2017年3月26日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書44:3
    使徒言行録20:33〜38
●説教 「与える幸い」
 
     「受けるよりは与える方が幸いである」
 
 「受けるよりは与える方が幸いである。」使徒パウロが、エフェソの教会の長老たちを集めて、最後の教えを語っている場面の中で、このイエスさまの言葉を伝えています。
 このイエスさまがおっしゃったという言葉は、新約聖書の福音書の中のどこにも記されていません。もちろん、福音書はイエスさまの言葉をすべて記録しているわけではありませんから、この言葉は福音書には記録されていないイエスさまの言葉であると言えるでしょう。そのように、福音書には書かれていない言葉ではありますが、まさにイエスさま御自身をあらわすような言葉であると言えるでしょう。
 
     パウロの働き
 
 パウロがエフェソの教会の長老たちに、最後の教えを語っている個所を、3回に分けて読んでまいりました。そしてきょうのところでまずパウロは、自分がこの世界伝道旅行の中で、自分の生活費を稼ぐために働いてきたと述べています。
 何をして働いたかと言いますと、それはパウロの職業であるテント造りをして働いたのでしょう。使徒言行録18章3節に、そのことが記されています。そこでは、パウロの伝道を助けたアクラとプリスキラ夫妻と共にテント造りをしたと書かれています。そしてパウロがテサロニケの教会に宛てて書いた手紙の中で、このように書いています。
(Tテサロニケ 2:9)「兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした。」
 夜も昼も働いた。そうして生活の糧を得ながら、キリストの福音を宣べ伝えていったのです。パウロは各地を伝道しながら旅行しましたので、その行く先々で働いたことになります。つまり、行く先々で働き口があったことになります。それは、パウロがかなり腕の良いテント職人であり、またテント職人の需要もあったということが分かります。
 福音を宣べ伝えながら、夜も昼も働いた。それは、自分の生活のためだけではなく、共にいた人々のためにも働いたと述べています。つまり、パウロと共に伝道旅行をした同労者のためにも働いたと。パウロの同行者は、パウロのようにどこでも収入を得ることのできるような職を持っていなかったのでしょう。それでパウロは、その同労者のためにも働いたのでした。
 パウロは、今日で言えば、牧師ではなく宣教師であったと言えるでしょう。つまり、まだイエス・キリストのことを知らない外国の土地に出かけていって、そこで福音を宣べ伝える人です。そして一つの教会に留まらないで、移っていく。本来は、そういう宣教師の生活は教会が支えるべきです。たとえば、コリントの信徒への第一の手紙の中で、パウロはこのように書いています。
(Tコリント 9:14)「同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。」
 だから、本来は教会がパウロのような宣教師の生活も支える必要があります。しかし、まだ産声を上げたばかりの教会には、そのようなことまで配慮が行き届かないということがあったのに違いありません。
 私がまだ献身する前、静岡のある町で働いていた時のことです。日曜日の礼拝、そして水曜日の祈祷会は所属するS教会に通っていました。しかし日曜日の午後には、ときどき西隣のK市にある、アメリカ人の宣教師が開拓伝道してできた新しい教会に行っていました。そこで証しの集会が開かれており、それに興味を持ったのです。そこの教会は、10代20代の若い人たちがたくさん集まっている教会でした。そして讃美歌は、これから逗子教会が夕礼拝で歌おうとしている新しい賛美が軽快に歌われていました。
 わたしがその教会に時々出かけるようになったのは、私の母の知人がそこに通っていて、紹介されたからです。私の母の知人は、おそらく40歳ほどの女性でしたが、その教会では年配者であり、中心的に奉仕している人でした。その人がある時、その教会の宣教師である先生ご一家のところに用があって訪ねたところ、先生ご一家がちょうど食事をしているところで、なんとパンの耳を食べていたというのです。それで、いつも笑顔でいる先生ご一家が、どんなに苦労をなさっているかを知ったそうです。つまり、その教会では、ちゃんと献金をして教会と宣教師を支えるというところまで、指導できていなかったのです。そこには初代の宣教師の苦労が見えてきます。
 
