2017年4月30日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編122:6〜7
    使徒言行録21:17〜30
●説教 「譲歩の愛」
 
     よかれと思ってやったことが
 
 よかれと思ってやったことが裏目に出るということがあるものです。いろいろ考えてやったはずなのに、思うように行かないということがあります。
 それは私たち個人のことだけではなく、教会にもそういうことがあります。そして教会でそのようなことがある場合、多くは、人間の考えで良かれと思ってやったという場合です。しかし神さまの御心、神さまのお考えを聞こうとはしなかったという場合です。
 もちろん、神さまがすぐに答えを与えてくださるとは限りません。しかし、少なくとも、神の御心を求めて祈る、あるいは神さまの答えを真剣に求める。そういう姿勢、祈りの姿勢が大事であると思います。そのような、神さまの答えを祈り求める姿勢がない場合、たいてい教会は間違った方向へ行ってしまいます。
 
     エルサレム教会の対応
 
 第3回世界伝道旅行に出かけたパウロは、ギリシャから急ぎ足でエルサレムへと帰ってきました。パウロがなぜエルサレムへの旅を急いだのか。それは、すでに見てきましたように、一つには、困窮するエルサレム教会を支援するための献金を届けるという目的がありました。そしてもう一つには、海外に急速に拡大した外国の教会と、本家であるエルサレムの教会との一致を計るためであったと言えます。
 その目的を果たすために、パウロはエルサレムへの道を急ぎました。途中途中の町で、キリスト信徒の預言者が、パウロがエルサレムにおいて捕らえられるという苦難を預言し、兄弟姉妹たちがパウロにエルサレムに行かないよう説得しようとするなどのことがありました。しかしパウロはそれらの反対を押し切って、苦しみに遭うことを覚悟の上でエルサレムに向かっていったのでした。
 そうしてエルサレムに到着すると兄弟たちは喜んでくれたと書かれています。教会の長老たちが集まっているところを訪ねました。そこで中心的に発言しているのはヤコブです。エルサレム教会の指導者は、このときはヤコブだったようです。ヤコブという名前の人は、12使徒にも二人いましたが、このヤコブは12使徒のヤコブではありません。「主の兄弟ヤコブ」と呼ばれる、イエスさまの弟のヤコブです。他の使徒たちの姿がここには書かれていません。おそらく、すでに国外に世界宣教に出かけていった後と思われます。
 そこでパウロは、自分たちの世界伝道の報告を詳しくいたします。どうやってギリシャ人などの異邦人が、イエス・キリストを信じるようになったか、教会がどのように拡大したか‥‥などを話したことでしょう。それを聞いた人たちは、みな神を賛美しました。と、ここまではよかったのですが、このあとヤコブからパウロに注文がなされます。
 
     律法と福音の問題再び
 
 それは、パウロに対して批判があるということでした。パウロが、海外のユダヤ人に対して、ユダヤ人の戒律、旧約聖書に基づいた戒律である律法に従うなと教えていると言われているというのです。そしてヤコブは、パウロに向けられているそのような非難を払拭するために、23節から述べられているような行動を取ってほしいというのです。すなわち、ここでまた律法と福音の問題が浮上しているのです。
 旧約聖書とそれに基づいてできたユダヤ人の律法、すなわち戒律を、イエス・キリストを信じた者も守らなければならないのかどうか。これについては、以前エルサレムの教会会議で決まったことがありました。それは、25節に述べられているように、「偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉を食べないように、そしてみだらな行いを避けるように」ということだけを守れば良いという決定でした。ただしそれは、異邦人、すなわちユダヤ人以外の外国人はそれでよいというのであって、ユダヤ人はイエスさまを信じた後も、引き続き旧約聖書の律法を守らなければならないというものであったというのです。
 なぜ、ユダヤ人と外国人で、このような違いが生じるのか。同じイエス・キリストを信じているのに、どうして信仰の内容が違うのか。
 一つには、エルサレムの教会が置かれているきびしい状況があったのでしょう。エルサレムのキリスト信徒は、まさにユダヤ人社会のど真ん中で暮らしているわけです。そのユダヤ人は皆、ユダヤ教の戒律である律法を守って生活しているわけです。しかるに、彼らユダヤ人キリスト者が律法を守らないということになると、それは激しい迫害を受けることになる。それは、伝道にもマイナスであるという思いがあったのでしょう。そういう、同じユダヤ人への配慮から、イエスさまを信じた後も、依然として旧約聖書に基づく律法を守って信仰生活を送っていたと考えることができます。
 しかし、そのように、ユダヤ人への配慮だけではないでしょう。やはり、そこにはエルサレムの教会が、少しユダヤ教に後戻りしているような印象を受けます。つまり、律法と福音の問題です。完全に福音信仰に立てないエルサレム教会の姿がそこに見え隠れいたします。
 
