2017年5月7日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編14:2
    使徒言行録21章31〜22章5
●説教 「主によって立つ」
 
     詩編14:2
 
 はじめに詩編14編の中から読んでいただきました。これは、そのむかしイスラエルが最盛期を迎えたときの王ダビデの書いた詩です。
 主は、目覚めた人、神を求める人はいないかと、この世を見渡し探されると詠っています。信仰の世界に目覚めた人、神を求める人はいないのか。この世のことばかり求めている人ばかりではないのか。‥‥そういう主なる神さまのお気持ちが伝わってきます。
 わたしたちはこの世の中で生きていますし、生きて行かなければならないので、生活のこと、生活の糧を得ること、収入を得ること、この世の楽しみをいかに得るかということなど、この世のことばかり追い求めてしまうのは、ある意味しかたがないのかも知れません。この世で生きることを心配しなければ生きていけないように思います。しかし、ではこの世のことばかりを追い求めていれば、すべての問題が解決するかというとそうではありません。神の世界、信仰の世界に目を向けることによって、根本的な解決があるというのも聖書の教える真理です。
 わたしたちは何を求めて生きるのか。私たちの創造主である神を求める人はいないのか。わたしたちは神を求める者でありたいと思います。
 
     よかれと思ってやったことが裏目に
 
 さて、よかれと思ってやったことが裏目に出るというのは、前回の聖書個所で考えさせられたことでした。その結果、パウロが捕らえられるという事態に陥ってしまいました。
 背景には、海外の異邦人を中心とした教会と、エルサレムのユダヤ人中心の教会の違いがありました。さらに言うならば、異邦人の使徒と呼ばれたパウロと、このときのエルサレム教会のリーダーであった主の兄弟ヤコブとの考え方の違いがありました。
 そこに横たわっていた問題は、ユダヤ人のキリスト信徒は、イエス・キリストを信じる前と同じく旧約聖書の律法を守るべきか否か、ということでした。そして主の兄弟ヤコブは、ユダヤ人でありつつイエス・キリストを信じるようになったユダヤ人クリスチャンは、今までどおり旧約聖書の律法を守るべきであると考えていました。
 しかし考えてみれば、ユダヤ人、すなわちユダヤ教徒だった人がイエスさまを信じてクリスチャンになったら律法を守らなくてはならず、異邦人、すなわち外国人がイエスさまを信じたら律法を守らなくてもよいというのは、おかしいに違いありません。ユダヤ教徒がイエスさまを信じた場合と、異教徒がイエスさまを信じた場合で違いはないはずです。
 もう少し言えば、わたしたち人間が救われるための条件は何か、ということです。本当は、イエス・キリストを信じるだけで救われるはずです。ユダヤ人であろうが、異邦人であろうが、日本人であろうが、イエス・キリストを信じるだけで救われる。
 もちろん、そういうことはヤコブも分かっていたと思うのですが、残るのはユダヤ人にイエスさまのことを伝道していくときに、律法を守れというのか、守らなくてよいと教えるのかということです。ヤコブはユダヤ人には、イエスさまを信じてからも律法を守るように教えるべきだと考えている。しかし本当のことを貫くべきだったのではないかと思います。イエス・キリストを信じるだけで救われると説くキリスト教が、旧約聖書の律法をちゃんと守るよう勧めるというのは、どういうことか。いくら伝道のためとはいえ、それは福音信仰を曲げることにつながるように思われます。
 しかしパウロはヤコブの言うことに従いました。教会の一致を優先させたのでした。そして、ヤコブの勧めに従って、エルサレムのキリスト教会の中のある人々が誓願を立てた。その誓願を立てたキリスト信徒が、律法に従って清めの儀式を済ませることができるように、パウロが指導することになったのでした。
 
     エルサレム神殿にて
 
 そしてパウロは、彼らを連れてエルサレムの神殿に参ります。
(プロジェクター映像)こちらがエルサレム神殿の模型です。これはやがて破壊され、現在はありません。当時は、たいへん大きな敷地でした。そして高い壁で囲まれた内側に広い境内があり、その中に神殿本体の建物が建っています。(映像)神殿本体のすぐそばまで行けるのは、ユダヤ教徒に限られていました。建物に一番近いところが「男子の庭」で、ユダヤ教徒の男性が入ることができる場所、その手前が「婦人の庭」で、ユダヤ教徒の女性が入ることのできる場所でした。そしてその外側は壁で囲まれており、その外側の広い場所が「異邦人の庭」と呼ばれるところで、ユダヤ教徒ではない異邦人はここまでしか入ることができませんでした。そしてユダヤ教徒だけが入れる壁の門のところには、「ここから先に入る異邦人は死刑に処す」と注意書きが書かれていたそうです。
 ところが、そこに以前アジア州でパウロの伝道を見たことがあるユダヤ人がそこにいて、パウロが異邦人であるギリシャ人を連れて、ユダヤ教徒しか入ることのできない男子の庭に入ったと誤解したのです。それで28節に書かれているように、群衆を扇動してパウロを捕らえ、殺そうとしたのです。パウロの命は風前の灯火となってしまいました。
 
