2017年4月2日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編23:4
    使徒言行録21:1〜16
●説教 「主の御心が行われますように」
 
     パウロ逮捕の預言
 
 使徒パウロの第3回世界伝道旅行の帰路、パウロは急いでエルサレムに向かっていきます。そのパウロに対して、ほかのみんながパウロに、エルサレムへ行かないように訴えるという事態になりました。それは、預言者たちが、パウロがエルサレムで捕らえられるという預言をしたことによります。
 この聖書では「預言をする者」と日本語に訳されていますが、預言者です。預言者とはなんでしょうか。それは旧約聖書によく登場します。預言者は、神さまの言葉を取り次ぐ人です。きょうの聖書個所では、聖霊の言葉を聞き取って取り次いでいます。なぜ預言者が預言をするかというと、聖霊によって預言をするという賜物が与えられた人だからです。人それぞれ、聖霊から違う賜物が与えられるということが、パウロの書いたコリントの信徒への第一の手紙に書かれていますが、預言者は預言をするという役割を与えられたのです。
 
     パウロの決意
 
 教会の中の預言者が、パウロの逮捕を預言した。それでみんな、パウロのエルサレム行きを反対したのです。
 それに対してパウロは、13節のように答えています。「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」
 何があっても、たとえ殺されるようなことになったとしても、エルサレムに行くというのです。ものすごく固い決意なのです。パウロは、預言を信じないというのではありません。それどころか、パウロ自身も聖霊を通して、投獄と苦難が待ち受けていることを知らされていました。20章23節で語っています。
 すなわち、パウロは、苦難と投獄が待ち受けていることを知っていて、エルサレムに向かう。あえて向かって行くのです。
 
     パウロの旅程と預言
 
 パウロは、前回のところでエフェソの教会の長老たちに告別説教を語りました。それは小アジアのミレトスの町でのことでした。きょうの個所では、ミレトスから船出したあとの旅程が記されています。コス島に向かい、ロドス島に着き、バタラに渡り、フェニキア行きの船に乗り、キプロス島を左に見る形で船が進み、ティルスの港に着く。そこで一週間滞在しましたが、そこでも、その町の信徒たちがパウロの受難を聖霊によって知り、エルサレムに行かないように言う。さらに、パウロたちは船でプトレマイスに着いて上陸します。そしてカイサリアに行きます。
 そのカイサリアで、福音宣教者フィリポの家に宿泊します。久しぶりにフィリポの名前が出てきました。彼は、使徒言行録の最初のほう、6章で、最初の殉教者となったステファノらとともに選ばれた7人のうちの一人です。使徒言行録では、フィリポがサマリアで伝道したこと、またエチオピアの宦官に洗礼を授けたことが記録されていました。彼には4人の預言する娘がいたと書かれています。
 そこにアガボという預言者がやって来て、パウロの受難を予言しました。「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。』」‥‥彼はパウロの帯を取って自分の手足を縛って預言したと書かれていますから、何かのパフォーマンスのように見えますが、預言者というのはこのような仕草を伴って預言することがあります。それは、聖霊によって促されたからなのです。
 それで、今度は土地の人と一緒になって、ルカたちパウロの同行者も、パウロにエルサレムに上らないように懇願したと書かれています。土地の人というのは、フィリポの4人の預言者である娘も含まれているのでしょう。このようにして、何人もの預言者たちが一様にパウロがエルサレムで逮捕されることを預言している。さすがに、ルカたちパウロの同行者もこれは確実にパウロが捕らえられ、ひどい目に遭うと信じ、必死になってエルサレム行きを止めようとしている。‥‥そういう状況です。
 しかしパウロは、先ほど申し上げたように、「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです」(13節)と答える。なんとしてもエルサレムへ行くというのです。
 