     本当はどちらなのか
 
 問題は、ほんとうはどちらなのか、ということです。すなわち、イエス・キリストを信じるだけで救われるのか? それとも、律法を守ることも必要なのか?‥‥わたしたち人間が救われるには、本当はどっちなのか。そこをはっきりさせなければなりません。
 ヤコブは、ユダヤ人キリスト者は律法を守るべきであると言っている。本当にそうなのか?律法を守らないと救われないのか?
 答えは、ノーです。イエス・キリストを信じることだけで救われます。それには、ユダヤ人も異邦人もありません。皆イエスさまを信じれば救われるのです。
 ではなぜ、ヤコブをはじめとしたエルサレム教会の人々は、そのようなことを言うのか?それは、福音、すなわち「イエス・キリストを信じるだけで救われる」と信じ切れない面があるということになります。律法を守らなければ、善行を積まなければ、立派にならなければ救われないというふうに考える人々です。もちろん、自分が罪人であってもイエス・キリストを信じれば救われると信じる。だからキリスト信徒でありクリスチャンなのですが、イエス・キリストを信じることと同時に、律法を守るということがプラスされる必要があると考える傾向があります。
 似ているようで、この違いは大きい。すなわち、99%はイエス・キリストを信じることによって救われるのだが、あとの1%は、律法を守ることが条件だということになるからです。この1%の違いは大きいのです。
 しかし人間というものは、律法を守るほうがそれらしく思われるものです。神さまを信じる、などということはあまり耳を貸さないのですが、「お宅の不幸の原因は、家の方角がからですよ」などと真顔で言われると、何となくそれらしく思えてくるものです。「お墓の建て方が悪いからですよ」「お札を貼らないからですよ」‥‥「そうかもしれないな」などと思えてくるものです。
 それに対して、イエス・キリストを信じるだけで救われる、と言われても、なんだか頼りないように思われるのではないでしょうか。
 
     ルター
 
 宗教改革者のマルチン・ルターは、今から500年前の人ですが、22歳の時に献身してカトリック教会の修道会に入りました。そして修道会の厳しい規則に従って生活しました。少量の食事、徹夜、断食、などなどです。ルターは次のように書いています。
「わたしが敬虔な修道僧であり、修道院の規約を厳格に守ったことは事実である。修道院の生活によって生活によって天国に入れる修道僧があったら、わたしも天国に行けると思う。」
 つまり、自分はいっしょうけんめいきびしい戒律を守り、敬虔な生活を送ったから、天国へ行けるのだと思っていた。自分の行いが正しいから救われると。当時のローマ・カトリック教会の信仰はそういうところがあったのです。
 ルターはその後24歳で司祭となりました。神父です。そして初めてミサ(聖餐式)を執行する時のことでした。彼は、いいようのない恐怖にとらわれたのでした。罪深い人間が、どうして永遠の真理である神にほとんど対等の立場で語りかけることができるのかと考え、耐えがたい恐怖心に捕らえられたのです。そして、従来の神学に疑問が強まるようになります。
 当時のルターは、神を、「命ずることを行え」と人間に要求し、もしこれにそむけばその人間を罰する審判者ないし復讐者と考えていたのです。まるで、ユダヤ教徒のようではありませんか。あるいは、きょうのエルサレムのキリスト者のようです。
 当時のローマのラテラン会堂の前には「聖階段」というものがあり、この階段を手と膝で四つん這いになって一段ごとに「主の祈り」を繰り返しながら登ると、本人の死者の霊魂が煉獄から救われると言われていました。それで、ルターもローマに行ったときにそれをやってみたのですが、疑問を感じたのでした。
 やがて彼は、ローマ書、ガラテヤ書の研究などを通して、信仰によってのみ救われるという福音を再発見したのでした。キリストの信仰の原点に立ち戻ったのです。それが宗教改革運動となっていったのです。
 
