2017年5月28日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 出エジプト記20:1
    使徒言行録22:30〜23:11
●説教 「勇気」
 
     昇天日
 
 ただ今は、讃美歌158番をご一緒に歌いました。ご存知の、ベートーベンの交響曲第9「合唱」の中のメロディーです。これを歌いましたのは、昇天日にうたう歌とされているからです。昇天日は、復活されたイエスさまが天に昇られたことを記念する日です。使徒言行録1章によりますと、十字架の死からよみがえられたあと、40日間地上におられ、そして天に昇られたと書かれています。復活の体を伴って天に帰られた。後ほど触れますが、このことは私たちの救いにとっても大いに関係あることです。
 
     最高法院
 
 さて、きょうの個所では、なぜユダヤ人がパウロを訴えているのか、その理由を知りたいということで、千人隊長はユダヤ人議会である最高法院を招集させました。そしてパウロを彼らの前に立たせたのです。
 最高法院。それは、かつてイエスさまを死刑にすることを決めた所です。そして、教会の伝道者であるステファノを石で打ち殺したのも最高法院です。その最高法院にパウロは立たされました。パウロはどんな思いでここに立ったでしょうか。
 パウロはここで彼らに向かって口を開きました。「兄弟たち」と呼びかけ、あくまでも敵対するのではなく、同胞として語り始めます。「わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」‥‥これは、パウロもあなたがたと同じ神を信じて歩んできたということを言いたいのだと思います。すなわち、パウロは、イエスさまを死刑に定め、ステファノを殺した最高法院の罪を糾弾するのではなく、自分もかつてキリスト教徒を迫害していたという過去の姿を思い起こしつつ、少しでもイエスさまのことを正しく知ってもらおうと努めていると言えます。
 そのように、パウロは、いついかなるときもイエス・キリストのことを宣べ伝えようという思いを持っていることが分かります。このガチガチのユダヤ教の、しかもユダヤ教の権威が集まっている場においてさえ、何とかイエスさまのことを理解できるように語ろうとしていることが読み取れます。
 6節を見ると、パウロは議会の中のファリサイ派に焦点を当てて語っています。それはパウロ自身がファリサイ派であったことによります。そしてユダヤ教ファリサイ派の信仰に従って、自分は死者の復活を信じているためにこのような裁判にかけられているのであると言っています。
 このパウロの言葉を聞くと、そうではないのではないかと思うでしょう。最初に述べたように、パウロが捕らえられた理由は、パウロが異教徒であるギリシャ人をエルサレム神殿の神聖な場所に連れ込んだという誤解を受けたからです。しかし、パウロはそれは口実であって、やはり本当は、自分がイエス・キリストを大胆に宣べ伝えていることを憎む人々がそのように訴えたのだということを見抜いているのです。そして、十字架で死なれたイエスさまが復活されたことがキリスト福音信仰の中心です。
 それでパウロは、ここで自分が復活と言う望みを抱いていることで自分は裁判にかけられているのだと、声を大にして言った。しかしその結果、死者の復活ということを信じるファリサイ派と、信じないサドカイ派が対立し、論争が激しくなって議場が混乱したので、千人隊長はパウロを助け出して、再び兵営に連れて行くこととなりました。
 
     復活について
 
 さて、8節に戻りますが、「サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めている」と書かれている点に注目したいと思います。
 当時のユダヤ教は、おもにサドカイ派とファリサイ派に分かれていました。サドカイ派は、神殿に仕える祭司や貴族がこれに属していたと言われます。そしてサドカイ派は、こんにちの旧約聖書のうち、最初の5つの書物、モーセ5書と呼ばれる創世記から申命記までの書物のみを重んじていたようです。そして、復活(死からのよみがえり)や天使や聖霊について否定的であったようです。それに対して、ファリサイ派は復活も天使も聖霊も認めていた。
 その復活についてですが、非常に印象的な出来事を思い出します。それはわたしがエルサレムに行った時のことですが、エルサレムの街の東側にあるオリーブ山に登りました。そうすると、エルサレムの旧市街地が一望できます。そしてそのオリーブ山の展望台から、下を見下ろすと、お墓があるのです。その墓というのは日本のお墓とはだいぶ違う形のもので、石で作った棺桶のようなものです。そのたくさんある墓が、みな同じ方向を向いているのです。そしてガイドさんによると、中に納められている遺体は、みな足がエルサレムの神殿のあった丘を向いて入っているのだそうです。なぜそうして入れられているのかというと、やがてメシアが来て、エルサレムの神殿の丘に降り立った時に、死んでいる人が復活するからであり、復活する時にそのエルサレムの神殿に向かって、すっくと起き上がることができるように、そちらに足を向けて墓に入れられているのだ、ということでした。
 つまり、それは今日の所で言えば、ファリサイ派の信仰に基づくものであると言えます。
 すなわち、復活とは、体のよみがえりを含むできごとです。サドカイ派は復活はないとしていることが書かれていますが、それはなにか死んだら終わりだと考えているということではないでしょう。サドカイ派もユダヤ教の一派ですから、霊魂があるということは信じているに違いありません。しかし復活とは、体は滅びても霊魂が死なないというだけではなく、その体が復活するということです。
 