     災難の中での主の働き
 
 さて、パウロはギリシャ人を境内に連れ込んではいません。ですから、無実の罪を着せられ、群衆から暴行を受けて殺されそうになりました。不本意ながらヤコブの指示に従ったために、こんな目に遭ったのです。
 それにしても、このような災難に見舞われるとは、神はいったい何をしておられるのか?神を信じ、イエス・キリストを信じているのに、どうしてこんな目に遭うのか?‥‥そんな不安がよぎらないでしょうか。
 しかし、どんなときも神の働きに目を留めることは大切です。このたいへんな騒動に巻き込まれたパウロ。しかしこの災難の中でも、神が働いておられることがお分かりでしょうか?
 まず第一に、パウロは殺されなかったということです。群衆がパウロに殺到し、殺そうとして暴行を加えている。しかしパウロは殺されませんでした。ローマ軍の千人隊長が部隊を率いて出動し、パウロを捕らえました。結果としてパウロはリンチによって殺されなかった。もちろん千人隊長は、パウロを守るために出動したのではありません。この騒動が暴動に発展するのを恐れて部隊を出動させたのです。暴動になると、自分たちが総督や皇帝からとがめられることになるからです。
 いずれにしろ、出動したローマ軍に捕らえられることによって、タッチの差で、パウロは命が助かったのです。これも主のお守りであると言うことができます。
 次に、パウロに発言の機会が与えられたということです。ローマ軍兵士によって連行されるパウロ。群衆はそれについてきて、「その男を殺してしまえ」と言って叫び続けました。その時パウロは、ローマ軍の千人隊長に向かって、群衆に向かって語ることを求め、千人隊長はそれを許可したのです。
 この混乱状態の中、騒動が暴動に発展することを恐れてパウロを逮捕し連行しつつある。そんなときにどうして千人隊長は、パウロの発言を許したのでしょうか?どう考えてもおかしい。千人隊長は、一刻も早くパウロをこの騒ぎ立てる群衆から引き離し、兵営へ連行したいはずです。なのにパウロの求めに応じて発言の機会を与え、神殿の階段の上でパウロは語り始めることができた。しかも今まで騒いでいた暴徒である群衆が、静かになったという。これも異例のことと言わなければなりません。
 ここにも神の奇跡を見ることができるのです。主が、そのようにさせたと見ることができるのです。そのように、災難、苦難、試練の中でも主の働きがあるのです。そして主が働いてくださるのを見ることができるのです。
 信仰は、災いに遭わないことを保証するものではありません。しかし、どんな困難や災難の中でも、生ける主の働きを信じることができるのです。
 
     証し:新生宣教団メルマガ第3号(本年4月)
 
 当教会も支援しております、新生宣教団というキリスト教団体があります。キリスト教信仰が自由でない国に誓書を届ける働きをしている団体です。そこのメルマガの4月号に載っていた記事をご紹介したいと思います。その証しを書いているのは、ささきみつおという弁護士の方です。
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 ささき弁護士は、あるときAさんという方の裁判の弁護をしたそうです。ささき弁護士もAさんもクリスチャンです。ところが立て続けに3件の裁判に敗訴してしまったそうです。本当はAさんが正しいのに、証拠不十分で負けてしまった。ささきさんは、「勝訴を信じてあれほど祈りに祈って戦ったのに、なぜ負けたのだろうか?」と、信じられなかったそうです。
 Aさんは会社と個人の自己破産を申請せざるを得ない状況に追い込まれました。同時に、夫婦関係も悪化し、別居に追い込まれました。これまで離婚は絶対しないと頑張ってきたが、妻の強い離婚要求に応じざるを得なくなったのです。
 Aさんは、「もうダメです。これ以上戦えません!」と、電話口で声を震わせて泣いたそうです。信仰によって数々の試練を乗り越えてきたAさんから聞いた初めての弱音でした。再出発のためにやむなしと、破産と離婚の両方の手続きの準備に入りました。
 ところが、数か月後Aさんから明るい声で、「もう破産することは止めました」という連絡が入ったそうです。「えっ、破産しないで債務はどうするのですか?」「新しい仕事で儲けて全部払います」。敗訴後に模索してきた新規事業が軌道に乗りはじめ、大きな収益が見込めるようになったのです。
 数日後またAさんからさらなる喜びの報告を受けた。「私がこの事業をする目的は、その利益で都心に大きなキリストの教会を建てることです」と新規事業の共同経営者から話されたと言う。Aさんはその時まで彼がクリスチャンであるとは知らなかった。実は、Aさんも都心に大きなクリスチャン・タワービルを建てたいと願い、長年にわたり祈ってきた。「場所はどこですか?」と聞くと、なんと、Aさんが建設を予定していたその場所であった。「あまりのショックで鳥肌が立ち全身が震えました!」。お互いに意気投合してタワービル建設も共同で取り組むことになった。
 「離婚はどうするのですか?」と聞くと、「信じられないことですが、妻が頭を下げて、『子供たちのために戻ってきてください』と懇願してきました」と言う。
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 主イエス・キリストを信じているから試練や災難に遭わないのではありません。しかし、その試練や災難の中でも、生きておられる主が働いていてくださるのを、経験することができるのです。


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