     受けるより与える方が幸い
 
 イエスさまがおっしゃったという、「受けるよりは与えられる方が幸いである」というお言葉。この言葉について、もう少し考えてみたいと思います。
 以前私がいたところに、受けるのを嫌い、与えるのを好む人が確かにいました。他人に対してものを贈ったり、御礼をすることはよくする。しかし自分がものや御礼を受けるということは、非常に嫌う。極端に嫌うのです。‥‥このような方は、確かに表面的には、イエスさまのおっしゃったとおり「受けるよりは与えられる方が幸い」という言葉どおりにしているように見えます。しかし、心からの御礼も受け取らないとなると、何か逆に「愛がないなあ」と思えてきます。受け取るのも愛ではないか、と。
 そう考えてみると、世の中には、今例に挙げた人のような方が、けっこういるように思います。「人からものをもらうのは、なにか借りを作ったようで好きではない」というように考えるのです。「お返しを考えるのがたいへんだ」ということになる。
 イエスさまがおっしゃったのは、そういうことなのでしょうか? たとえば、与えるものを持っておらず、受け取ることによってしか生きることが出来ない人は、幸いではないのでしょうか? どうもそういうことをおっしゃったのではないようです。
 ここで言葉を詳しく見たいのですが、「受ける」と日本語に訳されている言葉、このギリシャ語(ランバノー)には、たしかに「受け取る」という意味もあるのですが、それよりも「得る」そして「取る」という意味が最初に出てきます。そうすると、だんだん分かってくるように思います。
 多くの人は、多く得ようと思って生きているのではないでしょうか。多くの報酬、多くの財産、多くの知識‥‥というように。しかし「与える方が幸い」と言われた時に、それはなんのために得るのか、ということが問題となるように思います。得るのが悪いというのではない。なぜなら、得なくては、受けなくては与えることができないからです。だから、なんのために得るのか、受けるのか。それは、与えるために得るのだ、ということになります。
 創世記12章の最初を読むと、アブラムが聞いた神の言葉が記されています。その中で主なる神は、アブラハムを祝福の源とするということをおっしゃっています。アブラハムを通して世界の人々が祝福される、その祝福の源となるためにアブラハムを祝福すると。そういうことが言われています。これはアブラハムから見ると、「与えるために受ける」ということになります。もちろん、アブラハムとその家族が生きるためにも受ける。しかしそれ以上に受けるのは、人々を祝福し、祝福を与えるために受ける。そういうことになります。
 
     愛を与える
 
 さて、次に主イエスが「与える」と言われたのは、物のこと、金品のことでしょうか? もちろん、具体的にはそういう物も含まれるでしょうが、突き詰めて言うと「与える」のは金品のことなのか?
 イエスさまはどうなさったか。もちろん、5つのパンと2匹の魚の奇跡では、5000人の人々を奇跡によって養ったということがありました。しかしその5つのパンと2匹の魚も、イエスさまが持っていたものではなく、イエスさまに献げられたものでした。イエスさまがお与えになったのは、品物、金品だったでしょうか。そういう物はイエスさまは持っていませんでした。ほとんど無一物でした。しかしイエスさまが人々に多くのものをお与えになったことは、誰でも分かることです。イエスさまはなにをお与えになったのか?
 それは愛です。イエスさまが病人を癒やされた。それは愛による奇跡でした。5つのパンと2匹の魚で多くの人々を食べさせた。これも愛でした。悪霊にとりつかれて苦しむ人から悪霊を追い出された。これも愛から出た奇跡でした。そのようにイエスさまがお与えになったのは、愛でした。
 そして十字架です。イエスさまは、ご自分の命を十字架の上にお献げなさいました。それは、滅びても当然のこの罪人の私たちを救うためでした。このわたしたちひとりひとりを救うために、ご自分の命を捨てられた。究極の愛です。十字架は愛の結晶です。
 きょうの聖書個所に戻りますが、それゆえ愛がなければ、なにを与えてもむなしいものとなります。(Tコリント 13:3)「全財産を貧しい人のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」
 それゆえ、ものであれ、奉仕であれ、愛を与えるのだということになります。「受けるよりは与える方が幸い」とは、愛を受けようとするよりは、愛を与えようとする方が幸いだと、イエスさまがおっしゃったということになるでしょう。そのとき、この世の物はなにも持っていない人でも、与えるものがあるということになります。
 楠本史郎先生の書かれた『教会に生きる』という本があります。私は長くこの本を、洗礼準備会のテキストとして使っておりますので、ご存知の方も多いと思います。その中で、このような証しが書かれています。
 「人はだれでも年老いて人の助けを必要とするようになります。そのとき、必要に応じて受け入れます。ある年配の女性が倒れ、寝たきりの状態となりました。娘さんだけでは十分に看護をすることができません。若い人たちが奉仕を申し出ました。それぞれが時問を看護にささけました。知恵もささげ、いろいろな方法を考え出しました。看護ノートをつけて互いに連絡しあいました。話すことができなくなったその女性との会話を試み、五十音表を使い、まばたきの合図で言葉を交わすという手段を発明しました。そのように交流しているうちに、看護する側の若者たちがその女性に悩みを打ち明けたり、話を聞いてもらうようになりました。にこにこしながらじっと聞いてくれます。きっとその人のために祈ってくれていたのでしょう。そうして重荷から解放された人たちがいました。キリスト者であるその女性とのまばたきの会話で、聖書の信仰へと導かれた人もありました。人の働きを受けることで、かえって相手を救うことがあるのです。」
 この寝たきりの女性は、形としては若い人たちの看護を受けました。しかし単に受けただけではない。確かに与えている。なにを与えているかと言えば、愛を与えていると言えるでしょう。
 
     主に愛されているから
 
 私たちは、まず主イエス・キリストによって愛を与えられていることに気がつく必要があります。「受けるよりは与える方が幸いである。」この言葉をおっしゃったイエスさまは、多くの愛を与えながら、ご自分自身を与えながら、弟子たちに見捨てられ、人々からののしられて十字架につけられました。にもかかわらず、その私たちを救うために、ご自分を献げて下さった。それはまさに「受けるよりは与える方が幸いである」という、主イエス御自身のことであると言えます。このイエスさまによって、私たちはどこまでも愛されている。まずこのことを心に留めたいと思います。


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