     妥協の産物
 
 きょうの聖書で、エルサレム教会は、まさにルターがキリストを信じており、しかも教会の司祭でありながら、神の罰の恐怖におびえている姿に重なります。イエス・キリストを信じる信仰だけでは不十分であると言っているように聞こえます。
 なぜパウロは反論しないのでしょうか。ヤコブの誤りを厳しく指摘しないのでしょうか?ヤコブが要求した、誓願を立てた者がモーセの律法に従っていけるよう助けよという勧めに対して、なぜ拒否しなかったのでしょうか?
 パウロは以前、ペトロの誤りを厳しく指摘したことがありました。
(ガラテヤ 2:11ー12)「さて、ケファ(ペトロ)がアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。」
 そしてそのすぐ後で、パウロはこう述べています。
(ガラテヤ 2:16-17)「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」
 このように強い調子で書いているのに、なぜこのときエルサレムでは、ヤコブに従ったのか。パウロがユダヤ人に対して律法を無視するよう教えているのではないことを見せるために、エルサレム教会の中で誓願を立てている者がいるから、その4人が律法に従って身を清めることが出来るよう、サポートしてほしいというヤコブ。これは神さまの考えではなく、人間の知恵です。
 ところがパウロは、ヤコブの要請に従っている。これはいったいなぜでしょうか?
 
     我が身を犠牲にして
 
 このヤコブの要請に従った結果、パウロは騒動に巻き込まれることとなります。そして捕らえられます。完全に裏目に出たのです。人間の知恵の浅はかさとも言えます。
 しかしパウロには、こうなることが分かっていて、ヤコブに従ったフシがあります。それは、今までエルサレムに向かう途中途中で、パウロが受難することを預言されていたからです。パウロは、自分がひどい目に遭うことを分かっていて、ヤコブの要請に従った。いったい何のためにでしょうか? 自分の主張を封じてまでも、エルサレム教会の要請に従った。
 エルサレム教会を目覚めさせるためとも思えます。教会の一致を保ちつつ、人間の知恵によっては成功しないことを示すために。我が身を犠牲にしてまでも。そしてそこに主の導きを信じたのでしょう。
 
     信仰のみによるならなぜ信仰に熱心になれる?
 
 さて、最後に、律法と福音の問題に戻りますが、律法は「これを守らなければ神の罰がある」という具合に、人を恐怖で追いこんでいくところがあります。だから戒律を守れということになる。
 それに対して、イエス・キリストを信じるだけで救われる、というのが福音信仰です。しかし、信じるだけで救われるというのであれば、どうして信仰に熱心になることができるのだろうかと思う方もいるでしょう。私たちはイエスさまを信じるだけで救われるという福音信仰に立とうとしています。それは、罰に脅されて信じるのではありません。こんな私のような者も救っていただいたという、キリストへの感謝によって信じるのです。
 そして、生きておられるキリストの恵みをもっと知りたい、キリストの愛をもっと知りたいという思いが強くされていきます。それが感謝と喜びの福音信仰です。


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