     永遠の命とは
 
 ここで私たちは、永遠の命ということを考えてみたいと思います。永遠の命と言いますが、それはいったいどういうことなのか?
 これを考えるには、「命」とはなにか、ということを考えてみなければならないでしょう。命とは、一般には、生きているということになるでしょう。そしてその生きているということは、脳が活動し心臓が動いているということになるのだと思います。したがって、心臓が止まり、脳の活動が停止すると、それはすなわち死んだということになるのであり、命はなくなったということになります。そして、命がなくなったということは、死ぬと体がどんどん朽ちていくことからも分かります。
 これらの考え方は、人間が経験するところと一致しています。すなわち、脳が活動し心臓が動いているから命があるのであり、それらが止まって死ぬと命がなくなるということです。たしかに、わたしたちは生まれる前の記憶などありません。生まれて、脳が発達して、物心ついてきた時からの記憶しかありません。そしてだんだん年を取ると、記憶力も低下してきます。さっき聞いたことを、もう忘れるということになる。脳の機能が低下してくるわけです。そして死ぬと、その脳の働きそのものが停止する。そしてすべて意識も感覚もなくなると考えられる。‥‥そのように見えるわけです。
 ところが、宗教は、霊魂と体を区別して考えます。体は死んでも、霊魂は残ると考える。霊の世界、霊界があると考えるわけです。体が死んで火葬場で焼かれてしまっても、霊魂は別にあって、その霊魂は意識があり、記憶があり、考えることもできる。生きている晩年、すべての記憶を忘れてしまったような人でも、霊魂になるとまた回復すると考える‥‥。そのような霊魂、魂が肉体とは別にあると考えるわけです。宗教はおよそだいたいそのように考える。それはこの世で私たちが経験するところとは、異なっていると思われるわけです。そして、復活ということは、さらにその霊魂が、再び体をまとうことになるということを言っているのです。
 ただ、問題となるのは、宗教一般が考える霊魂ということと、復活ということも、それはいったいどうやって確認することができるのか、ということです。
 
     イエスの復活
 
 結論からいうと、イエスさまの復活にすべてがかかっていると言えるでしょう。イエスさまは十字架の上で死なれました。そして墓に葬られました。そのとき、イエスさまの霊は陰府に行かれたと使徒信条は告白しています。しかしその霊は、そのままでは終わらなかった。神によって引き上げられ、体と共に復活した。
 しかしその体は、前のこの肉の体とは違う。コリントの信徒への手紙一の15章に書かれているように、新しい、朽ちることのない「霊の体」に変えられて復活する。それは朽ちない体ですから、永遠のものです。そして復活されたイエスさまは、この説教の冒頭で申し上げましたように、天に昇られた。天に昇られたというのは、宇宙に行ったという意味ではなく、異次元の神の国に行かれたということです。すなわち、天国というのは、聖書においては、幽霊かなにか体のないものがフワフワと漂っている世界ではありません。朽ちない新しい体を与えられて、この世で生きている以上にみずみずしい、実体のある世界であると言えるのです。
 どうしてそんなことがあり得るのかという。それは、神さまという方がおられるからです。神が世界を造られた。神が私たちをお造りになり、命を与えられた。その神さまだから、それらのことをなすことができるのです。そして、その神さまとイエスさまを私たちは信じているのです。
 
     勇気を出せ
 
 パウロはそのイエスさまの復活の証人です。天に昇られたイエスさまが、確かに生きておられることの証人となりました。そしてきょうもまた、その復活のイエスさまがパウロのそばに立っておっしゃったことが書かれています。‥‥「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」
 パウロは、かねてからローマに行くことを願っていました。ローマ帝国の首都ローマ。世界の中心地であるローマ。そこに行ってキリストの福音を宣べ伝えることを。しかし今、遠くエルサレムで囚われの身となってしまった。もうローマへ行く希望も叶えられないかのように見える。しかし主は、ローマでキリストを証しできることをおっしゃったのです。
 「勇気を出せ」‥‥これは、主イエスを信じるものすべてにとって、いわれている言葉だと言えます。毎日を生きることも、ある意味勇気のいることだと思います。明日なにが起きるか分からないのですから。そして、私たちは確実に死に向かって進んでいるわけです。
 しかし、「勇気を出せ」とおっしゃる方は、私たちの罪をゆるし、私たちにも復活の希望を与えてくださり、天に迎え入れてくださる方です。その方が「勇気を出せ」とおっしゃる時、それは私たちを見捨てないという約束でもあります。


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