウロの姉妹や家族はどんなに驚いたことでしょうか。
 そして今、パウロ暗殺の計画の情報がパウロの甥っ子の耳に入ったという。これは偶然ではないでしょう。神さまという言葉こそ出てきませんが、まさしく神の導き、助けというほかはありません。
 
     パウロ護送
 
 そしてその甥っ子は、ローマ軍の兵舎に留置されているパウロにそのことを伝えました。それでパウロはどうしたか。パウロは甥っ子に、直接千人隊長に伝えさせようとして、まず百人隊長を呼ぶ。そして百人隊長に、甥っ子を千人隊長の所に連れて行ってくれるよう頼む。そして百人隊長がパウロの甥を千人隊長の所に連れて行く。そして千人隊長にパウロ暗殺の計画があることを伝えました。
 そうすると千人隊長は、夜のうちにパウロを地中海岸の町カイサリアに護送することにいたします。大部隊を編成してです。一人の囚人を護送するにしては、歩兵200名、騎兵70名、補助兵200名という大部隊。これは、千人隊長がユダヤ人の手強さを熟知している証拠であると言えるでしょう。ユダヤ人が、神の名のためなら暴動も起こしかねないという民族であることをよく知っているからです。そしてまた、パウロがローマ帝国の市民権を持っていること。ローマ帝国の市民権を持つ者が、正当な裁判の手続きをする前に暗殺されるというようなことになれば、千人隊長の責任が問われる。そういうこともあって、厳重な警備をつけて、夜のうちにパウロをカイサリアにいる総督の所に送ってしまおうというわけです。
 
     馬上のパウロと喜び
 
 こうしてパウロは馬上の人となったのです。夜の暗い道を馬に揺られていく。ただし自由の身ではありません。鎖につながれ、囚人として行く。その心境はどうだったでしょうか。不安でいっぱいだったでしょうか? 怒りでいっぱいだったでしょうか? 後悔でいっぱいだったでしょうか?
 そう考えていく時に、気になる言葉を思い出します。それはパウロ自身が書いた手紙の中の言葉です。そしてしばしば取り上げている言葉です。そして多くのキリスト信徒に愛されている言葉です。
(1テサロニケ5:16〜18)「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
 最初に「いつも喜んでいなさい」と言われています。きょうのこのときはどうでしょうか?「今日は例外」ということがあるでしょうか? 使徒が「いつも喜んでいなさい」と自ら書き記した時に、「今日は例外」でしょうか?
 ふつうに見れば、「今日は喜んでいる場合じゃない」ということになるでしょう。自由を奪われて鎖につながれている。しかもいつ暗殺されるかも分からない。この先どうなるかも分からない。‥‥そういう状況を考えたら、とても喜んでいる場合じゃありません。しかし使徒が「いつも喜んでいなさい」という場合、それはたしかに「いつも」であるはずです。とても喜べるような状況ではないけれども、「いや、喜んで良いのだ」ということのはずです。
 このことを私たちに当てはめてみるとどうでしょうか。「昨日はうれしいことがあったから喜べたけれど、きょうはいやなこと、苦しいことがあるから喜べない」。そういうのがふつうでしょう。私も「今本当に喜んで良いのだろうか?」と思う。いろいろ考えることがあり、思うように行かないこともあります。それでも喜んで良いのだろうか?‥‥と思ったりする。
 ただ考えておかなくてはならないことは、この「喜び」というのは、なにか面白おかしくて大笑いするような喜びではないということです。もちろん、面白おかしくて大笑いするような喜びも喜びには違いありません。しかし常にそんなことがあるはずもない。たいていは面白くないようなことが多いかも知れないのです。
 するとここで言う「喜び」とはなにか? それはまず、キリストが、この罪人の私を赦し、受け入れてくださっているという事実です。この私たちが今、苦しみや試練に遭っているとしたら、それは私たちに対する神の罰ではありません。そんな罰はとっくにイエスさまが十字架で負っていてくださっているのです。私は赦されているのです。
 そればかりか、聖霊によって主イエスは私という人間と共にいて下さっている。そして助けてくださる。
 そして、使徒が「いつも喜んでいなさい」という以上、そのように使徒によって命じられている以上、喜んでよいのです。それは頭で考えて分かることではないかも知れません。しかし喜んで良い。そういうことです。
 今日もう一個所読んだ旧約聖書の個所は、エレミヤ書の中の一節です。ちょうど、昨日発行されました当教会報「ぶどうの木」の巻頭説教に書いた個所です。神さまはエレミヤを預言者として召し出された時に、預言者となることをいやがるエレミヤに対して、「彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と約束なさいました。そうしてエレミヤは、人々に神の言葉を取り次ぐ預言者となりました。
 ところが、神さまの言葉を語ったところ迫害され、水溜の穴の中につり降ろされてしまいました。穴の底には泥がたまっており、エレミヤは泥の中に沈んでいきました。神さまが「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」とおっしゃったことはウソだったのか?神さまは、エレミヤのことを忘れてしまわれたのか?‥‥そう思える状況です。するとそのとき、一人の外国人の宦官がゼデキヤ王に対してエレミヤの命を助けるよう訴え、王はその言葉を聞き入れてエレミヤを助け出させました。間一髪でエレミヤは助けられたのです。神さまの言葉にウソはなかったのです。
 いざとなれば、神さまはどんな手段もおとりになることができます。
 聖書は、「あなた以外の人はいつも喜んでよい」とは書いていません。私も含めてです。悲しい時も、うれしい時も、苦しい時も、つらい時も、良い時も、悪い時も‥‥「いつも喜んでいなさい」。喜んでよい。イエスさまにおいて、喜んでよい。罪は赦されたのです。感謝というほかはありません。


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