     なぜエルサレムへ行くのか
 
 なぜそこまでしてパウロはエルサレムに行くというのでしょうか。そのことについては、少し前の説教で申し上げたとおりですが、第一に、エルサレム教会への献金を届けるという目的がありました。エルサレム教会は、最初に教会が誕生したところです。キリスト伝道、福音宣教の始まりの地です。しかしそこはユダヤ教社会の真ん中にありました。それでキリスト教会は、さまざまな迫害やあつれきを受けていました。それで、エルサレム教会はたいへん苦しい、そして貧しい状況におかれていました。そのエルサレム教会を助けるために、パウロはギリシャなどにある新しい教会から献金を募って、それをエルサレムに届けに行く。パウロがあずかったのだから、自分が行くという使命感がありました。
 次に、教会の一致を確認するということがあったと思います。私たちが今までパウロと共に世界伝道の旅をたどってまいりましたように、イエス・キリストの福音は、国境を越えて、小アジアへ、そしてヨーロッパのギリシャへと広がっていきました。そこでも次々とイエス・キリストを信じる人々が起こされ、教会の群れができていきました。そのように、海外に急速に発展した教会。それら異邦人の教会と、ユダヤ人教会であるエルサレム教会とが一つであることを確認する必要があったのです。
 エルサレムのユダヤ人キリスト者は、それまでの旧約聖書の宗教、すなわちユダヤ教徒であったわけです。そこからイエスさまがメシアであることを信じてキリスト信徒となった。その多くは、今までのユダヤ教の掟、すなわち律法を守りながら、その上でイエス・キリストを信じるという信仰でした。それに対して、海外の異邦人キリスト者は、旧約聖書の律法など最初から知りません。ただイエス・キリストを信じることによって救われた人たちです。
 この問題、すなわち律法と福音の問題は、私たちはすでに解決されたと思っていますが、なかなか根深い問題があったようです。だから、へたをすると、エルサレム教会と、海外の異邦人教会は別々の道を歩むことになりかねません。そのようなことがないように、教会の一致を確かなものとするために、パウロはエルサレムへと向かう。それがもう一つの理由であったと思われます。
 教会の一致というのは、危険を冒してまですることなのか? その答えは、パウロにとっては「イエス」であったのです。教会はキリストの体であり、それゆえ教会が分裂することはありえない。教会のために働くことは、すなわちイエス・キリストのために働くことである。パウロはそのように考えていました。
 
     キリストと共に
 
 そういうことで、パウロはエルサレムで待ち受けている危機を知りながら、あえて進んでいきます。それはまさにイエスさまを彷彿とさせます。
 かつてイエスさまは、弟子たちと共にフィリポ・カイサリア地方に出かけられた時、ご自分がエルサレムで殺されること、そして三日目に復活されることを預言なさいました。それを聞いて、ペトロがイエスさまをいさめて言いました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
 するとそのペトロに対して、イエスさまが厳しく言われました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」 そうしてイエスさまは、エルサレムへの道を進まれ、そこで捕らえられて十字架につけられ、死なれました。しかしそこから三日目に復活されました。
 制止を振り切ってエルサレムへと向かうパウロの姿は、その主イエスの姿と重なります。いやパウロにとっては、イエスさまと共に行くならば、どんなところへでも行きたいという思いが強かったことでしょう。
 
     主の御心が行われますように
 
 そのパウロの強い意志を知って、ルカたちは「主の御心が行われますように」といって口をつぐみました。
 「主の御心が行われますように。」
 私たちの神さまは、天地を創られた神さまです。なんでもおできになる全能の神さまです。宇宙をお造りになり、地球をお造りになり、私たちをお造りになりました。モーセとイスラエルの民が海岸に追い詰められ、絶体絶命のピンチに立たされた時、海を二つに分けられました。そのようなことがおできになる神さまです。ヒゼキヤ王の時は、エルサレムの町がアッシリア帝国の大軍に包囲されましたが、主はヒゼキヤ王の祈りを聞き入れられ、一夜にしてアッシリアの大軍を滅ぼされました。また、ダニエルがラインの穴に放り込まれた時、主はライオンの口を閉ざしてダニエルを守られました。‥‥
 それが私たちの神、聖書の神さま、主です。それゆえ、主の御心であれば、たとえ捕らえられたとしても、どのようにでもパウロを助けることがおできになる。パウロはそれを信じているのだと言えましょう。その主にゆだねたのです。ルカたちも、信徒たちも、そしてパウロも。
 
     主と共に行く
 
 私は、このパウロの姿勢を学んで、悔い改めさせられる思いがしました。自分が苦難が待ち受けていることを知ったなら、それを避けようとしたのではないかと。主の御心ならば、たとえ苦難の中でも奇跡を現してくださることを信じているのか、と。
 また、私たちのこの先の人生を考えてみたならどうでしょうか。これから人生の全盛期を迎えられる若い方はあまり実感がないかも知れません。しかし、私のような還暦を迎えようとするような中高年にとってみますと、この先は、もしかしたら苦難のほうが可能性が高いかも知れないと思うのです。次第に体は衰え、前のように体が動かなくなり、病気も抱えるようになり、あちらこちら痛くなってくる。そしてやがて死を迎えます。しかし、好むと好まざるとに関わらず、進んでいくしかありません。引き返すことができないのです。
 そのようなことを考える時、このパウロの姿勢は非常な励ましになります。主が共に行ってくださるならば、何も恐ろしいことはない。主の御心ならば、たとえどんな危機の中からでも救い出すことがおできになる。主が共にいることをますます知っていくことができる。主を知る楽しみに生きる。


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